島津と言えば、戦国時代に活躍した義久(よしひさ)や義弘(よしひろ)、幕末の斉彬(なりあきら)など名君ぞろいですよね。「島津に暗君なし」なんて言葉も。しかし、薩摩藩初代藩主にして義久の甥、そして義弘の息子である忠恒(ただつね)、この人はなかなかキツイ部分がありました。もちろん、初代藩主としてちゃんとやることやってたんですが、それよりもインパクトの大きすぎる話がたくさんありまして…。ちょっと、ご紹介したいと思います。
義久の甥にして義弘の息子というハイブリッドなのに…
島津義弘:Wikipediaより引用
忠恒は、天正4(1576)年に島津義弘の三男として生まれました。長男は夭逝、二男が久保(ひさやす)となります。父・義弘は戦国時代屈指の名将で、数多くの戦で武功を挙げ天下にその名を知られていました。
伯父であり島津の当主でもある義久には男子がいなかったため、まずは忠恒の兄・久保が義久の娘・亀寿(かめじゅ)を娶り婿養子に入ります。この辺りまでは、忠恒に家督が回ってくるとは本人ですら思わなかったことでしょう。
父・義弘も伯父・義久も久保を早くから後継者と決めていましたから、きっと久保に対する期待は相当あったんでしょうね。この2人から見込まれていたわけですから、久保もかなり出来のいい息子だったはず。
そのためか、忠恒には島津のプリンスなんて自覚などあったもんじゃなく、蹴鞠やら酒色に没頭するという、なんだかワルい少年~青年期を過ごしていました。そのため、義弘からはたびたび小言を食らっています。それでも改めないんですけどね。
腐っても島津
ところが、文禄2(1593)年のこと。
朝鮮出兵に義弘と向かった久保が、21歳の若さで病没してしまったんです。
義弘と義久の嘆きは相当なものでしたが、とにかく跡継ぎを早く決めなくてはなりません。
そこで、忠恒にお鉢が回ってきたのでした。兄嫁・亀寿と結婚するという条件付きでしたが、忠恒が断れるわけもなく…。こうして忠恒はお気楽な立場から一転、お世継ぎになったのでした。
そして、兄に代わり父と従軍した朝鮮出兵2回目・慶長の役において、忠恒は「やはり島津! 」という活躍を見せました。父の采配ではありましたが、5万もの明軍を相手に、わずか8千の兵でそれを打ち破るという武功を挙げたんです。やはり腐っても島津…才能はあったんでしょうね。
しかしながら、元が元だけに、いきなりいろいろ変わるわけもなく、横暴だったり遊び好きだったりする面は変わらなかったみたいです。
兵が朝鮮側に逃亡するわ、朝鮮での陣に蹴鞠の庭なんてものを作ったりするわ…。ちょっと、なんかアレですよね。義弘や義久なら絶対やらないですよね。でもそういうことをしちゃうから、やっぱり忠恒なんです。彼の行動を知るにつれ、この感覚はきっとお判りになると思います。
気に入らない家老を斬殺
忠恒のアレな部分が炸裂した事件が、朝鮮出兵後まもなく発生しました。
家老・伊集院忠棟(いじゅういんただむね)を斬殺しちゃったんです。
もちろん、これには伏線がありました。
豊臣秀吉の九州征伐後、有能だと評価された忠棟が豊臣方に取り立てられ、検地後には領地の分配役まで任されたんですね。これでは、主である島津氏側としては、正直、面白くなかったでしょう。主を差し置いて専横の極み…! とでも忠恒は思ったのかもしれません。
加えて、忠棟による朝鮮への補給が少なかったということもあったみたいです。また、忠棟は久保の跡継ぎには別の人物を推していたという話もありますね。
こんなことが積み重なった結果、忠恒による忠棟斬殺へとつながったのでした。
しかし、収まらなかったのが殺された伊集院忠棟の一族。
忠棟の息子・忠真(ただざね)は怒り、国許で「庄内の乱」を起こしたんです。そりゃあ怒りますよね…。しかもこの乱、島津氏では最大の乱にまで発展してしまいました。
気に入らないので家老の息子も殺す
庄内の乱には忠恒自ら出陣しますが、なかなか制圧できませんでした。そこで徳川家康の仲介により、双方イヤイヤながら和睦を結びます。
加藤清正:Wikipediaより引用
イヤイヤながらの和睦ですから、内心は収まってないわけですね。そのため、忠真は密かに加藤清正(かとうきよまさ)に密書を送り、仇討ちの支援を頼んでいたんです。
ところが、これを忠恒に知られてしまいました。
すると、忠恒は狩りに忠真を招き、その最中に射殺させてしまったんです。その上、忠真と馬を取り換えていた側近は間違いで殺され、同じ日には忠真の母や弟も殺されたという…そこまでするか!?って感じですよね。
実は忠真、忠恒の妹婿だったんですよ。しかも、射殺の件は誤射としてもみ消したんですから、忠恒の妹の気持ちを思うと、たまりません…。
ちなみに、馬を取り換えていて殺された側近・平田宗次(ひらたむねつぐ)の父・増宗(ますむね)もまた、後に誅殺されてしまうんです。
この事件は宗次の殺害とは直接関係なかったそうですが、ほぼ言いがかりだったような感じもありますよ。というのも、増宗が忠真の乱に加担したとか、島津の跡継ぎには忠恒でなく別の人物を推したとか、はっきりしないんですね。いちばん大きかったのは、時の将軍・徳川秀忠の子を養子に迎えようとして反対されたから、みたいですが。それにしたって、殺すことはないですよね。
そしてまた例のように、増宗の子や兄弟、その子供たちまで殺害したんです。れ、冷酷…!
でも、腐っても島津
こんな血なまぐさい事件ばかりが有名な忠恒ですが、やはり腐っても島津なので、やるときはやりました。
関ヶ原の戦いで、実父・義弘が西軍に加わったことを島津全体が咎められますが、その時に忠恒はいち早く上洛することを主張し、自ら家康に謝罪し、改易を免れたんです。
慶長7(1602)年には義久から家督を譲られるも、相変わらず2強(義久・義弘)が実権を握っていたので大っぴらなことはできませんでしたが、薩摩藩の初代藩主として鹿児島城を建設し城下町の整備に当たるなど、ちゃんと殿様らしいこともしたんですよ。
若い頃に相当遊んだおかげで、和歌や茶の湯に通じ、蹴鞠も剣術も一流だったそうです。
鹿児島湾の別名「錦江湾(きんこうわん)」は、忠恒が詠んだ歌に由来しているとも言われているんですよ。
ただ、やっぱり忠恒のアレなところが感じられるのは、妻・亀寿との関係でした。
そこまでする? 亀寿への仕打ちがひどすぎ
元々は兄嫁だった亀寿。忠恒よりも5つ年上ですし、何といっても伯父・義久の娘だし、それほど美人というわけでもなかったようですし…と忠恒を少し擁護しましたが、それでも、彼の仕打ちを知ると、誰もが驚くはず。
上述の通りなので、2人の仲は良くありませんでした。
忠恒は、義久の存命中はなんとか大人しくはしていましたが、義久が亡くなった途端、亀寿を別居させます。一時は経済的にも困窮させたと言うんですからひどい話。また、いきなり8人も側室を持ち、最終的に子供を33人もつくったんですから、あてつけとしか考えられませんよね。
もっとひどいのが、亀寿が亡くなった時のことです。
報せを聞いた忠恒は、歌を詠みました。いくら仲が悪かったとはいえ、思うところがあったのか…と思いきや、そうじゃなかったんですよ。
「あたし世の 雲かくれ行(いく) 神無月 しくるる袖の つはりもかな」
(はかない世のこの10月、亀寿は逝ってしまった。涙で袖が濡れるか…と言えば、そうでもないんだけどね)
これってどうなんですかね。絶対嫁ぎたくないですよね。
しかも、忠恒は亀寿のお墓すら建ててあげなかったんです。建てたのは、忠恒の子の光久(みつひさ)なんですよ。それに、2人の墓は島津歴代当主夫妻の墓のうち、唯一隣り合っていないんですって。
父・義弘は愛妻家だったのに、全然受け継いでいなかったんですね…。
後に、忠恒は「家久(いえひさ)」と改名しているんですが、あまりにもひどい話が残っているせいか、歴史好きの間では「悪い方の家久」なんて呼ばれることも。良い方の家久は、義久や義弘の弟で、名将として知られていましたからね…。
まとめ
- 若い頃は相当ヤンチャだった
- 朝鮮で武功を挙げるなど、いちおうやればできる子だった
- 気に入らない家老を斬殺した
- 反抗した家老の息子を謀殺した
- でも薩摩藩初代藩主としてちゃんとやることはやった
- 正室・亀寿への仕打ちがひどすぎ
やるときはやるんですが、やっぱり人としてはどうなんでしょう。
家臣としても仕えにくいし、女だったら嫁ぎたくない相手だったと思いますよ。
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