かつての愛人に滅亡させられたってホント!?大内義隆のお公家ぶりが半端ない

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戦国大名がみんな勇ましい感じだったとは限りません。

京風の趣味に染まった戦国大名もそれなりに存在しました。今川義元などはその例ですが、彼の場合はちゃんと強かったので問題なし。

しかし、今回ご紹介する大内義隆(おおうちよしたか)は…まさにお公家。そして箱入り息子。一時は室町幕府の中枢で権勢を誇った大内氏を、あっという間に凋落させた張本人の人生、のぞいてみませんか?「こりゃダメだ…」と思わされること間違いなしです!

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箱入り息子として

 

大内義隆は、永正4(1507)年に周防(山口県)の戦国大名・大内義興(おおうちよしおき)の嫡男として生まれました。

彼に与えられた幼名「亀童丸(きどうまる)」は、歴代の当主が受け継いできた由緒ある名前であり、彼が正当な家督継承者であることの証となります。

 

というのも、大内家は代替わりの時にしょっちゅう争いを起こす家だったんですね。よくここまで滅びずに残ってきたものだと思いますが、父・義興はそれをようやく学習した人物だったのか、義隆を早くから嫡子と定めることで後継者争いを防ごうとしたんです。

 

しかし、争いは起きませんでしたが、これが義隆を箱入り息子にしてしまったわけで…。

幼い義隆は、乳母や女房に囲まれて育ち、争いとは無縁のぬるま湯…ならぬ平穏な幼少時代を過ごします。

 

で、この大内家、元々は室町幕府とのつながりが深く、父・義興は将軍の後見人にまでなった人物。また、応仁の乱の後に荒れ果てた京から多くの公家がここに逃げてきており、公家文化はかなり身近だったんですよ。

そのため、義隆が公家文化に染まるのも時間の問題だったわけです。いや、染まったとしても武将としてちゃんとしていれば問題なかったんですけれどね。

 

若い頃はけっこうやり手だった

元服した義隆は、父に従い戦場へと赴きます。

当時、中国地方を大内氏と二分していたライバル・尼子(あまご)氏との戦いや、安芸(あき/広島県西部)、北九州への派兵など、かなり積極的な勢力拡大戦略を展開しました。

 

そして22歳の時に父が亡くなり家督を継ぎます。この頃が、義隆にとっても最も野心に燃えた、ある意味「いい時代」だったんですよ。

 

北九州を制した義隆は、大陸との貿易も盛んに行い、日明貿易を独占します。輸入した経典を元に独自版を出版していますし、城を築かずに館を築き、あくまで独自路線、そして京風のスタイルを貫きました。

フランシスコ・ザビエル:Wikipediaより引用

もう少し先になりますが、フランシスコ・ザビエルが来訪した際には、義隆がキリスト教の布教許可を出しています。こういうところ、意外と先進的ではありますよね。

 

また、尼子氏との戦いの中では、尼子方だった毛利元就を寝返らせて傘下に入れ、尼子氏との直接対決「吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)の戦い」にも勝利を収めます。この時活躍したのが、後に義隆の足元をすくうこととなる陶隆房(すえたかふさ/後の陶晴賢/はるかた)です。この人の名前、覚えておいてくださいね。

 

義隆を支える家臣団が有能だったことも幸いし、大内氏の勢いは中国地方のどの戦国大名よりも盛んになっていきました。

すると、中国地方制覇も夢ではない…という野望が義隆の胸に芽生えたわけです。

 

 

大敗で息子を失いやる気をなくす

富田月山城絵図:Wikipediaより引用

天文11(1542)年、宿敵・尼子氏を叩きのめそうと、義隆は出雲(島根県)の月山富田城(がっさんとだじょう)への遠征を決定します。この時、武断派の強力な後押しがあったために、義隆はこれを強行したんですね。

 

実は、大内家内では武将たちを中心とした「武断派(ぶだんは)」と、内政を担当していた「文治派(ぶんちは)」の対立が鮮明化していました。関ヶ原の戦いの時に加藤清正らの「武断派」と石田三成らの「文治派」が登場しますが、すでにこの時点で大内家内にはこの対立が存在していたわけで、ある意味、大内氏がそれだけ進歩的であったということにもなります。

 

しかし、尼子方のゲリラ戦や、味方と思っていた豪族の寝返りなどが相次ぎ、大内軍はまさかの大敗を喫してしまいました。

そして、跡継ぎとして大事にしていた養子の晴持(はるもち)を失ってしまったんです。

しかもその死に方も悲惨で、船で逃げる途中に、何とか乗り込もうとしてくる人々を蹴落とそうとしたはずみで船が転覆、溺死というものだったんですよ。

 

これでは、悔やんでも悔やみきれない息子の死。

 

国に戻った義隆は、気落ちしたきりでした。

そして、今までの野望などまるでなかったかのように、戦への関心を失ってしまったんです。

 

 

戦など知らん! お公家万歳、宴会三昧

大内義隆:Wikipediaより引用

月山富田城での大敗以降、義隆はひたすら公家文化に溺れていきました。酒宴や歌会、能楽に明け暮れ、戦などにはまったく見向きもしなくなってしまったんです。

 

それはそれで、文化面には良い影響もあったんですよ。先に述べたように明との貿易もしましたし、ザビエルが来訪したことで南蛮の貴重な品々が流入し、公家たちの避難場所でもあったこの地は「西の京」と呼ばれるほど京風の文化が成熟したんです。

 

ただ、これは、陶隆房らを筆頭とした武断派にとっては耐え難いことでもありました。

何を言っても義隆はまず文治派に相談し重用したため、武断派と文治派の対立、そして武断派の義隆への不信感が深まっていったんですよ。

 

とは言っても、義隆は100%文治派の言うことを聞いていたわけではありません。

義隆に不信を抱いた武断派たちによる謀反の噂が流れると、文治派は討伐を義隆に進言しますが、義隆はこれを受け入れませんでした。

まあ、はっきり言って、決断力がなかっただけなんですよね。

こういうところに、元々坊ちゃん育ちだった彼の弱点が表れていると思いますよ。もし後継者争いをして家督を勝ち取っていれば、もう少し果敢な判断ができたかもしれません。ただ、後継者争いは時に家の弱体化を招くものであり、どちらが良かったとは一概には言えないものですが…。

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義隆の元愛人・陶隆房

武断派筆頭・陶隆房は、すっかりやる気をなくした主に対して不満を募らせていました。

元々、隆房は義隆の小姓であり、かつては美少年として有名だったんです。

つまりは、義隆の愛人みたいな役目も果たしていたんですね。

義隆に彼がいかに気に入られていたかは、義隆の「隆」の一字をもらって元服したことからもわかります。

 

しかし、元服してしまえば前のように気安い関係ではなくなるもの。隆房は武将として義隆に忠誠を尽くし、数々の武功を挙げましたが、戦に興味をなくした義隆にとっては、すでに隆房は「戦、戦」とうるさい存在になっていったんです。

 

また、文治派の代表・相良武任(さがらたけとう)が義隆に重用されるのも、隆房にとっては面白くありませんでした。義隆の放蕩のために増税が成され、領民が苦しむのも、隆房としては文治派が悪いと思っていたわけです。

 

そして、両者の対立は、隆房による武任暗殺謀議にまで至り、それを悟った武任は義隆に隆房謀反の気ありと密告するまでになり、義隆を間に挟んだドロドロの勢力争いに発展していったのでした。

 

陶隆房の謀反:大寧寺の変

武断派と文治派のいざこざがこじれにこじれた結果、陶隆房はついに謀反を起こし、反・義隆の兵を挙げます。

これが、天文20(1551)年の大寧寺の変(たいねいじのへん)です。

 

しかし、義隆は隆房の兵が領地に侵攻してきても、なかなか動こうとはしませんでした。それどころか、宴会や能に興じていたと言います。どこまでバカ殿になってしまったのか…!

そうこうしているうちに、隆房の軍が大内館に迫ってきてしまいました。そこでようやく、義隆は重い腰を上げたのです。しかし、すでに遅すぎました。

 

義隆の放蕩ぶりは、他の家臣たちの心も彼から離れさせていったのです。彼を助ける家臣は少なく、わずかな手勢だけが従うのみでした。

深刻な状況であることを悟った義隆は、縁戚を頼って脱出しようとしますが、ここで天が彼を見離します。折からの暴風雨によって、逃げることができなくなってしまったのでした。

 

そして、大寧寺(山口県長門市)に逃げ込んだ義隆を、隆房の軍勢が包囲します。

ここでようやく覚悟を決めた義隆は、側近の介錯によって自刃して果てたのでした。

享年45。

 

周防に京文化を成熟させたという功績はあるものの、戦国大名としては実に残念な最期を遂げたのでした。

彼の実子も殺害され、ここで31代の長きにわたって続いてきた名門・大内氏は事実上の滅亡を迎えることとなったのです。

 

なんだかもう、残念としか言いようがありません…。

 

まとめ

  1. 後継者争いを避けるため、箱入り息子として大事に育てられた
  2. 若い頃はわりとよく頑張って遠征して領土を拡大した
  3. 調子に乗って遠征したら負けて息子も失った
  4. ヤケになって放蕩三昧
  5. 遊んでいる間に家臣たちが分裂
  6. 元愛人に謀反を起こされ討たれる

 

こうしてまとめてみると、なんだかなあという感じです。

 

それでも、大内氏が相当の勢力を一時代に築いたことは間違いないんですけれどね。

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