戦国時代というくらいですから、「戦」はつきもの。そして、負ければ命も危うくなるのは当然のことでした。特に、城を持っている戦国大名は、自分の城は命と同じくらいの価値があったんですよ。
そんな命と同じ城を、奪われては取り戻し、奪われては取り戻し…を繰り返して約30年。とことん戦に弱かった戦国大名がいたんです。彼の名は、小田氏治(おだうじはる)。しかし、彼は戦場で命を落とすことなく、ひたすら負け戦を挑み続けました。時に「不死鳥」と巷で呼ばれる彼の華麗なる(?)戦歴を、見ていきましょう。
織田ならぬ小田って誰?
今回お話しするのは、織田ではなくて小田です。
小田氏は、源頼朝に従った有力豪族で、鎌倉時代から常陸(ひたち)国筑波郡小田邑(おだゆう/茨城県つくば市小田)を中心とした一帯を支配していました。
天文3(1534)年、もしくは享禄4(1531)年に生まれたという氏治は、小田氏中興の祖と呼ばれる名君・政治(まさはる)を父に持っていましたが、その死に伴い10代で家督を相続することとなりました。すでにここから肩の荷が重い感じです。
当時の関東地方は、しっちゃかめっちゃかという表現がぴったりはまるほどの大混乱時代。様々な勢力が入り乱れ、敵味方もコロコロと入れ替わる日々で、誰が味方で誰が敵かわからなくなってしまうような状況でした。そんな中、越後(新潟県)には最強の誉れ高き「軍神」上杉謙信、小田原(神奈川県)には北条氏康(ほうじょううじやす)が勢力を拡大しているところでした。
そして、小田家第15代当主となった氏治ですが、同時に、最後の当主となる運命だったんですよ…。それもすべて、時代の混乱のなせる業だったとしか思えません。
手始めに近くの奴らと小競り合うも城を奪われる悲劇
戦国大名たるもの、自分の領地だけを守っていればいいという話ではありません。誰もが領土拡大の野望を抱くものなんです。氏治もその例に漏れず、かなり積極的に周辺へ戦を仕掛けていきました。まだ自分の戦下手には気付いていません(というか一生気付いていない)。
とりあえず、近くの結城(ゆうき)氏を攻めてみますが、さっそく敗戦。しかも、いきなり本拠地の小田城を奪われてしまうんです。
その後、結城氏を援助していた北条氏康に取り込まれて小田城を返してもらいますが、今度は同じ常陸国の豪族・佐竹義昭(さたけよしあき)がケンカ相手に。
そして佐竹に攻め込まれて敗走、またも小田城を奪われてしまうんですよ。しかしこの時は家臣の頑張りによって城を取り戻しています。
これ、たった4年の間に起きた出来事ですよ。やられ過ぎじゃないですか?
勢力拡大してたら上杉謙信にボコられる
当時の関東では、大まかな流れとして、上杉謙信+関東の武将たち(氏治含む)VS北条氏康+結城氏の構図ができ上がっていました。
そのため、氏治は謙信の小田原攻撃に上杉方として参戦しますが、翌年、氏康の誘いに乗って寝返ります。流れを読んでいるのか、思いつきなのか、よくわかりません…。
そして、上杉方だった佐竹の留守を狙って攻撃を仕掛けて、留守居役の家臣を破っています。貴重な勝ちですが、やり方があんまり綺麗じゃないですよね。
そんな感じで勢力を拡大しようとしていたところ、氏治の行動に怒った佐竹をはじめとした関東諸将たちが、謙信に「氏治のやつ裏切りやがって攻撃してくるんです」と訴え出たため、何と謙信自ら軍を率いて氏治を攻めてきたんです。しかも超高速でやって来ました(神速と呼ばれるほど)。永禄7(1564)年のことでした。
まさか軍神が直々にやって来るとは思わない氏治、あっさりと撃破されました…。そして翌年、佐竹らによって小田城は落城してしまったんです。
しかし運に恵まれているというか、ちょっと笑ってしまう話が残っています。
謙信相手に奮戦した氏治ですが、敗色濃厚となり退却します。そして馬に川で水を飲ませていると(早く逃げろって思うんですが)、上杉方の兵に見つかり、矢を射かけられてしまったんです。しかも命中! ところが、氏治がなかなか上物の鎧を着ていたので貫通することはありませんでした。命拾い。良かったですね、氏治…!
終生のライバル(?)佐竹氏との戦い
一度や二度、城を奪われたからといって諦めるような氏治ではありません。小田城落城の翌年、佐竹義昭が亡くなった隙に小田城を奪還します。
ところが、これに謙信が激怒。「喪も明けないうちから攻め込むとは何事だ!」と義を重んじる軍神の怒りはすさまじく、またも氏治は小田城を捨てて敗走、土浦城へ逃げ込みます。
しかし謙信相手にはどうすることもできないので、永禄11(1568)年、本当にごめんなさいと降伏して小田城を返してもらったのでした。
もうちょっと、空気読もう、氏治?と言いたくなります。
さて、佐竹義昭が亡くなると息子の義重(よししげ)が後を継ぎ、氏治との小競り合いは続きます。
しかし、元亀4(1573)年元旦の明け方、いきなり佐竹方が小田城に奇襲をかけてきたんですよ。氏治といえば、大晦日に連歌会なんかやってたおかげですっかり油断しており、当然のことながら敗走、小田城もまた奪われました。
一応この時はすぐ取り返したんですが、次の佐竹との戦いでまた負けて、今度は本当に小田城を取られてしまいます。これ以降、氏治は小田城を奪還することはありませんでした。
持つべきものは出来た息子と家臣といい領民!
氏治の息子・友治(ともはる)は、北条氏政(うじまさ)に仕えていました。父の窮状を知った彼は、氏政に父を助けて欲しいとはたらきかけたんです。そして北条氏が援軍を出してくれたおかげで、氏治は何とか佐竹と戦いを継続することができたわけなんですよ。
しかし、ここまで何度「奪われた」とか「敗走」とか書いてきたかわからないくらいですよね。しかも、だいたい氏治が仕掛けてやられるっていうパターンが多いんです。つまりは、本当に戦下手なんですよね…。時機が読めないというか、思い込んだら一直線というか…。
それでも、家臣団は氏治を見捨てませんでした。氏治が何度負けても首を取られるまでに至らなかったのは、武勇で知られる小田家家臣団がいたからなんですよ。
ある家臣は、敵に攻められ降伏後、敵方の家臣となっていましたが、氏治が攻めてくると率先して自分の守る城を開城したそうです。
そして、氏治は領民にも慕われていました。鎌倉以来400年、ずっとこの地を治めてきたので、領民は「小田の殿様」に絶大な信頼を寄せていたみたいです。そのため、氏治が追われて新しい領主が赴任してきても、そこに年貢を納めずに、氏治のところへわざわざ送ってあげたんだそうですよ。
こんな話がちゃんと残っているのを見ると、氏治には人としての魅力が相当あったんじゃないかと思わされますよね。たぶん、「出来た人間」というより、「ほっとけない人」だったんじゃないかと思ってしまいます。
佐竹にばかり集中しすぎて、天下の流れを見てなかった
こんなふうに、佐竹との戦(佐竹からすればちょっかいレベル)に没頭していたおかげで、氏治は世の中がどんなことになっているかすっかり忘れていたようです。
時は天正18(1590)年、織田信長はすでに無く、代わって豊臣秀吉が天下統一まであと一歩のところまで来ていたんです。その集大成として、秀吉は小田原征伐を行い、北条氏を攻撃し始めていました。
それでも、氏治には「小田城奪還+打倒・佐竹」しか見えていなかったようですよ。この時、もう少しで城を奪い返せそうなところまで行きましたが、果たせませんでした。
そこで北条氏政に助けを求めますが、氏政、秀吉に攻められていてそれどころじゃありません。こんな時に北条に助けを求めていること自体、周りが見えていなかった証拠のような気がしますよ…。
そして、氏治は大事なことを失念していたんです。
北条攻めに当たり、秀吉は近隣の戦国大名たちに参陣を要求していました。多くの武将が続々と秀吉のもとに馳せ参じ、恭順を示していたんです。もちろん佐竹義重もちゃんとやっていました。
なのに、氏治はといえば、小田城奪回に夢中で何もしなかったんです。ダメでしょ! 誰か言ってあげて!
天下人・秀吉の怒りを買う
秀吉による小田原征伐は、豊臣方の勝利で幕を下ろしました。北条氏政は切腹しています。
さて、ここに至って秀吉が怒り出しました。
「小田氏治とやらは何をしておるのじゃ!?わしのところに来もせず、わしの家臣となった佐竹を攻めているとは何事!!」
氏治は、軍神・上杉謙信に続き、天下人・秀吉を怒らせてしまったんです。
そして、氏治の所領はすべて没収されてしまい、彼は大名という身分を失ってしまったのです。これで、大名としての小田氏は終焉を迎えることになってしまいました。
もう少し、周りを見ていたらこんなことにはならなかったのに…!
その後、氏治は結城秀康(ゆうきひでやす/徳川家康の二男、秀吉の養子)の元に客分として厄介になります。娘が秀康の側室になっていたという縁があったためでした。
秀康が結城(茨城県結城市)から越前(福井県)に転封となると、共にそちらに移り、慶長6(1601)年に70歳前後で亡くなっています。関ヶ原の戦いの後まで生き延びた、実に波乱万丈の人生でした。
さて、氏治の戦歴ですが、46戦19勝21敗(勝敗つかず:6回)。
あんまり誉められたものではないですが、それなりに勝ってもいたんですよ。
ただ、負けっぷりがすごすぎて、勝利の存在感は、ナシです。それにしても、これだけ負けてよく生き延びてきましたよね。
まとめ
- 小田氏は関東でも名門の一族だった
- 2年に1回のハイペースで城を奪われる
- 勢力拡大のチャンスを上杉謙信につぶされる
- とにかく佐竹氏をライバル視していた
- 戦下手でも家臣と領民が支えてくれた
- 佐竹との戦に夢中で世の中のことは失念
- 豊臣秀吉の怒りを買って領地没収
これだけ負けまくっているのに、悲壮感がないのが氏治のすごいところ。
しかし、一国の主ならばもう少し情勢を見極めないとダメですよね。でも、そんな欠点にすら親しみが沸いてしまいますよ。
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