小早川秀秋“天下の裏切り者”

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小早川秀秋と来れば即“天下の裏切り者”と返ってきますが、この方今に絵姿として伝わっている図を見ますと、とてもとても戦国の荒大名とは思えません。

いかにも優し気な色白のお公家さんと言った風情です。それほど性根の座った悪人だったのでしょうか。

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金吾って誰?

天正10年(西暦1582年)、近江の国は琵琶湖のほとり長浜に、木下家の5番目の男の子が産声をあげました。父親木下家定は、羽柴筑前の守秀吉の正妻おねの実の兄です。

 

幼名を辰之助と名付けられましたが、誰もそう呼ぶ者はいません。「これ金吾」であり「金吾様」だったのです。

“金吾”とは何ぞや?

これは官職の名前で、天子の住まわれる御所諸門の警備にあたる役所、衛門府の長官を指しています。日本式に言えば左衛門督(さえもんのかみ)、右衛門督(うえもんのかみ)、それを唐式に執金吾(しつきんご)言ったもので、ちなみに左と右では左の方が位は上位。

 

もともとは後漢王朝の開祖光武帝劉秀(こうぶてい、りゅうしゅう)が若いころに詠んだ漢詩の対句

『仕官当作執金吾 娶妻当得陰麗華』

(仕官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華)から来ています。

陰麗華:Wikipediaより引用

きらびやかな服装で都の警備にあたり、若者たちのあこがれの官職だったそうです。

ともあれわずか3歳にして、名前だけとは言えそんな大層な要職に就いたこの坊や何者?

金吾可愛や

北政所(おね):Wikipediaより引用

羽柴様の正妻おね殿の甥御として生まれればそれだけで恵まれていますが、この坊や3歳の時に後の天下人秀吉の養子になりました。

 

秀吉は晩年まで実子に恵まれず、跡継ぎをどうするかに悩んで養子を迎えたわけですが、この坊や先程も申した通り5番目の男の子なのです。

 

兄4人を差し置いて羽柴様、おね様の目に留まるほどの何かを持っていたのでしょうか。一説にはおねの方がその利発さ愛らしさを気に入り、秀吉に是非にと請うて養子にしたと言います。

 

寛永諸家系図伝にも『3歳にして秀吉の養子となり左衛門督に任ず』と記録されています。

 

金吾晴れの日

後陽成天皇:Wikipediaより引用

天正16年4月14日、昨年完成した秀吉ご自慢の京都聚楽第に、後陽成天皇の行幸を仰ぐ日です。17歳の帝の御輿を中心にお供や警固の武士、随従する武将、陪臣の大行列が続々到着します。

 

歓迎の式典、雅楽の演奏、歌会、酒宴と5日間にもわたる催しの最中、北政所おねより6種の献上品が届けられますが、その使者に立ったのが6歳になったばかりの金吾秀秋でした。

 

(この時辰之助は元服して羽柴秀俊を名乗っていましたが、生涯何度か姓名が変わるたびに変更するは混乱を招くので、以後は小早川秀秋・金吾秀秋で通します。)

 

そして主要大名の起請文が読み上げられました。日付の後に前田利家、宇喜多秀家、徳川家康以下20名あまりの錚々たる大名の署名が書かれた正式なものです。内容はこの盛儀に参列できた喜び、朝廷や公家衆を尊重する旨、関白秀吉の命に従うなど形式的なものでしたが、驚いたのはその宛名。

 

後陽成帝と秀吉への誓詞にも拘わらず、宛名が「金吾殿」だったからです。帝もご臨席の場でのこの扱い、可愛がられていたのですねぇ、この頃は。

運命が転がり始める

聚楽第の盛儀から2年ばかり後、秀秋は京都の丹波亀山城に10万石の領地を与えられます。

1人立ちせよとの秀吉の心積もりでした。

10歳の時には中納言の位に就き、豊臣姓を名乗るようにもなりました。このことにより金吾中納言とも呼ばれます。

 

10歳になるかならぬかの子供に城を1つ与える。

優遇と見えるかもしれませんが、それまでの亀山城主小吉秀勝は地行不足を秀吉に訴えて不興を買い、越前の小藩に移されています。

また7年前の城主はあの明智光秀でした。けっして縁起の良い城では無かったのです。

 

そしてこの頃には京都淀城で、秀吉に初めての子が生まれていました。愛妾淀殿を母として生まれた我が子鶴松に、秀吉の関心は一気に移ってしまいます。

 

ところがこの鶴松君はわずか2歳で他界、落胆した秀吉は関白職を筆頭養子の秀次に譲り、金吾秀秋への関心も少し戻って来たようです。

秀次は秀秋より14歳ばかり年上で、関白と言う高い地位を譲られたのですから、世間の見る目も「太閤様の跡継ぎ」で一致していました。

 

秀秋の立場はと言うと、秀次にもしもの事が有った場合の保険のようなものでしょうか。

現在と違い当時の人の命は儚いものです。

またもともと係累の少ない秀吉は、正妻おねの血縁である秀秋を大切に思ったのでしょう、この頃までは。

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運命の子、お拾誕生

文禄2年(西暦1593年)、秀秋の運命が本格的に転がり始めます。

秀吉と愛妾淀殿の間に幼名拾丸(ひろいまる)、後の豊臣秀頼が誕生したのです。この時秀吉57歳、おそらくこれが自分が儲けることの出来る、最後の子と思ったことでしょう。

 

「是が非でもでもこの愛し子に自分の後を継がせたい。」

 

拾丸誕生当初は、すでに関白の位に就いている秀次に天下を譲り、その後に秀頼に継承させれば良いと考え、秀頼に秀次の娘を娶らせようと画策もしました。

 

しかし老い先短い自分の命を考えた時、それではあまりにも不安。一旦天下を秀次に譲ってしまえばその子孫に引き継がれ、秀頼の元へは戻ってこないだろう。自分の目の黒いうちに、秀頼の立場を確かなものにして置かなければ。

 

兄弟でさえ家の家督を巡って殺し合う戦国の世、こう考えても無理は有りません。

 

 

秀次をなんとかせにゃぁなぁ

豊臣秀次:Wikipediaより引用

秀吉は矢継ぎ早に手を打ちます。

 

文禄4年(西暦1595年)6月、秀次は突然謀反の疑いをかけられます。

これは口実を設けてのでっち上げのようなものでしたが、この後次々と秀吉からの沙汰が下り、結局は強制出家、高野山に蟄居を経て秀次切腹となります。

同時に妻妾、若君、姫、家臣、小姓などが処刑・殉死となり約60余名の命が消えて行きました。

 

この一連の騒動を横目で見ていたのが秀秋です。

こちらも拾丸誕生のあおりを喰らって豊臣籍を離れ、毛利家の家臣小早川家の養子に押し込まれていたのです。

一時は関白とまでなった秀次一族の無残な最期を知り、今は小早川姓となったものの、同じ立場であった自身の身の危うさを感じたことでしょう。

 

心中の不安を紛らすためでしょうか、この頃より酒をあおり埒も無き振る舞いが目に付くようになります。馬を駆って好き三昧の遠乗り、日がな一日川に船を浮かべて釣りに興じる、果ては他家の色小姓に付文をする。

 

朝鮮出兵のおりには秀吉の不興を買う振る舞いもありましたが、秀次の様な破滅には見舞われず、なんとか秀吉の死を見送ることが出来ました。

 

 

さて関ヶ原

関ヶ原の合戦:Wikipediaより引用

時は過ぎます。

慶長5年(西暦1600年)6月半ば、不穏な動きを見せる上杉家討伐のため、徳川家康率いる一軍が会津遠征の途に就きます。福島正則、細川忠興、本田忠勝など家康に心を寄せる一団で、秀秋も最初はそれに参加するつもりで、1万程の兵を引き連れて大阪までやって来ました。

 

ところが大阪に着いた時にはすでに石田三成による家康打倒の挙兵が行われており、秀秋はこれに巻き込まれる形で、西軍所属になってしまったのです。で、先に家康が引き連れて行ったのが東軍ってわけ。

 

こんな分け方で良いのかと思いますが・・・。秀秋、どれほどの覚悟で西軍に付いたのだ?

 

行きがかりとはいえ西軍の武将となった秀秋、徳川方が籠る伏見城攻めに参加したのちは、関ヶ原へ向かいます。

 

おね様の血縁であり1度は秀吉の養子となった秀秋、西軍に付くのが当然と世間は見ていたでしょうが、内心はどうだったでしょう。秀次に対する秀吉の仕打ち、また今は大阪城に在る秀頼のせいで奪われた自分の地位、心から豊臣のために戦おうと思ったかは疑問です。

 

 

裏切り

決戦当日秀秋は南から関ヶ原を一望できる松尾山に陣を構えます。で、構えたっきり動こうとしません。西軍三成からも東軍家康からも、出陣をせかす使者が来てせっつきます。すでに内々で書状を交わし、どちらへも良い返事を送っていたのです。領地の増加を約束する書状も届きますが、それでも動きません。

 

秀秋は何を迷っていたのでしょう。どちらに付いた方が得かを天秤にかけていたとも思えません。小さいころに可愛がってくれた秀吉への恩義でしょうか。秀次一族の最後の無残な有様、自分を捨てあっさり秀頼に乗り換えられた屈辱でしょうか。自身の率いる1万5千の兵力の重みは良く分かっていました。

 

膠着状態の戦況を変えたのは小早川軍でした。西軍の大谷軍に攻めかかると近くの脇坂軍、朽木軍など4将が東軍に寝返り、大谷軍は壊滅します。これを契機に西軍は総崩れとなり、東軍が勝利をおさめます。結局秀秋は西軍を裏切りました。

 

 

最後

大谷刑部の祟りに怯える秀秋:Wikipediaより引用

結果として秀秋の働きにより東軍は勝利を得たので、戦後の論功行賞では備前・美作51万石を与えられました。

立派な大大名です。

藩内の経営にも心を砕き、決して暗君ではありませんでしたが、“天下の裏切り者”の名は付いて回ります。

 

関ヶ原の戦いの2年後慶長7年秋、鷹狩りに出たのち体調すぐれず寝込み、そのまま亡くなりました。時に秀秋21歳、この短い生涯の間で実に様々な事に出会ったものだと思います。

 

死因については関ヶ原の戦いで裏切った大谷吉継の祟りだとか、殺生禁断の西大寺東川で網を打った神罰だとか言い伝えもありますが、普通に過度の飲酒によるものでしょう。

 

愚鈍でも無ければ残虐でも無かった、決定的な窮地に落ち込んだ訳でも無い。

戦国の乱世を考えれば、若死にとは言えまずまずの人生だったでしょう。

ただ傍にいた秀吉に比べて、意志も個性も薄かったとは言えます。

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