山中鹿之助幸盛 我に七難八苦を与えたまへ

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いくら「この君こそ、我が生涯のあるじ」と思い定めてもそこは戦国の世、主君はあっさりやられてしまうわ、跡取りの若君はイマイチだわでは、忠誠心の持って行き所がありません。

 

しかしここに、滅びた主家に生涯忠誠を捧げ続け、お家再興を願いながら散っていった男が居ました。その物語などお話します。

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鹿之助誕生

天文14年(1545年)山陰・中国地方を領する尼子氏の本城、出雲の富田(とだ)城下に、1人の男の子が生まれました。尼子の重臣山中一族の三河守満幸(みつゆき)の次男で、幼名を甚次郎(じんじろう)と申します。

 

幼いころから膂力・胆力人に優れ、将たるの器、人心さわやかに弱きものを良く慈しみと、絵に描いたような男ぶり。そう伝わっているのです。

 

兄の甚太郎が病弱だったため、16歳の時兄に替わって山中家の当主となりました。兄に呼ばれ座敷におもむくと、床の間に三日月の前立と、見事な鹿の角の脇立の兜が飾ってあります。

 

口を開いた兄は「この兜は先祖伝来の我が家の重宝、今日より家督と共にお前に譲る。身体頑健のお前は立派な武士となり、私に替わって家名を上げてくれ」と、申し渡しました。

 

喜びと共に、責任の重さに身の引き締まる思いの甚次郎に、そばから母親も申し添えます。「今は御主君尼子家に昔日の御威光は無い、毛利に後れを取るばかり。そなたはよくよく尼子家にお仕えし、昔を今に戻しておくれ」

 

この日より幼名甚次郎改め山中鹿之助幸盛と名乗り、主家再興を固く心に誓ったのです。その思いは彼がこの世を去る日まで、終生変わることは有りませんでした。

 

 

鹿之助世に出る

幼少より力・心ばえ衆に優れた鹿之助でしたが、10代の半ばになると尼子家臣団の中でも頭角を現し始めます。立原源太兵衛久綱、熊谷新右衛門とならび「尼子三傑」と称され、戦いでは尼子軍の陣頭に立つようになります。

 

一般には「尼子十勇士」が有名ですが、こちらは藪中茨之助・植田早苗之助などの名前からも分かる通り、創作の疑いが強いのです。

 

永禄3年(1560年)、尼子中興の祖と謳われた経久(つねひさ)の孫晴久が死に、その子義久が尼子家当主となります。この頃には尼子の領国は、わずかに出雲の国を占めるばかりでした。

 

この頃より毛利方は、本腰を入れて尼子を潰しにかかります。

 

この年義久に従って初陣を飾った鹿之助は、伯耆尾高城(ほうきおだかじょう)攻めで、出雲・伯耆に豪勇を以て知られた菊池音八を、一騎討ちで討ち取りました。

 

 

鹿と狼

永禄5年(1562年)毛利元就は、ついに尼子の本城富田城攻めにかかります。まず城の周囲に砦を築いて2万5千の大軍で包囲し、城を孤立させ出城との連絡を絶ちます。その一方で、尼子の出城をひとつひとつ潰して行く作戦です。

 

まず蜂塚右衛門尉が守る伯耆江尾(えび)城を落とし、次には吉田源四郎が籠る伯耆大江城も抜きます。

 

白鹿(しろが)城も毛利の大軍に囲まれ糧食尽き落城、ついに本城富田城でも戦いが始まります。

 

この時富田川の中州で鹿之助は、敵味方大勢の見守る中、毛利の武将益田越中守藤包(ふじかね)家中一番の豪の者、品川大善と一騎打ちを繰り広げます。

 

品川大善は、狼は鹿よりも強いと名前を“棫木狼之介勝盛(たらぎおおかみのすけかつもり)”と名乗り、また鹿が棫(たら)の木の芽を食べると角が落ちるとの言い伝えにかこつけて、鹿之助をからかいました。

 

問答無用と切りかかる鹿之助、三十余合切り結んでも勝負がつかず、両者組討ちとなります。鹿之助は一度は組み伏せられましたが、素早く短刀を抜いて下から狼之介の脇腹を二太刀刺し、弱った狼之介を跳ね返して首を獲り、勝利をおさめます。

 

「石見の国の狼、出雲の鹿が討ち取ったり。棫(たら)の木の芽は我が好物。者ども我に続け」と呼ばわり、敵をしり目に悠々と味方の陣へ戻って行きました。

 

ちなみに当時の武将は、こう言う洒落の応酬も出来ないと「暴勇ばかりの猪武者」と侮られたのです。

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尼子滅亡

鹿之助は一騎打ちに勝利をおさめ、尼子方の士気は大いに上がりましたが、それも一時のこと。富田城は堅城で、毛利方2万5千の兵力でも攻めあぐねましたが、籠城を続けても援軍の当てもなく、糧食も次第に尽きてきます。

 

兵士の士気も落ち、数十人の塊となり次々と毛利方に降って行きました。それを見た当主義久は「これ以上の戦いは無用」と毛利方に降伏を申し出、永禄9年11月21日城を開城しました。かつて中国一の太守であった戦国大名尼子氏は、ここに滅んだのです。

 

城を出る時鹿之助は義久にぴったり寄り添っていました。機会を伺い尼子氏再興をとの思いからですが、その意図は元就に見抜かれていました。義久は毛利方に取り籠められますが、鹿之助は途中で追い払われてしまったのです。その後の足取りは、有馬温泉で傷の養生をしたまでは分かっていますが、そこで途絶えます。

 

不思議なのは、なぜ毛利が鹿之助を殺さなかったかです。品川大善を打ち獲ったほどの猛将、尼子三傑として智謀も世に知られています。こんな男を生かしておいては、後々厄介なことになると誰でも分かるはずなのに、放逐されただけでこの時鹿之助は命を拾いました。

 

 

信長に縋り秀吉を頼り

次に鹿之助の名が歴史に現れるのは、3年後の永禄12年(1569年)です。この3年間どこで何をしていたのか分かっていませんが、1つ確かなのは、尼子氏再興の旗印となる尼子家ゆかりの人間を探していたことです。

 

そして探し出したのが、京都東福寺で僧侶の修行をしていた孫四郎と言う人でした。二人の間でどのようなやり取りがあったのか、孫四郎は還俗して勝久と名乗り、鹿之助と行動を共にすることを承知します。

 

ですが一度滅んだ家を再興するのは、なかなかの難事でした。鹿之助旗揚げの知らせを聞いて、地方に散らばっていた尼子の遺臣たちも集まって来ましたが、その数6,000が精一杯でした。

 

自分たちだけの力ではどうにもならぬ、そこで頼ったのが織田信長です。天下を狙う信長はいずれ毛利氏と衝突する、その時どこかに尼子再興の糸口は掴めぬかと考えたのです。

 

信長はこの願いを入れました。もちろん自分の手持ち駒、捨て駒扱いですが、そこは鹿之助も承知の上。秀吉が「中国方面軍司令官」として播磨に乗り込み、対毛利の最前線の西播磨上月城(こうづきじょう)を落とした後に、勝久・鹿之助軍を入れました。

 

 

上月城落城

案の定その後戦況が変わり、上月城は毛利の大軍に囲まれます。救援を求めた秀吉宛ての書状に返って来た答えは、「城を捨てよ」の言葉でした。

 

天正6年(1578年)還俗した勝久を主君と仰ぎ、上月城に建て籠っていた尼子軍ですが、毛利勢の猛攻を受け勝久は自刃、城も落城しました。

 

多くの武士が勝久に殉じましたが、尼子再興の思いを捨てていなかった鹿之助は、毛利方に生け捕りになります。

 

その時鹿之助は、これまで付き従ってくれた武将たちに感状(感謝状)を渡しています。その中に鹿之助の絶筆となったものがありますので、ご紹介しましょう。

 

『永々牢を遂げられ、殊に当城籠城の段、比類無く候。向後に於いて聊かも忘却あるまじく候。しからば、何なりとも御奉公あるべく候。恐々謹言』七月八日 幸盛

 

これは上月城籠城戦まで付き従って来た、家臣の遠藤勘介に宛てたものです。今までのことをわすれず感謝するとともに、良き仕官先があれば遠慮なく奉公するようにと勧めています。

 

 

鹿之助の最後

山中幸盛像「月百姿」:Wikipediaより引用

捕虜として毛利輝元の陣へ送られるはずだった鹿之助は、信長より拝領した「四十里鹿毛」と言う名馬に乗って備中路を護送されて行きます。しかし尼子氏復興の指導者は、尼子一族ではなく鹿之助だと分かっていた毛利方は、彼を生かしておいてはまた戦いを挑まれると思ったのでしょう。1度痛い目に会っていますからね。

 

備中の国甲部川(こうべがわ 現在の高梁川)の阿井の渡しに差し掛かったところで、吉川元春の命を受けた刺客に切り殺されてしまいました。時に鹿之助34歳、生涯をかけたお家再興の望みもここに終わりました。

 

 

侍は渡り者

「強い方に就く」戦国の世で武者の身の処し方としてこれは当たり前で、後ろ指をさされることではありません。しかし鹿之助は、僧となっていた主家の遺児を還俗させてまで、忠義を尽くしました。やり過ぎって話もありますが。

 

「願わくは我に七難八苦を与えたまへ。それに打ち克って大功をたてん」若き日に深山にかかる三日月に祈った言葉通り、苦難ばかりの生涯でしたが、その忠節は人の心を打ちました。

 

幕末の儒者頼山陽は、鹿之助のことを「虎狼の世界に麒麟を見る」と評しています。

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