乱世の華・高橋紹運、男も女も、敵も味方も惚れ込む忠義心と鮮烈な最期!!

Pocket

戦国時代には裏切りは付きもの。

昨日の味方が今日は敵…なんてことは日常茶飯事でした(その逆もしかり)。

しかし、そんな時代でも、主に忠義を尽くし続けた武将たちは、やはりキラリと光る存在ですよね。

特に、どんなにダメな主でも見捨てず、しかもそのために命を懸けたりしたなんて話、涙無しでは聞けませんよ。

今回ご紹介する高橋紹運(たかはしじょううん)は、まさにその典型。

誰もが必ず惚れ込むその生き様を、たっぷりご紹介したいと思います。

スポンサーリンク

元々の名前は全然「高橋紹運」じゃありません

 

高橋紹運が生まれたのは、天文17(1548)年のこと。豊後(大分県)の戦国武将・大友義鑑(おおともよしあき)の重臣である吉弘鑑理(よしひろあきまさ/あきただ)の二男です。

元服後は、大友義鑑の後を継いだ義鎮(よししげ/後の宗麟)の「鎮」の字と、父・鑑理の「鑑」の字をもらい、「鎮理(しげまさ/しげただ)」と名乗りました。

この時点で彼の本名は「吉弘鎮理」なんですが、ややこしくなってしまうので、この記事ではずっと「紹運」で通させてもらいますね。

 

戦国時代は家臣が主の名の一文字をもらったり、親の字をもらったりして名前を付けることが多かったんですが、特にこの大友家関連の家にはそれが顕著。

だいたいの武将に「鑑」とか「鎮」とかついていますから、わかりにくいんですよね。

それが主従関係の証でもあるので、仕方ないといえば仕方ないんですが、後世の人にとっては困ったものですよ。

 

吉弘家から高橋家へ、若き当主の誕生

永禄4(1561)年に13歳で初陣を飾った紹運。

この頃、主君・大友義鎮は中国地方から進出してきた毛利元就(もうりもとなり)と争っていましたので、この戦いの中での初陣でした。

結果的には大友方の敗戦となっていますが、紹運はそれなりの武功を挙げたそうですよ。

 

それから6年後、紹運が20歳の時、同じ大友家重臣の高橋鑑種(たかはしあきたね)が毛利側に寝返ってしまいます。

実はもっと前からひそかに寝返っていて、噂も立っていたらしいんですが、宗麟(出家したので義鎮から宗麟になりました)が

「あいつが寝返るわけないでしょ」

と疑いもしなかったので、こんなことになってしまったわけです。

宗麟、度量の広さを見せる時期を間違ってます…。

 

しかし、寝返ったものが戻ってくるわけもないので、紹運は父や兄・鎮信(しげのぶ)、そして同じく大友家重臣の戸次道雪(べっきどうせつ/後の立花道雪)らと高橋征伐に出陣し、2年の歳月をかけてようやく制圧しました。

 

降伏した高橋鑑種は、高橋家の家督を奪われて別の土地に移ります。

しかしこれでは高橋家の当主がいなくなってしまい、家が断絶ということになってしまいます。

そこで、白羽の矢が立ったのが紹運だったんですよ。

彼は吉弘家の二男ですから、吉弘家の跡目を継ぐことはほぼありませんし、武勇に優れた将来の大友家重臣の若手ホープ。となれば、彼に任せたいと宗麟は考えたようなんですね。

 

というわけで、紹運は高橋氏の本拠地・岩屋城と家督を受け継ぎ、22歳にして高橋家当主となったのでした。

ちなみにこの時、名前を「鎮種(しげたね)」と改めたので、「高橋鎮種」となったんですが、やっぱり面倒なので「紹運」でいきましょう。

 

こんな男子と結婚したい! 紹運の男前な嫁取りエピソード

ほぼ毎年戦に出ていたため、紹運の結婚は本来決まっていた時期よりもかなり遅れてしまったようです。

そして不幸なことに、婚約者がその間に疱瘡(ほうそう)にかかり、治りはしたものの顔に痕が残ってしまったんですよ。

 

婚約者の兄は、それを気にして紹運に婚約の破談を申し出ましたが、紹運は

「そんなので気持ちは変わらないし、彼女の見た目ではなくて心に惚れているのだから問題ありません」

と、何とも男前な返答をし、婚約者を迎え入れたんですって。

 

こんな20代前半の男子、現代にいるでしょうか?

カッコ良すぎて、女子ならみんな嫁に行きたいですよ。

強くて、聡明で、美形かどうかは知りませんがこんなに男前な性格。文句ないです。

スポンサーリンク

迫る島津家…そしてようやく「高橋紹運」に

 

しかし、紹運の仕える大友家は徐々に衰えを見せ始めていました。

北九州各地の武将や、薩摩(鹿児島県)から攻め上がってきた島津家に押されていたんです。

しかも、宗麟がキリスト教にかぶれたため、仏教徒の家臣や豪族たちの離反が相次いでしまったんですね。

加えて、家督を譲られた義統(よしむね)と二頭政治なんかするから親子仲も悪化。

不安定極まりない家になってしまったんですよ。

 

そして、天正6(1578)年、耳川の戦いで島津家に大敗し、大友家の斜陽はさらに加速しました。

この時に大友重臣が軒並み戦死し、力は一気に削がれてしまったというわけです。

戦死した家臣の中には、紹運の実兄・吉弘鎮信や、妻の兄なども含まれていました。

 

この年、紹運は31歳の若さにして剃髪します。

改名した名前が「紹運」。

さて、やっと「高橋紹運」の誕生ですよ。

 

斜陽でも主は主。大友家を見捨てるわけがあるまい!

 

耳川の大敗により、高橋家の中からも「もう大友家を見限ろう」という意見も出てきたそうです。

事実、家老から進言されたのですが、紹運は決して首を縦には振りませんでした。

しかし、反大友派の武将がその家老に目を付け、紹運を追放しようという企てが生じたんです。

ただこれはすぐに露見し、家老は紹運によって誅殺されました。

ここで紹運がすごいなと思うんですが、彼は、何も知らされていなかった家老の息子にしっかりと事情説明をしたそうなんです。

その上で、息子には罪がないとして、きちんと父の領地を継がせて重臣として扱ったんですよ。

この家老の息子は、懐柔しようとしてきた反大友の武将に嘘をついて寝返ったように約束し、派遣されてきた兵を逆に討ち取る働きを見せ、紹運の恩に報いました。

 

本来なら、「家族の罪は自分の罪」的な戦国時代の考えによって息子も殺されて当然なんですよ。

そこをきちんと分けて考えた紹運の進歩的な考えはすごいと思いますし、これならこの人のために命を懸けてもいいと思うようになるのも納得です。

なんでこんなにカッコいいことばっかりするんでしょう、紹運。

 

息子の養子先は、あの立花道雪の元…大丈夫?

立花道雪:Wikipediaより引用

ところで、紹運は長男を養子に出さなくてはならなくなりました。

長男を養子に出すって有り得ないことなんですが、先方の強い要望に紹運が折れたんですね。

養子先は、「あの」立花道雪の元。

雷に打たれても斬り返し、半身不随でも輿に乗って戦場を駆け回るという、あの元気すぎる武将ですよ。

 

この時、紹運は長男に刀を授け、

「道雪殿を父と思いお仕えせよ。もし私と道雪殿が戦うことになれば、この刀で私を討て」

と言ったそうです。

 

そして、養子となって高橋家を出たその子が、成長して立花宗茂(たちばなむねしげ)となるんです。

紹運と道雪、2人の名将の才能を受け継いだ彼は、豊臣秀吉にも「無双」と称賛される武将となりました。

ただ、道雪には思い切りスパルタ教育されたそうですけどね…。

 

島津2万に対し、763名で挑む

高橋紹運:Wikipediaより引用

天正12(1585)年以降、紹運は道雪らと共に、筑後(福岡県南部)へと出兵し、周辺武将と戦いを繰り広げます。

この時彼らの兵は9,800でしたが、3万もの相手を打ち破り退けています。

なおも戦線を維持し続けましたが、ここで、道雪が病に倒れます。

紹運は回復祈願を行うなど色々と手を尽くしましたが、道雪は73歳で陣没してしまいました。

そして、紹運はやむを得ず兵を引き、居城・岩屋城へと戻りました。

 

立花道雪という宿将を失ったことは、大友家にとっては致命的でした。

これに乗じて、ついに島津軍が大友攻めのために北上してきたんです。

彼らの目標とする九州平定に邪魔なのは、もう大友家だけだったんです。

 

そして、2万もの大軍が、紹運の守る岩屋城を包囲しました。

この時、岩屋城にいたのは紹運以下たったの763名…。無理です、どうやっても勝てるわけがありません。

 

もちろん、島津側は何度も降伏勧告の使者を送りました。

しかし、紹運はこれを丁重に断ります。

「主家が栄えている時に忠節を尽くす者ならいくらでもおりますが、主家が傾いたときに命を懸けるものは滅多におりません。武家に生まれたのに恩義を忘れるというのは、鳥獣以下に過ぎませぬ」

こんな時でも、大友家への忠誠を守り続けていたんですよ。

なんて武士魂。

この名言は、敵味方問わず

「あっぱれなり」

と称賛されたそうです。

またもカッコいいぞ、紹運。

 

岩屋城の戦いでの鮮烈な最期

紹運は半月もの間、岩屋城に籠城し、島津軍に抵抗を続けました。

昼夜問わず鉄砲の音が鳴り響き、兵たちの勇ましい叫び声が絶えることはなかったといいます。

彼らは紹運のために命の限りに戦い、一歩も退くことはありませんでした。

 

紹運がそこまでの死闘を繰り広げたわけは、大友家のためでもありましたが、それ以外にも理由がありました。

ここで紹運が岩屋城に島津軍を引きつけておかないと、彼らが立花山城へ向かう恐れがあったんですよ。

立花山城には、道雪の後を継いで間もない若い宗茂、彼の実の息子がいたんです。

主家と息子を守るため、紹運は死闘を続けました。

しかしやがて力尽き、彼は自刃します。

そして兵たちもまた全員が討死し、763人がこの戦いで玉砕を遂げたのでした。

 

紹運39歳。若すぎますよね…。

 

この戦いでの島津軍のダメージは大きく、3千人も討ち取られました。

そのため、彼らは態勢を建て直さなくてはならなくなり、九州制覇の夢も露と消えてしまったんですよ。

 

「乱世の華」と称えられ、惜しまれた才能

しかし、紹運の戦いぶりと壮絶な最期は、敵方・島津の人々にも強いインパクトと感動を与えました。

紹運の首を前にして、島津の大将は地面に正座し、

「こんなに素晴らしい名将を、我々は殺してしまったのか…!良き友となれたかもしれないのに」

と手を合わせて号泣したそうです。

また、この直後に島津征伐にやって来た豊臣秀吉は、生き残った息子・宗茂を呼び寄せ、紹運の武勇を褒めたたえ、

「彼こそ乱世の華よ」

と彼の死を惜しんだそうです。

でもおそらく、秀吉がやって来ても紹運は彼に仕えることはなかったでしょうが…。

「義に生き、義兵をもって、義に死んだ」

と評された紹運ですから、いくらダメな主でも、見捨てるとか裏切るとかいった選択肢は、頭になかったはずでしょうから。

ちなみに、岩屋城址には、紹運の家臣の子孫が建てた碑があります。

「嗚呼壮烈岩屋城址」

と刻まれており、紹運たちがどれほど壮絶な最期を遂げたのかを今に伝えています。

今でも、彼らの命日に当たる7月27日には、毎年法要が行われているんですって。

450年近く経ってもなお敬愛され、惜しまれる紹運…やっぱり、カッコイイじゃありませんか!

 

まとめ

  1. 元の名は「高橋紹運」とは全然違う
  2. 高橋家の後を継いだので「高橋」姓となった
  3. 「女性は顔より心」を地で行った
  4. 31歳の時に「高橋紹運」となる
  5. 家臣に裏切りを進められても応じず、主家を見捨てなかった
  6. 息子を立花家へ養子に出した
  7. 2万の敵に763人で挑んだ
  8. 死闘のわけは、主と息子を守るためだった
  9. 敵にさえ命を惜しまれるほど才能のある人物だった

 

39年という短い生涯でしたが、「忠義」という言葉以外に見つからないほどの潔い生涯でしたね。

 

戦国一、カッコいい生き様の武将だと思ってます。

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。