敢えて市中引き回しと打ち首を自ら願い出た佐久間盛政…「鬼玄蕃」と呼ばれた男

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武士とあらば、戦場の華と散るのが美しい死に様。

敵の手にかかるくらいなら自ら切腹を選ぶのが当然のことでした。

しかし、ここに、罪人としての処遇を希望し、自ら打ち首を願い出た男がいます。それが佐久間盛政(さくまもりまさ)。

戦場にあっては「鬼玄蕃(おにげんば)」と呼ばれ恐れられるほどの猛将だった彼に、そんな決意をさせたのは、いったいどんな理由からだったのでしょうか。

絶対損はさせません。佐久間盛政の人生をぜひ知っていただきたいと思います。

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織田家重臣のハイブリッド

天文23(1554)年、盛政は織田信長の家臣・佐久間盛次(もりつぐ)の息子として尾張(おわり/愛知県)に誕生しました。

織田家家老・佐久間信盛(のぶもり)は親戚筋に当たります。

母はこれまた織田家重臣・柴田勝家(しばたかついえ)の姉。つまり、盛政は勝家の甥っ子に当たるわけですね。弟の勝政(かつまさ)は後に勝家の養子となっており、柴田家との結び付きが強かったんです。

織田を支える重臣の家同士の間に生まれた子として、盛政はまさにハイブリッドな存在でした。そして、ハイブリッドにふさわしい実力も持ち合わせていたんですよ。

そうした実力を彼が身に付けることができたのは、信長が武力をもって天下を制するという「天下布武」を掲げて戦に打って出たころに生まれ落ちたからこそ、です。毎年のように繰り広げられる戦に、盛政は身を投じることとなりました。

初陣は、永禄11(1568)年の観音寺城の戦いでした。信長が天下布武を実行した象徴的な戦で、盛政は叔父・勝家について戦場に出たのかもしれませんね。

その後は信長方の武将として多くの戦に参戦。時には撤退戦も経験し、若いながらも経験十分な武将に成長していきます。

「鬼柴田」と呼ばれた叔父・勝家を近くで見て、その強さから多くを学んでいたと考えてもいいでしょう。

優れた武将のそばで用兵を見る、この点では盛政は恵まれていました。

一向一揆との戦いで大活躍

出典:Wikipedia

天正3(1575)年、柴田勝家が越前(福井県)を領地として与えられると、盛政はその与力(よりき)となりました。

与力とは、時代劇に出てくる十手持った人ではなくて、強い武将に加勢するように命じられた武将のこと。

勝家の与力は、盛政の他には前田利家や佐々成政(さっさなりまさ)らがいて、ある意味「柴田一門」のようなものを形成していました。特に盛政は甥ですから、一般的な与力よりも結び付きは強かったはずです。

この頃、北陸方面では一向一揆がかなりの勢力を持っていました。

一向一揆とは、浄土真宗本願寺教団の信徒による一揆のことで、主に支配権力に反旗を翻したものでした。

信仰で結びついた彼らは単なる農民一揆とは質が異なり、武士もその中には含まれていました。そのため、土地の領主をたやすく滅ぼしてしまうほどの強さを誇っていたんですよ。

さすがの信長もこれには手を焼いており、特に石山本願寺との戦いには苦戦していました。

そんな中、盛政が対峙することとなったのは、長享2(1488)年からすでに始まっていた加賀一向一揆。

実に100年近くも続いており、その強さは本物でした。
そのため、さすがの「鬼柴田」勝家や盛政も何度か敗戦し、退却しています。

しかし、ここで盛政は大きな戦功を挙げることとなりました。

一揆の拠点だった尾山御坊(おやまごぼう)を陥落させ、一揆勢の最後の砦・鳥越城も彼が落とし、ついに加賀一向一揆を終結させたんです。

この活躍ぶりには信長も感服し、盛政に感状を与えました。

感状とは、主が家臣の武功を称えた文書のこと。これは公文書としての役割もあり、その武将の能力を証明するものでもありました。これがあれば、もし次の仕官のクチを探すに当たってもすごく役立ったんですよ。

なので、感状をもらうということはものすごく名誉なことだったんです。しかも、信長からですからね。

この頃から、彼は畏敬をこめて「鬼玄蕃」と呼ばれるようになります(玄蕃とは官名「玄蕃允(げんばのじょう)」から)。

叔父譲りの勇猛さと、当時としては長身の182㎝という体格で、まさに鬼のように見えたことでしょう。

実は初代金沢城主です

出典:Wikipedia

一向一揆での功績により、盛政は尾山御坊の地を賜りました。

そこに造られた城こそ、金沢城なんですよ。

金沢城って前田家のイメージが強いと思いますが、初代城主は佐久間盛政。これ、覚えておいてほしい史実です。

ところで、27歳の若さで一城主となった彼の出世には、もちろんその強さもありましたが、何より彼の真面目一徹な部分も大きかったのではないかと推測します。

一向一揆攻めの最中、盛政の親戚・佐久間信盛は信長の不興を買って高野山に追放されてしまいました。

すると、盛政は誰に命令されたわけでもないんですが、一族の罪は自分の罪でもあると、自ら蟄居したんです。

ま、マジメか…!

これが天正8(1580)年の8月。

尾山御坊を陥落させたのが11月なので、蟄居はすぐに解かれたと考えられます。
おそらく、信長が必要ないと判断したんでしょうね。

信盛のことは「全然働いてないからダメ」と切り捨てた信長ですが、その一族であっても盛政の能力は高く買っていたんでしょう。デキる奴ならどんな身分でも取り立てたくらいですからね。

運命を大きく変えた本能寺の変

本能寺の変:Wikipediaより引用

順風満帆な武将としての道を歩んでいた盛政ですが、天正10(1582)年、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれて、その運命が大きく変わっていくこととなります。

この頃、盛政は勝家の指揮の下、越後の上杉景勝勢力と交戦中だったため、明智討伐に行くことができませんでした。

その間に、豊臣秀吉(当時は羽柴)が中国攻めからすぐに戻って明智を討ったため、大きな功をさらわれることとなります。

そして、信長の後継者を巡って勝家と秀吉が対立する構図が生まれます。

清洲会議(きよすかいぎ)において、勝家は信長三男・信孝を推しましたが、秀吉が推したのは信長の孫の三法師。秀吉の意見に賛同する方が多く、勝家は結果的に秀吉の勢いに負けてしまうこととなったんですね。

その対立がついに両軍の激突となりました。
天正11(1583)年、近江(滋賀県)における賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いです。

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敵方の砦を急襲! しかし…

出典:Wikipedia

両軍は余呉湖(よごこ)の湖畔で対峙しますが、戦線は膠着します。

その間、秀吉は勝家に呼応し挙兵した織田信孝対策のため、いったん岐阜へ戻りました。

それは密かに実行されたんですが、これを勝家方に知らせてくれた人物がいたんです。

それは、秀吉方に寝返っていた勝家の養子・勝豊(かつとよ)の家臣でした。

これを好機と見た盛政は、豊臣方の砦を奇襲しようと勝家に進言します。

勝家は慎重な姿勢を崩さず、なかなかこの意見を聞き入れようとしませんでしたが、盛政の熱意に押され、

「砦を落としたらすぐに戻ってくること」を条件に承諾しました。

しかし、これが守られることはなく、おそらくこれが盛政と勝家の最後の対面となったんです…。

盛政は、豊臣方の中川清秀(なかがわきよひで)の砦を急襲し、鮮やかな攻めっぷりで清秀を討ち取り、砦も落として緒戦の大勝利を飾りました。

しかし、彼は叔父との約束を守らず、そのまま砦にとどまったんですよ。

この勢いでさらに先の砦も落とそうとしていたようなんですが、彼は知らなかったんです。秀吉がすさまじいスピードですでにこちらに戻ってきたことを…。

秀吉本隊と増援が加わり、豊臣方は息を吹き返しました。

しかもこの時、勝家側だった前田利家が突如撤退してしまいます。

秀吉とは親友の間柄でしたから、正面切って戦うことができなかったのでしょう…。

これで、盛政は敵中に孤立してしまい、緒戦の大勝利から一転、大敗を喫することとなりました。

鬼玄蕃といえども、あまりに多すぎる敵に対してはどうすることもできなかったんです。

ついに捕らわれた盛政

ここまでの大敗を喫すれば、たいていの武将は切腹するものですが、盛政は諦めませんでした。

彼が選んだのは、落ち延びて再起を図るというものだったんですよ。

しかし、おそらくその途中で勝家自害の報に接したはず。そして、盛政もまた逃亡の中で捕らわれてしまったのでした。

盛政はもう逃げようとはしませんでした。

反対に、自分を捕らえた農民に対して、自分を秀吉に引き渡して欲しいと頼んだんです。すでに、彼はもう腹をくくっていたんですね。

引き渡されてもなお、盛政は堂々としていました。

「鬼玄蕃ともあろうお方が、負けたというのになぜ腹を切らなかったのか」

と嘲笑されても、

「源頼朝公でさえ、敵に敗れた時は木の洞に隠れて逃げ延び、後に大事を成したではないか」

とさらりと言い返し、相手を黙らせたといいます。

この気概あふれる勇将を、秀吉は以前から高く買っていたようで、「一国を与えるから部下にならぬか」と誘いました。

この人、盛政みたいに強くて忠義心あふれる人、大好きなんですよね。

絶対自分の部下にならないだろうと思っていても、一度は誘ってみるんですよ。しかしそれだけ、盛政は将来の天下人に評価されていたわけです。

さて、盛政の返事は…?

敢えて罪人として処罰されることを望む

盛政は、丁重に秀吉の誘いを断りました。

「もしここで助けていただいても、私は後に必ずあなたの命を奪いに行きます。ならばいっそ、死罪にしていただきたい」

と答えた彼は、さらに付け加えました。

「切腹でなくて構いません。私を縛り、京の市中を引き回した末に打ち首にしていただきたい。さすれば、秀吉様の威光も天下に広まることでしょう」

さすがの秀吉も、この申し出には驚いたはずです。

切腹は武士としての尊厳に配慮された死に方。しかし、打ち首は罪人としての扱いです。

それでも、盛政は勝家への忠義を重んじ、秀吉に背いた罪人として処刑されることを敢えて選んだのでした。

また、盛政はこうも付け加えました。

「死に装束は思いきり派手にして、『あれが佐久間盛政か』」と皆に見てもらって死にたいのです」

「最後まで武辺の心を忘れぬ奴よ…!」

と感服した秀吉は、盛政の決意を翻すことは諦めました。そしてこの潔い若武者の意を汲み、紅色の小袖を与えたのです。

死に装束とは思えない、鮮やかな紅の小袖をまとった盛政は、後ろ手に手を縛られ、罪人として京都の市中を引き回されました。

民衆は、「世に聞こえたる鬼玄蕃」を一目見ようと、大勢が見物に詰めかけたそうです。

そんな彼らの好奇の視線を、盛政は鋭い眼光で睨み返したと伝わっています。

処刑場に到着した盛政に、こっそりと短刀を渡し「これで切腹を…」と申し出た者がいたそうです。

秀吉が、やはり盛政を武士として死なせてやりたいという思いで派遣した者でした。

しかし、盛政はそれも丁重に断ると、自らの首を差し出し斬首されました。

享年30。生きていればまだまだ活躍できたはずですよね。秀吉がその死を惜しんだ名将のひとりでした。

まとめ

  1. 織田家重臣同士の家の間に生まれた
  2. 一向一揆での戦いぶりから「鬼玄蕃」と呼ばれた
  3. 金沢城初代城主である
  4. 本能寺の変後、豊臣秀吉と対立した叔父・柴田勝家側に付く
  5. 賤ヶ岳の戦い緒戦で勝利も、秀吉に敗戦
  6. 捕らわれても堂々たる態度だった
  7. 罪人として処刑されることを望んだ

潔く生きた、短くも太く濃い生涯でしたね。

秀吉に仕えていたなら…と思いますが、仕えなかったからこそ彼のカッコ良さが際立つのでしょう。

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