乱世を駆け抜けた熱き鬼将 石田三成に仕えた 島左近

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関ヶ原で奮闘し散った石田三成家臣の島(嶋)左近。

三成が家禄の半分を出してまでスカウトした武将と伝えられています。

三成がそこまで惚れ込んだ左近とはどのような人物だったのでしょうか。

今回はそんな島左近に迫ってみたいと思います。

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謎多き前半生

島左近は謎の多い人物です。とくにその前半生については不明な点が多く、

生年・・・関が原合戦時に61歳とされるので逆算して1540年生まれと推定

名前・・・左近は通称で、清興、勝猛、友之などいくつかの実名が知られています。

出身国・・・近江、尾張、対馬、大和など諸説がありますが、有力視されるのが大和国(奈良県)出身説。島氏は大和東部の平群郡の国人で、戦国時代に興福寺僧兵出身の大和の筆頭国人・筒井氏に仕えたとみられています。

 

その島氏には次のような伝承があります。奈良興福寺の僧が記した『多聞院日記』によると、1566年頃、25歳の島の庄屋が平群郡の嶋城を襲撃し、実父と継母、弟妹5人などのほとんどを殺して城を奪ったというのです。

この島の庄屋こそが若き日の左近であるとも。左近は家督相続で父たちと争っていたのでしょうか。

骨肉の争いを制して実力でのしあがる、乱世をたくましく生きていた左近の姿が浮かび上がります。

 

筒井家に仕える

筒井順昭:Wikipediaより引用

その左近は筒井家に仕えましたが、ほどなくお家が大ピンチに!当主の順昭が若くして亡くなり、わずか2歳の嫡男が残されたのです。このままでは家臣に動揺が走り、他国に狙われてしまいます!

そこで筒井家は順昭の喪を1年間隠して、木阿弥という人物を順昭の替え玉にするというウルトラC。その間に2歳の順慶を盛り立てる体制を整えました。

筒井順慶:Wikipediaより引用

余談ですが木阿弥はこの後、用済みになり、ただの係長(笑)、いえただの木阿弥に戻りました。そこから「元の木阿弥」ということわざが生まれたとも言われています。

 

左近もこの綱渡り替え玉作戦を支えたことでしょう。

松永久秀:Wikipediaより引用

やがて松永久秀と争うようになり、「辰市の戦い」では、辰市を拠点に左近らが奮戦し、久秀を敗走させて奪われていた筒井城も取り戻します。左近は松倉右近と並んで「右近左近」と呼ばれる筒井家のツートップに。1万石余りを領有していました。

こうして順慶を盛り立て、その大和統一に尽力した左近でしたが、1584年に順慶が亡くなると、その養子の定次と折り合いが悪く筒井家を去ります。

水争いで不当な裁定されたのが原因だったとも。尊敬できない主君の下では働けないと、地位も名誉もスパッと捨てる潔さ。

左近も戦国武将らしく己の信念に従って生きる武将でした。

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浪人生活と石田三成からのラブコール

左近の浪人生活が始まりました。しばらくは興福寺持宝院などに寄食して浪人生活を送ったようです。生活に困っていたのか吉野にいる裕福な親戚に借金を無心したものの色よい返事がもらえません。すると左近は使者をやって

「親族だからこそ言うのだが、金品を分かち与えればその家は栄えて子孫繁栄するだろう。しなければ厄に見舞われる。あなたのために借金を頼んでいたのだ」と申し入れてお金を借りるのに成功しています。

なかなか策士だったようです。

 

とはいえ「デキる男」左近は全国的に有名人だったらしくスカウトが殺到。蒲生氏郷や豊臣秀長に仕えたという説もあります。

そのほかにも武田信玄の配下の山県昌景の下にいたという説も。これは後に「山県昌景の配下だった時、家康を追い詰めた」という左近のまさかのカミングアウトによるもの。万一本当だとしても浪人時代ではなく1560年代後半のこと。その頃はバリバリ筒井家にいたはずなので、一時レンタル移籍でもしていたのでしょうか。

そんな浪人中の左近に、熱心にラブコールを送ったのが豊臣秀吉の家臣、近江水口城主の石田三成。左近は「三成?年下だし文官肌の武将は自分とは絶対合わない、ごめんだね」と思ったのでしょうか。1万石をもらっていた身としては生半可な主君に仕えたくないというプライドもあったのでしょう。左近は一度、断ります。

ところがそんな左近に対し、自分を支える侍大将がほしかった三成は驚きのアプローチ。自らの禄高の4万石の半分の2万石(または1万5000石)で雇うというびっくりオファーを出したのです。

えー。社長と給料折半?マジ?正気?と左近もびっくりしたことでしょう。秀吉も驚嘆したと言いますが、いつもはクールで冷静な三成とは思えない熱い行動に驚いたのかもしれません。

 

三成の男気と、豊臣家への私心なき忠誠心にも感じ入った左近は家臣になることを決意。以降、その恩義に報いるため「私」をなげうって仕えます。その覚悟は次の逸話が示しています。

 

三成が19万石余の佐和山城主に出世して左近に加増しようとすると、「代わりに下の人々にあげてください」と断りました。これはひとえに兵を雇い、三成軍団を強くしてほしいと思ってのことです。

また、こんなこともありました。秀吉の死後、三成が左近やほかの武将たちとともに大坂城の天守閣にのぼり、街を見渡しながら「秀吉公が天下を平定された。町は繁栄して民が喜び、秀頼さまの世が続くことを喜んでいるかのようだ」と上機嫌でいい、一同うなずきました。

左近は屋敷に戻ると三成に忠告します。

島左近:Wikipediaより引用

「昔から王侯のいる所は商売ができるので人が集まり、栄えるのは当然です。城下を少し離れれば民はあばら家に住み、衣食にも事欠き、道端には死体が転がっています。お家安泰を力だけに頼るのではなく、兵を愛し、民をいたわり、徳や礼儀をもって当たることが大切です。そうすればいざという時味方になってくれます」とさとしました。

 

イエスマンではなく主君にも物申す家臣ですね。時には年下の主君を諌め、時には進言し、武勇でも支える参謀的な存在でした。しかも年貢収納など領地経営も担っていたようです。当時の人々に三成に過ぎたるものとたたえられた左近ですが、実際に三成には欠かせない存在になっていました。

 

家康暗殺を進言

左近は冷徹な現実主義者でもありました。

秀吉の死後、左近は家康の脅威をひしひしと感じる一方、その家康には老獪さではかなわないことも承知していました。そのためたびたび家康暗殺を三成に進言します。秀吉の死の翌日、さらに秀頼が伏見城から大坂城へ移った時、前田利家の死の前後など。

勝つためには手段を選ばず。

それこそが乱世の修羅を泥臭いまでの闘争心と野心で生き抜いてきた熱い漢、左近の真の姿でしょう。三成に「いざご決断を!」と迫ります。

ところが三成は理屈で動く理想主義者。暗殺は卑怯な手段だとこれを拒否します。天下人豊臣家の面目も考えたのでしょう。

 

もともと実直な三成は同僚のわずかな失敗も見逃さず厳しく当たり、フォローもしない性格。間違ってないけれど人には好かれないタイプですよね。そのため秀吉家臣の武断派武将らとは対立していました。左近は「彼らに時にはへりくだって仲良くし、また時には「利」でもって味方を増やすべき」と三成に再三忠告していますが、これも聞き入れてもらえませんでした。三成は曲がったことはできない性格だったのでしょう。

そのため武断派の加藤清正や福島正則らから三成が襲撃されかける事件が起きます。このとき左近の献策で三成は家康の屋敷に逃げ込みます。家康の仲介で事は収まりましたが、三成は佐和山城に蟄居することになりました。

 

何度退けられても主君に言うべきことはきっちり言う。主君を思い、家臣の務めをまっとうするのもなかなか難しいですよね。お互いぶつかって決裂!にはなりませんでした。左近は三成に恩義を感じると共に、義に厚い人柄に共鳴していたからです。イラっとはしていたでしょうが(笑)。

ちなみに左近の再三の説得に三成も家康暗殺を決意。家康が上杉討伐で水口に従軍していた時に左近は800の兵を率いて家康を撃つべく向かいましたが、危険を察した家康は先に出立していました。

 

関ヶ原合戦に散った鬼将

もはや三成が家康を倒すためには直接対決しかない。左近は最後まであきらめず三成のために全力を尽くします。

9月14日、家康がいち早く三成ら西軍の集結する大垣城に近い赤坂岡山に到着したと知り、西軍に動揺が広がります。このとき、左近は「先制攻撃だ」と自らが出陣します。

 

左近は城と岡山の中間にある杭瀬川に出陣して川を渡ると、敵の中村一栄隊の前で稲を刈る刈田戦法で敵を挑発します。これに誘い出された中村隊とその後に出た有馬隊は、後退する島隊を追って川を渡りました。すると伏兵が飛び出し、反転した島隊とともに中村隊と有馬隊を散々に打ちのめしました。これを見ていた家康は苦い顔をしたそうです。左近は見事な用兵で前哨戦に勝利し、味方の士気を高めたのでした。

 

関ヶ原合戦。左近の気迫ある果敢な戦いぶりは、黒田長政の兵士らのトラウマになったほど。

「かかれ」という左近の鋭い声と共に突進してくる島隊! 黒田隊が立ち向かうと、両脇の柵から島隊の槍ぶすまにいっせいに突きたてられ、ことごとく討ち取られました。たまりかねた黒田の別働隊が銃撃を浴びせ、その一発が左近に命中。後方に退いた左近はそのまま戦死したとも、または戦場に戻って突撃を繰り返し、その奮戦ぶりが鬼左近と恐れられたとも伝えられます。

最期は壮絶な戦死をしたと伝えられるものの、首が見つかっていないためどこかで生き延びたとも。京都や静岡、滋賀など各地に生存伝説が残されています。

 

まとめ

三成と左近は良いコンビだったでしょうか。三成は左近を活かしきれたでしょうか。

知勇に優れた左近は、どこまでも貪欲に実力でのし上がる人間臭さ漂う武将でした。一方で自分を信頼してくれる主君と出会い、その義の志にも惚れると、三成とともに乱世を生きる!と決意。そんな覚悟が伝わってくる戦国の漢の生き様いかがだったでしょうか。

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