長い雌伏の時を経て天下人となった徳川家康のかげには、苦難の時代を支え続けた忠臣たちがいました。
その中でも突出した功績のある4人を
「徳川四天王(酒井忠次/さかいただつぐ、榊原康政/さかきばらやすまさ、本多忠勝/ほんだただかつ、井伊直政/いいなおまさ」
と言います。
その中のひとり・榊原康政が、今回ご紹介する武将。
戦って良し、政治も良し、そして何より「おそれず諫言をする」ことが彼の最大の見せどころ。
さて、どんな場面でそれが発揮されたのでしょうか…彼の人生を追いながら見ていきたいと思います。
陪臣から直臣へ
榊原氏は、元々は松平氏の陪臣(ばいしん)でした。陪臣とは、「家臣の家臣」のことです。
天文17(1548)年に生まれた康政は、幼い頃から頭が良かったようです。13歳の時に、家康(当時はまだ松平姓ですが)の目に留まり小姓として召し抱えられました。
初陣を飾ったのは永禄6(1563)年、三河一向一揆の時でした。これは三河が二分され、家康が大ピンチに陥った戦でしたが、康政はまだ元服していないにもかかわらず武功を挙げ、家康から「康」の字を賜ったといいます。その後元服すると「康政」と名乗るようになり、同い年の本多忠勝と共に家康の側で活躍する武将へと成長していきました。
その後は家康の節目となる数々の戦に参加しています。姉川の戦いや三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなどに参戦した他、本能寺の変の後に家康が京都を脱出した「神君伊賀越え(しんくんいがごえ)」にも随行しています。
徳川四天王の中でも、康政と本多忠勝は仲が良かったようです。忠勝は向かうところ敵なしの無双の勇者でしたが、一方の康政は隊を率いれば忠勝以上の働きを見せたと伝わっています。
しかし、康政の本領発揮は戦だけではありませんでした。
「相手をおそれない強烈な言葉」、これこそが彼の真価だったんですよ。
秀吉さえもおそれない苛烈な檄文
松平信康:Wikipediaより引用
家康の長男・信康(のぶやす)がまだ生きていた時のこと。
信康は勇猛ですが時に乱暴な一面を見せることがあり、康政はそのことについて何度も諫言していました。
信康はそれに怒り、ある時、康政に向かって弓を持ち射かけようと構えたんです。
しかし康政は動ずる様子もなく、「あなたのことを思えばこそ言っていること。もしそのような者を殺せば、お父上はお怒りになるでしょうし、何よりあなたのためにもなりませぬぞ」と静かに言ったとか。それで信康は我に返って反省したと伝わっています。
さて、そんな康政の強烈な一言が炸裂したのが、家康・織田信雄(おだのぶかつ)連合軍と豊臣秀吉との間に起きた小牧・長久手の戦いの時でした。
康政は兵を率いて豊臣秀次(とよとみひでつぐ)隊をほぼ壊滅に追い込むなど大きな働きを見せましたが、もうひとつ、秀吉を激怒させたのが、彼の書いた檄文だったんです。
「秀吉は信長公の家臣だったにもかかわらず、信長公の三男・信孝(のぶたか)殿を殺し、今度は二男・信雄殿に弓引いた。そんな反逆者に与するなら、天罰が下らないわけがないぞ!」
こんな意味合いの檄文を、実に達筆な文字で書きまくって諸将に送りつけたんですって。
まあ、秀吉は怒りますよね。「これを書いた者の首を取ってきたら10万石やるぞ! 」とまで息巻いたそうですよ。
秀吉も感服した忠臣
家康と秀吉との間で和睦が結ばれると、何と使者には康政が選ばれました。
いざ秀吉と対面すると、秀吉は「お前の首を一目見たいと思っていたが、会ってみればなんとまあ忠臣であることか」と感心し、康政に官位を与えた上で宴まで催したそうです。後に家康が関東へ移されると、康政は上野館林(群馬県館林市)10万石を与えられたと言いますから、まさに10万石の首だったわけですね。
ちなみにこの宴の時、家康から秀吉側へと寝返った石川数正(いしかわかずまさ)が出席していたのですが、康政は彼に対して一言も口をきかなかったそうです。痛烈な皮肉のひとつやふたつ、康政なら軽く言えたのでしょうが、あえて言わないところが大人だなあと思いますね。
館林では内政にも尽力し、城下町の整備や利根川・渡良瀬川の堤防事業などを行いました。これが現在の館林の基礎になったと言えますね。康政の墓も館林の善導寺(ぜんどうじ)にありますよ。
怒る家康に冷静な一言、秀忠を助ける
関ヶ原の戦いの際には、康政は家康本隊ではなく家康の息子・秀忠(ひでただ)に従い、中山道ルートを取っていました。
ただ、この途中に待ち受けていたのが真田昌幸(さなだまさゆき)・信繁(のぶしげ)親子。彼らのこもる上田城を秀忠は素通りできず、戦になってしまいます。しかし、百戦錬磨の相手に手こずり、結果として関ヶ原の本戦に遅刻することとなってしまいました。
これには家康も大激怒。秀忠がやって来ても、目通りを許さなかったんです。
それを取り成したのが、康政でした。
「関ヶ原へ向かうのが遅くなったのは、上様が江戸を出立する報せが届くのが遅くなったため。その使者は途中洪水のため足止めを食らっていたのです。そうした事情も究明なさらずに秀忠様にのみ落ち度があるようにおっしゃられては、思慮のなさにもほどがございます! 」
徳川秀忠:Wikipediaより引用
家康は「なるほど、それももっともだ」とうなずき、秀忠に対面することになったのでした。
ここまで言っちゃっても許されるのは、それが康政だからこそなんでしょうね。
秀忠はこれで康政に深く感謝し、後に彼が病床に伏せると、医師を派遣するなど手を尽くしたんですって。
「老臣は去るのみ」の潔さ
関ヶ原の戦いの後、康政は本多忠勝と同様に中枢から遠ざけられ、それに憤慨していたという見方があります。
しかし、それとはまったく逆の話もあるんですよ。
康政には、館林から水戸へと加増・転封の話があったといいます。しかし康政は、「関ヶ原では戦功もなく、何より館林の方がすぐに江戸に参上できる」としてこれを断ったというんです。それに対して家康は深く感銘を受け、康政に借りがあるという証文を与えたといいます。
また、家臣たちの世代交代が進む中で、「老臣が権力を争えば亡国の兆しとなる」として自ら中枢から距離を置いたとも言われています。
いろいろな見方はありますが、後者の方がやっぱり康政らしいなと思いますし、そうあってほしいなと思っちゃいますね。
そして、家康が江戸幕府を開いたのを見届けた康政は、慶長11(1606)年に病気で亡くなりました。
徳川四天王との仲
康政が本多忠勝と仲が良かったというのは先に述べましたが、彼は他の2人とも仲良くやっていたようです。
井伊直政:Wikipediaより引用
特に、一回り以上年下の井伊直政とは本当に仲が良かったんですよ。
しかし、直政が出世してきた当初は、康政はそれが気に入らなかったんです。そのグチを酒井忠次に漏らしたところ、かえってたしなめられ、しかも忠次が仲を取り持つ形で親友となったのでした。
「直政より自分が先に死んだら、直政も病気になるだろう。もし直政が先立つようなことがあれば、自分も遠からず死ぬだろう」というほどの仲だったんですよ。
実際、それはほぼその通りになりました。関ヶ原の戦いで負った傷がもとで直政は慶長7(1602)年に亡くなり、その跡を追うように4年後に康政が病没したのでした。
また、直政が亡くなった後、康政は井伊家のために世話を焼いて助けたといいます。
康政の没後、榊原家は何度か改易の危機に直面しましたが、康政の功績のおかげで存続することができました。持つべきものは偉大なご先祖です。子孫の不祥事が許されるほど、康政の功績は大きかったわけですね。
そんな康政が戦場で用いた旗印は「無」の一文字。
由来はいまだはっきりとはしていませんが、無欲・無心の思いで家康のために戦うという意思を示したものとも、いつも無名の一武将でいたいという彼の謙虚な気持ちを表したものともいわれています。
いずれにせよ、康政が秀でた武将であり、比類なき忠臣であったことは確かです。
まとめ
- 陪臣の家系だったが、康政の代で家康の直臣となった
- 豊臣秀吉を「反逆者」と切り捨てた檄文を書いた
- 怒っていた秀吉だが、対面すると康政の忠心をほめたたえた
- 関ヶ原の戦いに遅刻した秀忠を家康に取り成した
- すぐに江戸に参上できるように、加増・転封の話を断った
- 井伊直政とは最初仲が良くなかったが、後に親友となった
徳川四天王の中でも、康政はオールマイティーな立場だったようですね。戦ができて弁も立つ、その上忠臣だというんですから、言うことないです。
あ、でも、宇喜多騒動の調停が長引いて家康に怒られたという一件があるんですが…見逃してあげてくださいね。
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