上野を守り通した虎 長野業正 猛将が見せた誠の武士の道

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戦国時代、関東で剛勇と名を馳せた上野(こうずけ)国の箕輪(みのわ)城主長野業正(なりまさ 業政)。

その実力はといえば、なんとあの戦上手で知られた武田信玄の侵攻を何度も撃退し、信玄をして「業正がいる間は関東攻略は難しい」と言わしめたほど。

そんな業正はこの血なまぐさい戦国の世にありながらも、情け深い知性豊かな武将でもありました。業正の剛勇ぶりとともに、これぞ武士の中の武士という文武両道に優れた人柄を紹介します。

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上野国の国人領主長野業正

上野国(群馬県)西部の国人である箕輪城主長野氏は、平安時代の歌人として有名な貴族在原業平の子孫といわれています。戦国時代は関東を統括する関東管領(かんれい)山内上杉家に属し、近隣の国人衆をまとめる存在で、箕輪衆と呼ばれていました。

 

長野業正は1491年または1499年生まれといわれています。当時の関東は新興勢力の小田原北条氏が台頭し、関東管領上杉憲政は上野国にて北条氏に抵抗していました。

多くの国人が北条氏になびくなか、業正は上杉氏を支えましたが、1552年に上杉氏は平井城を捨てて長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後へとのがれます。

 

この時、業正は上野国に残って独立勢力となり、北条氏に徹底抗戦。自分の12人の娘を周囲の国人衆に嫁がせており、箕輪衆の防衛ネットワークを作り上げていました。

 

武田信玄を蹴散らした名将

1550年代後半になると、信濃を平定した武田信玄が今度は関東(西上野)に侵攻を始めます。

ここから業正VS信玄の血みどろの戦いが始まりました。信玄は信濃を平定するなど、全国的にも知られた新進気鋭の戦国大名で鋭意領土拡大中!

かたや業正は名もなき国人領主(失礼)で信玄より20歳以上年上の50代(または60代)。当時としては十分隠居してもおかしくないジイサンです。

 

若き大大名の英雄と地味な老人。誰がどう考えても信玄の勝利! と思われましたが、ここから業正は猛将としての本領を発揮します。国人衆の団結力も加え、6回または9回ともいわれる信玄の侵攻を跳ね返してみせるのです!

 

最初の戦いは瓶尻(みかじり)の戦いと言われています。長野勢の足並みがそろわず敗退しますが、業正は最後尾を守り、武田軍の追撃を切り抜けました。そして難攻不落と名高い箕輪城に籠城し、越後の長尾景虎の後詰を願い、武田の侵攻を防ぎ切ります。

次に信玄自らが2万の兵を率いて攻めせました。業正は夜討ち、朝駆けの奇襲で武田軍を蹴散らしたあげく、兵糧も焼き討ちに。武田軍は仕方なく引き上げました。

 

信玄も同じ失敗を繰り返すほどバカではありません。その次は箕輪のネットワーク分断作戦に出ます。安中城、和田城などを個別に撃破して、業正の手足をもぎとろうとしました。信玄の作戦を知った業正は箕輪城から出撃すると、信玄の本陣を急襲。「えー。そこ来る!」と信玄の嘆きが聞こえそう。武田軍が業正の軍を追いはらって今度は追撃していくと、いきなり飛び出してきた長野の伏兵に襲われて大混乱! 被害が大きく戦いどころではなくなり、またもや武田軍は撤退していきました。

 

これだけやられても懲りない信玄もなかなかのタマです。またも侵攻しました。ところが今度は飢えと寒さに苦しめられます。そこへ業正の怒涛の総攻撃が! 武田軍はほうほうのていで逃げ帰ったそうです。

 

これ以外にも戦いがあったのでしょう。ついに信玄は「業正がいる限り、上州には手を出せぬ」と音をあげたとか。これらの戦いが正しいかどうかは議論がありますが、信玄を追いつめたことは事実でしょう。後世、業正は上州の黄斑(じょうしゅうのおうはん 上野の虎)と恐れられたといいます。

こうして業正は1561年に病死するまで上野を守り抜いたのでした。

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歌人の子孫ならではの逸話

あの信玄にも屈しなかった業正。どれだけ強いのか! さぞや無骨でこわーい武将をイメージするかもしれません。ところが意外にも器が大きく情け深い教養人でもありました。

 

ある時、民間から妻をめとった家臣が妻を離縁します。その理由はというと、その妻が長さ5、6尺はあろうかという蛇があらわれた時、「おうこのような丈の蛇が出ました」と驚いて夫に伝えたからでした。「おうこ」とは肥桶をかつぐ天秤棒。家臣は「おうこ」という下品な言葉を使う妻がいては世間の笑いものになると離縁したのです。今では考えられない離婚の理由ですが、妻は次の歌を壁に書きつけて去りました。

「万葉の歌の言の葉なかりせば思ひの外の別れせまじを」

 

この歌を見ても夫は妻が何を言いたかったのか意味が分かりません。しかし歌を見た業正は、次のような古歌があることをその夫に伝えました。

「陸奥(みちのく)の千引(ちびき)の岩と我恋と担(にな)はばあふこ中(うち)や絶えなん」

(陸奥にあるという千人がかりで動かす石と私の恋を「おうこ」の両端にゆわえても、私の恋はその石にも負けない重さです。ですから「おうこ」は折れてしまうでしょう)

 

おうこを使って恋の深さを表わした歌です。妻の使った「おうこ」という単語は下品どころか、歌語にも使われた雅な言葉でした。それを無知な夫は知らなかったのです。これ下品と思い込んで妻を離縁したとあっては末代までの恥になるといって、業正はその家臣に妻を連れ戻させたそうです。

 

さすが業正は在原業平の子孫! 討った討たれたという話が多い戦国ですが、こんな教養豊かな武将の逸話を知るとホッとしますよね。

 

真田幸隆を送り出した心意気

業正は、あの謀略の家柄として知られる? 真田家に対して、その上をいく大きな思いやりを示したこともありました。

 

信州真田郷の領主だった真田幸隆(ゆきたか 真田幸村の祖父)は1541年の海野平の戦いで武田信虎(信玄の父)と村上義清の連合軍に敗れます。関東に逃れ、箕輪城に亡命しました。

 

何年いたのかは分かりませんが、幸隆のもとへ、武田家の軍師山本勘助からヘッドハンティングのお誘いがありました。信州を拡大していた信玄に従えば、いつか故郷の地を回復できる! と幸隆は期待に胸を膨らます。

しかし、はた困ったと頭を悩ませました。恩のある業正に対して、その業正と敵対している武田家に行くとは言い出しにくかったのです。そこでこの時、幸隆は仮病作戦を実行しました。

病と称して引きこもり、折を見て病が重いので故郷に帰り引退しますと言って立ち去ろうと考えたのです。

 

すると業正から使者が来て「このたびの病は普通の薬では治るまい。今日明日のうちにでも甘楽の奥にある峠を越えて良薬をさがしに行った方がいい」と申し入れてきました。その峠を下れば武田家の拠点である甲斐。幸隆にとってこの申し出は都合の良いものでしたが、さすがに「はい喜んで」とは言い出しにくく「具合が思ったより悪くなかなか出立できないので」としぶります。

 

しかし同じような使者が何度も送られてきたので、幸隆はついに「よし、甲斐に行ってからお礼を言おう」と決めて近習数人を連れて旅立ちました。

 

その幸隆が下仁田で休憩している時、来た道から不思議な一行が近づいてきました。馬の背にくくりつけているのは見覚えのある道具ばかり。その後には箕輪に残しておいた妻子と下僕の姿が。妻に事情を聞くと幸隆が出立した後、長野家の家臣がやってきて「真田家の者はすぐあとを追うように。家財道具は運ばせるからとと言ってくださったのです」と答え、業正から託されたという手紙を差し出しました。

 

そこには「甲斐に武田信玄あり、まだ若いが立派な弓取りである。しかし箕輪にこの業正がいる限りは碓氷川を越えて草飼わせよう(業正の領地に侵攻する)と思うなよ」と書いてありました。

 

業正は幸隆のヘッドハンティングの話を耳にしたのでしょう。幸隆の作戦もすべてお見通しの上で、武田家に仕える方が幸隆のためになると考え、自ら送り出してくれていたのでした。

 

将来、敵になると思いながらも送り出した業正の心意気と思いやり。胸がアツクなりますよね。まさに武士の中の武士といえます。

のちに数々の転職で裏切り者と呼ばれる真田家ですが、この時は業正の優しさによって堂々と転職できたようです。

 

幸隆に授けた策略

業正と幸隆のエピソードはさらに続きます。それから月日が流れ、老齢になった業正は重い病にかかっていました。そこへ幸隆が訪れてきます。喜んでこれを招き入れた業正は「どうせ上州をほかの人に取られるくらいなら気心の知れたあなたに渡したい」と言って、まずは利根郡の沼田を狙えとアドバイスします。「養女の夫である沼田景康は素性の分からない女に産ませた子を溺愛し、嫡子を廃して後継ぎにしようとして家中がもめている。この家も長くないだろう。私が切り取りたいが、もう年だし、息子の力では無理だ。だからあなたに進上したい」とにやり。

幸隆はそれを受け入れました。のち幸隆の子昌幸が、沼田を攻略しますが、これは業正のアドバイス通り、幸隆が沼田に様々な手を打っておいたからこそできたのだといわれています。

長野業正は戦国史においては有名な武将ではないかもしれません。しかしあの信玄と互角に渡り合うカッコイイ猛将でありながら、自分が不利になろうとも幸隆のために動く度量の大きさと潔さ。男も惚れる誠の武士の道を通した、人間味豊かな武将といえるのではないでしょうか。

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