みちのく魂、とくと見よ!!九戸政実、誇りをかけて天下人に刃を向けるの巻

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九戸政実、この名前、読めますか?私は正直、全然読めませんでした…。「くのへ まさざね」と読みます。東北地方には「八戸」とか「三戸」とか地名がありますが、そのうちのひとつに九戸もあるんです。その九戸を拠点とした戦国武将・九戸政実は、人生の最後に、何とあの豊臣秀吉に逆らいました。勝ち目のない戦をなぜ起こしたのか?勇将として評判が高かった彼がどうして?そんな疑問への答えを出すため、これから政実の人生を振り返って検証していきましょう。

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九戸政実ってどんな人?

天文5(1536)年、政実は九戸城(岩手県二戸市)主・九戸信仲の子として誕生しました。ちなみに、豊臣秀吉がこの翌年に生まれたと言われてます。その辺の世代だと思って下さい。

 

政実は武勇に優れた人物として知られ、主の南部晴政(なんぶはるまさ)を助けて近隣の武将たちと戦っています。

さて、彼らがどの辺で戦っていたのかと言いますと…南部氏の領地は陸奥(むつ)国糠部(ぬかのぶ)郡です。これは青森県東部から岩手県北部付近ですから、中央政権から本当に遠いところでも戦乱になっていたことがわかりますよね。

そんな中、政実は出羽(山形県・秋田県)方面から侵攻してきた安東氏を撃退、奪われた領地を奪還する功績を挙げています。また、岩手県南西部付近にまで攻め込み、南部家の勢力拡大に貢献していました。

 

ちょっと複雑、南部家との関係

政実の主に当たる南部家との関係について触れておきたいと思います。

東北で南部といえば南部鉄器が有名ですが、まあ、その南部です。

そもそも、南部一族は平安末期の東北の戦乱を治めるためにやって来た武士の末裔で、この一族の一部が九戸郡(岩手県九戸村)に入って九戸氏と名乗るようになったみたいです。

なので、九戸家は南部家と同族の支流というわけなんですよ。

支流とはいっても、こうした家はみな宗家の南部家と同列、連合みたいなものとみなされていました。もちろん、本人たちにもそういうプライドがあったはず。それが、政実の乱を引き起こす背景となったんですが…それはこれからよく見ていきましょう。

 

 

何か不穏な雰囲気が…お家騒動の予感

 

 

南部晴政:Wikipediaより引用

政実の主・南部晴政には男の子が産まれていませんでした。そのため、永禄8(1565)年に従兄弟の信直を長女の婿養子(養嗣子)として迎え入れます。信直は政実と一緒に安東氏を撃退したこともあり、実績もある人物でした。

一方、晴政の二女は政実の弟・実親に嫁いでいます。

南部晴継:Wikipediaより引用

ところが、それから5年後の元亀元(1570)年、晴政は54歳にして初の男子に恵まれてしまったんですよ。名前は晴継(はるつぐ)。

しかもタイミングの悪いことに、婿養子としてやって来た信直の妻、すなわち晴政の長女が亡くなってしまいます。

正直、信直的には居づらいですよね。考えてみて下さい、もう少し先になりますが、豊臣秀吉も実の子が生まれると、養子たちを邪魔に扱いましたよね。我が子が可愛いのは当然ですが、当時はそんなものでした。

そのためか、信直は養嗣子を辞退して南部宗家の城を出ると、自分の城にこもってしまいました。

すると、南部家内が不穏な雰囲気になっていきます。

晴継を後継ぎにしたい晴政+南部家と姻戚関係のできた政実ら「晴継派」と、北信愛(きたのぶちか)ら一部の南部家臣たちによる「信直派」に分かれてしまったんです。

もうこれじゃ立派なお家騒動ですよ。どうしましょう。

 

やっぱり起きた!後継者問題とお家騒動

天正10(1582)年、晴政が亡くなると、抑えが利かなくなった両派の対立がはっきりとしてきます。ちょうど、西では本能寺の変が起きて大変なことになっていましたが、こちらはそれどころではありません。

 

後を継いだ晴継はまだ13歳でした。しかも何と、父の葬儀後、城に帰る際に暗殺されてしまったんです。病死説もありますが、これってやっぱり…信直のしわざ?みたいな雰囲気になりますよね。はっきりとはしていませんが、誰もがそう思っていたに違いありません。

晴継がいなくなっていちばん得をするのは信直。かつての養嗣子ですから、後を継いでもおかしなことはありませんものね。

 

そして、南部家臣団による会議が開かれました。候補に挙がったのは当然、信直。そして、晴政の二女を娶っていた政実の弟・実親でした。政実的にはもちろん弟が後を継いでくれた方が嬉しいですしメリットもありますよね。

 

しかし、信直派の北信愛が事前の根回しをしており、南部一族の大きな勢力を取り込んでいたため、会議の結果は信直が後継者ということになってしまいました。やっぱりいつの時代も根回しって必要なんですかね…。

 

政実は憤懣やるかたなし、でした。弟が当主になれなかったことは悔しいですが、それよりも、信直は晴継を暗殺したかもしれないのに、いけしゃあしゃあと当主の座につくとは何事か!ということですよ。

怒った政実は自分の領地へ戻ったきりになってしまい、天正14(1586)年頃からはついに「我こそが南部当主!」と自称するようになったんです。

実親じゃなくて自分なんだ…という突っ込みは置いといてくださいね。強い者が上に立つという道理です。お兄ちゃんですし、きっとそうです。

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どうしてそんなに反抗したのか?

 

それにしても、政実は自分が南部当主であると主張するほど、なぜそんなに反抗したのでしょう?

 

最初に述べた通り、南部家は一族による連合政権みたいなものでした。

しかし、豊臣秀吉が天下人となると、各地の領地を「ここはコイツのもの、あっちはアイツのもの」と確定し始めたんですね。これが天正18(1590)年の「奥州仕置(おうしゅうしおき)」で、簡単に言えば、「わしが領地決めてやるから、いつまでもごちゃごちゃ揉めてないで言うとおりにしなさい」ということです。

この時、信直は秀吉の元に馳せ参じ、信直が南部当主であることを認められちゃったんですよ。そして、今まで同列だった一族はみな、家臣となることを求められたんです。

 

今までほぼ対等な立場でモノ申してきたのに、何なんだよ!というのが政実の思いだったことでしょう。そして、信直が秀吉の所に行っていて留守の間に、九戸家は信直派の家臣を攻撃し始めたんです。他にも、秀吉の奥州仕置のやり方に不満を持った勢力が東北各地で一揆を起こし、東北全体が不安定になっていったのでした。

 

しかし、このままじゃ南部宗家が2つということになってしまいます。まるでどこかの伝統芸能の名門の後継者争いみたいですよ。どちらも譲らないので、さらにこじれていくことになってしまいました。

 

政実、挙兵す!

奥州仕置の翌年、天正19(1591)年の正月、本来なら家臣は主の所へ正月参賀に行くものですが、政実はこれを拒絶しました。信直への反意をはっきりさせたんですよ。そして同年3月、ついに彼は5千の兵を率いて挙兵したんです。

 

勇猛で知られた政実が指揮しているんですから、九戸勢は信直勢を圧倒します。加えて、南部家臣の中には「どっちに味方しても恩賞の土地とかもらえなさそうだし…」と日和見を決め込む一派もいました。

そのため、苦戦続きの信直は、「もう自分じゃ無理…」と、息子と北信愛を秀吉の所へ派遣し、助けを求めたんですよ。

 

さて、助けを求められた秀吉はというと「つまり、九戸政実はわしに反抗するということか!!」と激怒します。

他にも東北では一揆が多発していたので、その鎮圧も兼ねて軍を派遣することに決めてしまいました。

総大将は秀吉の養子・秀次(ひでつぐ/この時はまだ後継者の座にあった)を総大将に、会津の雄・蒲生氏郷(がもううじさと)、信直と秀吉の取り次ぎ役だった奥州仕置の実行役・浅野長政(あさのながまさ)、そして猛将・井伊直政(いいなおまさ)らなどがメインとなり、周辺勢力も加えて総数6万超の大軍団が、東北の端っこまで攻め込む事態となったんです。

 

5千の兵で6万の相手…勝ち目のない戦にあえて臨む

政実ら5千の兵たちがこもる九戸城は、あっという間に6万の大軍に包囲されてしまいました。見渡す限り敵・敵・敵…。それでも九戸勢は抵抗を見せ、勇敢に戦いました。しかし数的不利は明らか、正直、戦っても豊臣軍にとっては蚊に刺されたようなものだったことでしょう。

浅野長政:Wikipediaより引用

この時、奥州仕置の実行役で、この辺の事情をよく知っていた浅野長政が講和を持ちかけてきました。彼は、上方の統治のやり方と東北とで違いがあることをわかっており、それに対して人々が不満を持っていることも知っていました。そしてきっと、南部家の内紛もよく知っていたはず。だからこそ、戦いを長引かせないためにも講和を提案したんですね。

 

豊臣方の使者は、九戸氏の菩提寺の和尚でした。政実とすれば、無下にするわけにはいかない人物です。

講和の条件は、「開城するなら、女子供と兵たちは助けてやる(大将の首はよこせ)」というものでした。

 

これは相手側の謀略だと反対する者もいました。実際、謀略説もあったんです。

しかし、これ以上の被害を出したくない政実は、自分の命を差し出すことに決めたんです。

そして、彼は降伏し城門を開いたのでした…。

 

九戸城の悲劇:約束は守られなかった…

 

政実は、弟・実親に後を託し、家臣らと共に死を覚悟した死装束で城を出ました。

 

ところが、開城した途端に豊臣軍は城内になだれこみ、兵、女性、子供を皆殺しにしたんです。しかも火までかけたというんですよ。なんてひどいことを…。これを知った時の政実の絶望と怒り、とても想像できません。後世の発掘調査では女性を含む多くの人骨がここから出土し、斬首のあとが残っているものが多かったんだそうです。本当に、ひどい。ひどすぎます。秀吉の意思だったのか、秀次の指示か、いったい誰が決めたというんでしょう。

もしかすると、秀吉は最初から九戸勢を皆殺しにするつもりだったのかもしれません。

晩年の秀吉は暴君化し、秀次にもいわれのない謀反の罪を着せて切腹させ、その妻と子供を皆殺しにしています。その伏線がここにあったと勘ぐりたくもなりますよ。

 

そして、政実と家臣たちは秀次の本陣が置かれていた三ノ迫(さんのはざま/宮城県栗原市)に送られ、そこで斬首されました。56歳でした。

実は、信直や浅野長政は彼を助けて欲しいと願い出ていたみたいです。彼がどれだけ優れた人物なのか、敵であってもわかっていたんでしょうね。

 

政実の首は、生き残った家臣が密かに持ち帰って埋めたそうです。岩手県九戸村には彼の首塚や菩提寺、彼が戦勝祈願した九戸神社など、ゆかりの地がたくさんありますよ。

 

九戸政実の乱以降、豊臣政権に対する大規模な反乱はなくなりました。

政実こそ、権力者に対して「理不尽なものは理不尽!」という気概を見せた、最後の東北武士だったんですね。

 

まとめ

  • 政実は秀吉と同世代で、武勇に優れた人物だった
  • 九戸家は主・南部家とはほぼ同列の家格だった
  • 主の南部氏の後継者問題に巻き込まれる
  • 不本意な後継者決定に憤慨、自分が南部当主と自称するように
  • 秀吉の領地の決め方などに不満があったから反抗した
  • 南部宗家に対し挙兵、宗家を手こずらせる
  • 豊臣軍に包囲され、降伏を選ぶ
  • 命を差し出すも、九戸城内の人々も皆殺しという悲劇

 

九戸政実、最後まで理不尽と戦った人物でした。

 

しかも、あの豊臣秀吉に反抗するなんて、相当の勇気と誇りがなくちゃできませんよね。武士の心意気を最後まで見せつけてくれたと思います。

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