渇え殺しの苦しみの中で…吉川経家が極限状態で下した最後の決断に涙せよ!

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戦の作戦にはいろいろありますよね。水攻め、火攻め、夜襲…その中でも、派手さがないのに最も凄惨なものが、兵糧攻めです。

「干殺し(ほしごろし/ひごろし)」や「渇え殺し(かつえごろし)」とも言われています。

そんな渇え殺しの標的となり、城兵や農民たちと共に飢えに苦しんだ武将が、吉川経家(きっかわつねいえ)でした。責任感あふれる「義」の男だった彼が、最後に下した決断は、いかにも侍らしいものだったんです。

必ず誰もがその最期に涙する、彼の生涯をご紹介します。

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吉川家と毛利家のつながり…実は乗っ取りでした!?

 

経家の誕生を記す前に、吉川家と毛利家について少し触れておかなくてはいけません。

戦国時代、中国地方の雄となった毛利元就(もうりもとなり)は、周辺豪族に「養子」として自分の息子たちを送りこみました。彼らは成長するとその家を継ぐこととなり、事実上の乗っ取りを成功させていったわけなんですね。その最たるものが、吉川家と小早川家なんです。

吉川元春:Wikipediaより引用

そんな吉川家には、元就の二男・元春が養子に入り当主となりました。

吉川家は各地に分家がおり、さまざまな吉川家が存在しましたが、経家の家は石見(いわみ/島根県西部)を拠点とした石見吉川家だったんですね。

とは言っても、経家の父・経安(つねやす)もまた同系一族からの養子なので、まあ、違う家になっちゃったと言えばそれも否定できませんが。

 

石見吉川家の嫡男として生まれる

というわけで、天文16(1547)年、経家は毛利家臣・吉川経安の嫡男として誕生したんです。父・経安は石見銀山の管理を任されていたくらいなので、けっこうデキる人物であり信頼もされていたんでしょうね。

 

永禄3(1560)年、遠く東の桶狭間で織田信長が今川義元を破った頃、14歳になった経家は元服しました。その翌年には、毛利家最大のライバル・尼子(あまご)家に寝返った石見の豪族に5千もの兵で居城を攻められますが、父と共にこれを撃退しています。当時としてはまだ珍しかった火縄銃を使用したとのことで、財力も相当あったと見ていいでしょう。何せ、一説には一丁が何百万、それ以上の価値を持っていた時もあったそうですから。

 

信長・秀吉による中国征伐の始まり

しかし、天下の情勢は徐々に毛利家にとっては不穏なものになっていきます。先ほども触れましたが、織田信長の勢いは他の戦国大名など足元にも及ばないものでした。「天下布武(てんかふぶ)」のスローガンを掲げた信長は、各地の勢力を武力でもって制圧し、その圧倒的な力を示して天下を取ろうとしていたんです。

 

東からやって来た信長の次なるターゲットは、西。西とはもちろん、毛利家のことでした。

そして、当時頭角を現してきた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に中国地方、つまりは毛利征伐を命じたんです。

毛利家もまた全盛期を迎え、吉川・小早川家、通称「両川(りょうせん)」という強い支えを持ち、東へと目を向けていたところでした。織田信長は目下の敵だったわけです。信長と仲違いした室町幕府将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の命により、反信長の戦国大名たちと「信長包囲網」の一角を担っていたということもありました。

 

となれば、毛利家の家臣として、吉川家は戦いに臨みます。

こうして、経家もまた、否応なしに戦乱の世に巻き込まれていくこととなりました。

 

鳥取城主が怖気づいて織田方に投降

秀吉は、さすが後に天下を取るだけの実力を持っていた男です。中国征伐はじわじわと進み、特に、播磨(兵庫県)での三木合戦は、「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めを行って制圧していたんです。

山名豊国:Wikipediaより引用

着々と侵攻してくる織田方の軍勢に、因幡(いなば/鳥取県東部)の鳥取城主・山名豊国(やまなとよくに)は、織田方への降伏を考え始めました。元々彼は毛利勢に攻められて従っていただけなので、織田方の強さを見せつけられたらやっぱりこっち…と思ったのも仕方がないことなのかもしれません。長いモノには巻かれた方がいい時もありますよ。豊国を責めてもしょうがないんです、ハイ。

 

そういうわけで、怖気づいた山名豊国は、家臣たちの抗戦主張には耳も貸さず、なんとひとりで秀吉の陣に行って「ごめんなさい降伏します」と頭を下げてしまいました。

しかもこの人、何と、翌年の鳥取城攻めにはちゃっかり秀吉方として従軍し、後に徳川方に付き、大坂の陣も見届け、江戸時代まで生きてるんです。彼にとっては、この時の選択はベストだったってことですよね。戦国の世の定めとはいえ、この後の経家の行く末を知ると、なんだかなあ…という気持ちにはなってしまいます。

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鳥取城主となるも、その手には首桶を携え…

鳥取城(石垣):Wikipediaより引用

山名豊国が秀吉に投降したのが天正8(1580)年でしたが、本格的な鳥取城攻めが始まったのは翌年のことでした。

 

城主がいなくなってしまった鳥取城の家臣たちは、吉川家の頭領・吉川元春に支援を頼みます。そこで、元春が選んだのは、吉川一門の中でも武勇に優れ、聡明として知られていた経家でした。

しかしそれは、裏を返せば、とても厳しい任務だったわけで…。

 

入城の際、経家は「首桶(くびおけ)」を持参していたと言います。「首桶」とは言葉通り、自らの首を入れる桶。首を斬られる覚悟があったということなんですね。

もう、この時点で悲壮感が漂い過ぎて、切なくなってきます。

 

そして鳥取城に入った天正9(1581)年2月、経家は城兵の他の戦力も確保すべく、周辺の農民も城に入れました。これでおよそ4千の兵力となりましたが、秀吉の軍はおよそ2万。まだまだ対抗できるような数ではありません。

となれば、打って出るより拠点に籠もる方がまだマシ。経家は籠城戦を選びました。

 

ところで、戦には兵の強さや数も必要ですが、いちばん大事なのは「補給」です。補給路が不安ならば、十分な兵糧を確保してから籠城するのが当然のことなんですね。

当時、鳥取城には約3ヶ月分の兵糧があったといいます。しかし、農民兵を入れたことで足りなくなる恐れが出てきたため、経家はすぐに近辺の商人の元へ米を買いに部下を走らせました。

 

ところが、経家を愕然とさせる報せが届いたのです…。

 

軍師・黒田官兵衛の秘策と秀吉再度の兵糧攻め

黒田官兵衛:Wikipediaより引用

経家の元に届いたのは、すでに因幡国内の米がすべて買い取られてしまっているという事実でした。

これは、秀吉の軍師・黒田官兵衛(くろだかんべえ)の策だったと言われています。あらかじめ兵糧攻めを決めていたため、国内の米を相場よりもずっと高い値で買い取ってしまったんですね。それにつられて、鳥取城内の兵までもが城の備蓄米を売ってしまったという話もあるくらいなんです。

 

そして、秀吉軍は陸路だけでなく海路や河川まで封鎖し、徹底的に鳥取城への補給路を断ったんですよ。これでは、いくら毛利といえども経家を助けてやることができません。

 

じわじわと窮地に追い込まれていく間、経家はどんな気持ちでいたんでしょうか。戦らしいことは何もしていないのに、すでに絶望的な状況。大将として、戦う前から城を明け渡すわけにもいかず、それでいて、城兵を飢えさせるのもしのびない。とても苦しい胸の内だったはずです…。

 

飢餓は人を鬼にする。鳥取城の阿鼻叫喚

6月になると、秀吉軍2万は鳥取城を包囲します。しかしそれ以上のことは何もしません。ただじっと、鳥取城の兵糧が尽きるのを待っていたんです。

何もしなくても、人間は物を食べます。兵糧は日に日に減っていき、ついには尽きてしまったのでした。

 

最初のうちはみな我慢していましたが、時間が経つにつれて、兵糧攻めの恐ろしさが表れ始めます。

2ヶ月目には城内の家畜や植物を食い尽くし、3ヶ月目になると餓死者が出始めました。

そして、ついには、死者の肉を食らうまでになってしまったんです。

 

この時の状況が歴史書に記されており、痩せ衰えた人々が包囲の柵にすがりつき、助けてくれと叫ぶ有様だったそうです。

しかし秀吉軍は、反対に彼らに鉄砲を撃ち込みました。

そして倒れた人々に、別の人々が群がり、その肉を食らうという地獄絵図が繰り広げられたのです…。籠城戦の非情さの極み。

 

このような状況に至り、経家は、責任はすべて自分にあり、として降伏を決めました。

 

責任は、自らの命で…

経家は秀吉に使者を送り、自らの自害で責任を取るので、兵たちの命は助けて欲しいと申し出ました。

しかし秀吉は経家の才能を惜しみ、籠城に至る原因となった山名豊国の家臣たちの自害だけでいいと答えますが、経家は頑としてそれを受け入れません。あくまでも、自分が死ななければダメだと言うんです。

困り果てた秀吉は、信長に経家をどうしたら良いかという使者まで出しています。本当に、経家が惜しかったのでしょうね。

信長の返事は、「経家の好きにさせてやるがいい」というものでした。

そして、秀吉は、泣く泣く経家の申し出を受けることにしたんです。

 

10月末の早朝、城兵と同様、痩せ衰えた経家は家臣たちと別れの盃を交わし、自刃しました。享年35…。まだまだこれから、という時の悲劇でした。

 

経家の首は首桶に入れて秀吉の元に届けられ、彼はそれを見るなり「哀れなる義士よ!」と泣いたそうです。

この後、首は信長の元へと送られましたが、あの信長でさえ、この首を丁重に葬ったそうですよ。

 

経家の遺書にこめられた思い

自刃を前にし、経家は何通かの遺書をしたためていました。

一通は吉川元春の息子・広家宛てのもの。

これには、「日本の2つの弓矢(織田と毛利)の間で切腹するなら、この上ない名誉です」と書かれています。

 

そして、思わず涙してしまうのが、子供たちに宛てたもの。子供が読めるように、全部ひらがなで書いてあるんですよ。

 

「父は200日こらえたが、兵糧が尽きてしまった。私ひとりの命を差し出し、皆の命を助け、一門の名を挙げるのだ。そんな幸せな話を(生き残った者から)聞いてくれ」

 

最後に、子供たちひとりひとりの名前が書き連ねてあります。

これが幸せな話だなんて…と思いますが、これこそ、経家が貫いた義士の道だったんですね。

 

そんな彼の生きざまに感銘を受けたのは、後世の人々も同様でした。平成に入ってから、鳥取市内には彼の銅像が建てられたんですよ。

ちなみに、落語家の5代目三遊亭圓楽(昔、「笑点」の司会をしていた方です)は、経家の三男の子孫だとか。そのため、肖像画の残っていない経家の銅像を建てるに当たり、モデルのひとりになったそうですよ。

ちなみに5代目圓楽の本姓は「吉河(よしかわ)」。祖父の代に、吉川から改めたのだそうです。こうして、経家の血は今に受け継がれているんですね。ちょっと嬉しくなるエピソードでした。

 

まとめ

  1. 吉川本家は毛利家の分家みたいなものだった
  2. 経家は吉川本家の分家筋に生まれたが、毛利家臣として信頼を得ていた
  3. 織田信長による中国攻めにより、戦へと身を投じた
  4. 信長の勢いにビビった鳥取城主が投降
  5. 新たな鳥取城主として、経家は首桶を持参して入城した
  6. 秀吉軍の兵糧攻めに、戦わずして絶望的な状況に追い込まれた
  7. 飢餓に苦しむ人々を目にし、降伏を決断
  8. 責任を取るため自害を申し出た
  9. 義士そのままの遺書が泣ける

 

秀吉が惜しみ、信長も認めた義士・吉川経家。腹を切って責任を取るやり方は戦国時代に多くありましたが、経家の切腹ほど惜しいものはないと思います。

 

同時に、兵糧攻めの怖さを感じた次第です…。

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