賎ヶ岳7本槍 加藤嘉明 陸、水軍を率いたマルチプレーヤー「沈勇の士」

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賎ヶ岳7本槍といえば加藤清正、福島正則らが有名ですが、そのうちの1人加藤嘉明も、のちに水軍も率いるなどして順調に出世した武将です。

冷静沈着な人となりから「沈勇の士」として称えられ、伊予松山藩主さらに陸奥会津藩主になりました。

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戦国時代の求人募集

戦国時代、出世を求めて大名家を渡り歩く武士も多く、武将たちも良い人材を探し求めました。

武将が求人募集を出したとすれば

「命知らずで槍働きに優れた豪傑の士求む。武功あれば人物一切不問。感状(表彰)あれば尚可」

といったところでしょうか。

乱世なのでとにかく武辺に優れた者を求めていました。

どこそこの戦いで一番槍を挙げたといった武名で知られた豪傑は売り手市場。

オファーが殺到しました。とにかく強ければ何でもアリ。

かつての敵だろうが性格が悪かろうが構いませんでした。

一方でまったく違う人材を求めていたのが今回紹介する加藤嘉明。

彼が求人したとすれば

「こつこつ働く責任感のある実直の士求む。豪傑不可。経験(武功)よりも人柄重視」

といったところでしょうか。

えー乱世で豪傑不可って大丈夫?

豪傑が怖いとか?

などと心配になりますが、戦国時代にちょっと変わった人材を求めた加藤嘉明、どんな人なのか気になりますよね。

父の失業、孤児、博労からスター

加藤嘉明の人生は、父の失業、孤児というまさかのマイナススタートでした。

「大樹寺御難戦之図 三河後風土記之内」 月岡芳年筆 明治6年:Wikipediaより引用

父岸教明は松平元康(のちの徳川家康)の家臣でしたが、三河の国一向一揆で元康に敵対して敗退。

一家は生まれて間もない嘉明を抱えて流浪の末、近江に逃れました。

嘉明は両親を相次いで失い孤児になり、博労(ばくろう 馬の仲買人)の手伝いをして成長したようです。

近江の国にいたのが幸いしました。

13才の頃、暴れ馬を制したのが近江長浜城主・羽柴秀吉の家臣加藤景泰の目に留まり、秀吉の家臣に推挙されます。

そして加藤姓を名乗るようになりました。

嘉明は槍働きしようと張り切りますが、最初に命じられたのは秀吉の養子秀勝(織田信長の子)の小姓。

加藤清正:Wikipediaより引用

ほぼ同い年の加藤清正や福島正則らが秀吉の直参なのに比べ、まだ少年である秀勝の下につけられた嘉明は、初陣が遠のいたと面白くありません。

加藤清正らが秀吉に従って播磨攻めに出かけたのを知った嘉明は城を抜け出し、なんと戦陣の秀吉の元へ。

これを知った秀吉の妻おねは

高台院(おね):Wikipediaより引用

「秀勝をほったらかしにして。クビです」

とカンカン。

しかし秀吉は嘉明の勇気をほめて許したばかりか、直臣にして300石を与えました。

チャンスは自分でたぐりよせるタイプだったようです。

その武名がとどろいたのは賤ヶ岳の戦い。

賤ヶ岳の戦い:Wikipediaより引用

加藤清正、福島正則らとともに活躍して7本槍と称えられ、3000石を与えられます。

さらに四国討伐の功績で淡路1万5000石の大名へと出世しました。

嘉明はどん底からはいあがり、ついに大名になりましたが、彼の快進撃はまだまだ止まりません。

水軍を率いて朝鮮出兵で活躍

嘉明の転機となったのが淡路の大名となって淡路水軍を任せられたことでしょう。

嘉明は秀吉に従う利を説いて水軍を味方に引き入れ、以後、九州攻めや小田原の北条氏を海から攻めるなど活躍します。

そして朝鮮出兵でも水軍を率いて出陣。

李舜臣率いる朝鮮水軍とも奮戦し、伊予松前6万石、のちに10万石に出世します。

そんな嘉明の宿敵が藤堂高虎。

確執のきっかけの一つが朝鮮出兵でした。

敵の300隻を超す大船団が現われた時、

「大船で攻撃すべし」

という藤堂高虎に対し、嘉明は

「中船を出して敵の追尾を誘い、そこを攻撃するべき」

と主張しますが採用されたのは高虎の案。

しかし嘉明は武勲をあげるチャンスを逃しません。

「家臣の船が出ているので、連れ戻します」

と言って船に乗ると、あれよあれよと敵に近づき、勝手に敵を襲撃し見事な戦いで敵の船を分捕ります。

軍令違反ですが、活躍があまりにも凄すぎて不問にふされました。

地味に武将だなんて言わせません!

後に高虎が

「武功は自分が随一」

と言うと、

「あなたは小船を捕えたのみ。大船を捕った私とは比較になりません」

と答えます。

これに怒った高虎が刀を抜いて斬りかかろうとしますが、

「周りの目を気にしてむやみに怒るのは小童がすること」

と嘉明が悠然と言い放って押しとどめます。

嘉明は周りから器量人だと感心されました。

嘉明は、いつも冷静沈着だったため沈勇の士と言われましたが、苦労人だけにいつも冷静に周りを見ていたのでしょう。

そしてチャンスがあれば逃さず食らいつく勇気ももっていました。

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善人をもって宝となし、金銀をもって宝となす

ここまで見てあれ?と思うかもしれません。

嘉明も決してヘナチョコなどではなく、武勇が際立つ武将。

そんな嘉明が、本当に冒頭のように豪傑を嫌ったのでしょうか。

嘉明は人とお金を大切にしました。

「『善人をもって宝となし、金銀をもって宝となす』である」

と述べています。

苦労人だった嘉明は人に対する観察眼が鋭く、人情の機微に通じ人間観には一家言あったようです。

彼が真の勇者としたのは正義感がある実直な武士。

なぜなら力は弱くても団結すれば何倍もの力を発揮できるからです。

責任感をもって律儀に働きぬくことができる人が最後に勝利をつかむと言いたかったのでしょう。

逆に嫌ったのはおべっか使いで調子の良い人物。

豪傑自慢にそういう人が多かったのか、自分の武功を頼みに勝つときは良いが、危機に際しては平気で人を裏切るとこきおろしています。

どうやら嘉明は武功自慢の人をお嫌いだったようです。

塙団右衛門(塙直之):Wikipediaより引用

嘉明もひょんなことから塙団右衛門という抜群の勇士を雇いましたが、武功にはやり、嘉明の指示を無視して戦います。勝ったものの多くの家臣も失いました。

「勝ったからいいじゃん」

とうそぶいた団右衛門は追放されています。

目先の活躍や功名に目を奪われず人の誠を見る嘉明、現代にほしい面接官ですね。

トップマネジメントを頑張る嘉明

家臣にも律義さを求める分、嘉明は涙ぐましいほどの気配りでその思いに答えます。

ここからはトップマネジメントを頑張る嘉明のエピソードをいくつか紹介していきます。

道具持が管理する道具の中から金目の物を盗んだことがばれました。

嘉明はその道具持をとがめるどころかその苦しい家計を知ると、身の立つように手配してやりました。

家臣が高価な十客そろいの皿の一枚を割ってしまいます。

嘉明はここでも家臣を叱るどころか、

「かえってお前につらい思いをさせた。これを見るたびにみんながお前のことを思い出してしまう。私が悪かった」

と言うと、残りの九枚を割ってしまうのです。

主君が謝った上に、高価な皿を自分で割るとは驚きです。

こんな主君の所には

「1枚、2枚~」

と数えながら祟る番町皿屋敷のお菊さん・・・間違っても出てこないですよね。

嘉明は家臣たちの人間関係にまで首をつっこみます。

家臣たちが他の家臣の悪口を言っているのを耳に挟むと、鴨と酒を持ってその輪に入り、日ごろの労をねぎらいながら、

「そんなこと言うもんじゃないよー」

とさとしたそうです。

家臣以外にも気配りエピソード

その気配りは家臣以外にもみられるのが凄いところ。

松山城下で城下町作りにかかわた豪商がいました。

この豪商は「念仏堀」という外堀を作った人で、仕事はできるが口が悪く、たとえ相手が嘉明であろうと思ったことずばずば言い、失言が多い人物でした。

ある時、その妻がなんと嘉明に夫の直言癖について相談します。

すると嘉明は妻に

「自分たちは失言とは思っていない。誰にでもあることだから心配しなくていいよ。ただし一日3度までは許して4度以上になったら妻として意見しなさい」

とアドバイス。

人妻のお悩み相談にのるとはお殿様も大変です。

関ヶ原合戦前に曲者が嘉明の陣に近づきました。

家臣らが討ち取ろうとしますが、嘉明がそれをおしとどめます。

「主君のために働いた律義者だから許してやれ。わが陣の備えを怠らなければ勝敗には関係がない」

となんと敵までも律義者として許してやるのです。

関ヶ原合戦では石田三成憎しもあり、

家康の東軍につきましたが、嫌いな三成が敗走するのを

武士の情けと深追いさせませんでした。

ここまでくると、優しすぎるお殿様を通り越して仏さまのような人です。

だけど気配りも楽ではなかったようで、嘉明も努力していました。

他の武将に家臣をまとめる方法を尋ねられると、

「穏やかな波間に漂うカモメのようにあるべき」

と答えたとか。

そう、波間にただようカモメですよ。

カモメ。働きやすい場を提供しようとする思いやりを感じますよね。

その分

「殿様はつらいよー」

という嘉明のツブヤキが聞こえそうです。

パワハラ、モラハラを繰り返して自分のストレスを発散させている現代の上司に、爪の垢を煎じて飲ませたいと思う人も多いのではないでしょうか。

博労の経験から金銭感覚も身に着けていました。

戦国の世、戦いのために金銀が必要になるため常日頃から倹約を心がけていました。

関ヶ原合戦では松山から家臣たちを召集するのが間に合わないため、ため込んだ金銀をつぎ込んで兵を雇っています。金の使い方もうまかったようです。

個性の強い戦国武将の中にありながら、嘉明は目立つ存在ではなかったものの陸戦、海戦を得意としたマルチな能力と卓越した観察眼、円熟した人柄で、関ヶ原合戦後に伊予20万石さらに会津40万石の藩主にまでになりました。

東北の要衝・会津を治められるのは嘉明しかいないと推挙したのが高虎だったそう。

それを知った嘉明は高虎とも仲直りしています。

その後の加藤家

高虎とも和解しハッピーエンドと思いきや歴史は残酷です。

下剋上を果たし、時代の移り変わりも乗り切った嘉明の苦労と努力は、バカ息子明成のせいでフイになります。

嘉明の死後、跡をついだ明成は家老と争いを起こし、家老が出奔すると意地になり、世間を騒がす大騒動に。改易されてしまいます。気配りの人嘉明も、子育てだけは難しかったようです。

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