関ヶ原の戦いで命を落とした武将(あるいは小早川秀秋の犠牲者とも言う)は数あれど、平塚為広(ひらつかためひろ)ほど、死に際の美学を感じさせてくれた人物はいないと思います。
ある種の爽快ささえ感じられるほどのその死にざま、大谷吉継との泣かせるやりとりなど、彼を語る上で欠かせないエピソードをたっぷりご紹介します。
平塚為広という男
平塚為広の生年は不明です。
ただ、元々は相模(神奈川)付近の豪族・三浦氏の一族であったようで、平塚郷に領地を得た際に「平塚」姓に改名したと伝わっています。
そして、彼の前半生もまた謎に包まれています。
ただ、おそらく羽柴時代の豊臣秀吉に仕えていたと推定されます。
理由はわからないのですが、秀吉の不興を買って追われ、浪人となっていたんだそうですよ。
しかし復帰のチャンスはほどなくして訪れます。天正5(1577)年、秀吉が中国地方の毛利勢力を平定する際、毛利方についた播磨(兵庫県南西部)の豪族・福原助就(ふくはらもとなり)のこもる高倉山城を攻めた時のこと。
為広は秀吉の参謀的存在だった黒田孝高(くろだよしたか/官兵衛、後の如水)に陣を借りて参戦、城主の福原を討ち取るという大きな武功を挙げ、秀吉に帰還を許されたんだそうですよ。良かった良かった。
…って、こんな話、どこかで聞いたことあるなと思ったら、似たような経緯を持つ戦国大名がいましたよ。仙石秀久(せんごくひでひさ)。

出典:Wikipedia
彼もまた秀吉の不興を買って(これは彼が戦で逃げ出したから悪いんですが)浪人となり、小田原の北条攻めの時に参上、大きな戦功で秀吉に激賞されたという…。ま、戦国時代はこんな風に似たようなエピソードがいくらでもありますからね。為広が頑張ったということにしておきたいとおみます。
秀吉のそばで、女の戦いも見てたかも!?

こうして秀吉の家臣に復帰できた為広は、その馬廻(うままわり/大将の馬の回りで護衛役を務める)として彼のそばに控えるようになります。
以後、徳川家康と戦った小牧・長久手の戦いや、小田原の北条征伐、朝鮮出兵にも参加しました。
こうした功績により、為広は8千石を与えられるまでに出世します。大名となる1万石ラインまであと少し!頑張れ為広。

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慶長3(1598)年、死去直前の秀吉は、千人以上もの人々を集めて、京都で豪華な花見の宴を催しました。これが醍醐(だいご)の花見です。為広はここで秀吉の護衛を務めていました。
この花見、側室たちの衣装代だけでウン十億もかかったという、とんでもない豪華さの宴会でした。現代だったら証人喚問どころの話じゃ済みませんよ。

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ここで起こったのが、秀吉の側室同士のオンナの争い。正室・北政所(きたのまんどころ/おね)の次に誰が盃を受けるかを巡り、秀吉の寵愛を受けていた淀殿と松の丸殿が一触即発の事態となったという…。
前田利家(まえいだとしいえ)の妻・まつのナイスアシストにより、この場は何とか収まりましたが、きっと秀吉のそばでこれを見ていたであろう為広、ガクブルものだったでしょうね。「おなごとは、どうしてかように恐ろしいのか…!」なんて。
あえて石田三成方に付いたその漢気に涙

この花見から半年も経たずして秀吉が亡くなると、為広はその子・秀頼に仕えます。まだまだ幼い秀頼を守り、盛り立てて行こうという気持ちだったはず。そして、慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの直前には美濃垂井(みのたるい/岐阜県垂井町付近)に1万2千石の領地を賜り、ついに大名にまで出世したんですよ。これならなおさら、秀頼に尽くさなくてはと気持ちを新たにしたことでしょうね。
ただ、この頃はもう政権内に不穏な空気が漂い始めていました。
秀吉がいなくなり、事実上政権内でいちばんの力を持ったのが徳川家康。明らかに天下を狙っているとしか思えない動向に、秀吉の側近だった石田三成などは敵意を募らせていきます。
そして、家康が東北の上杉景勝(うえすぎかげかつ)討伐軍を組織して関東へと向かっている間に、三成は隙をついて挙兵することを決めたのでした。
この時、為広は三成の親友・大谷吉継と共に、三成の居城・佐和山城を訪れて説得を試みています。2人の意見は、「勝ち目はないから挙兵は思い止まった方がいい」というものだったんですが(大谷吉継は「お前(三成)には大将の器もないし人望もないからダメだ」とまで言ったのに…)、三成は頑として聞き入れません。仕方なく、2人は説得を諦めました
ただ、ここでそのまま去らないところが2人の漢気。
不利だと分かっているのに、2人は三成方に付くことを選んだんです。この場で三成と決別してしまっても良かったのに、友情を選んだんですよ。なんて漢気なんでしょうか…!
関ヶ原の戦いでの小早川秀秋暗殺計画!?

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こうして、慶長5(1600)年、家康の大坂留守中を狙って、三成は挙兵します。その知らせに接した家康が戻ってくるまでに、三成方の西軍は、家康方の東軍とすでに前哨戦を開始していました。
為広は、伏見城を守る家康の家臣を攻め、ここでも武功を挙げています。その後は主に大谷吉継の軍に属し、行動を共にしていたようですよ。
さて、家康が来る前に関ヶ原に着陣した吉継と為広。
実は、この頃すでに西軍側でも「小早川秀秋が家康に内通している」という噂が広がっていました。
小早川氏は、西軍の総大将・毛利輝元(もうりてるもと)の毛利一族でしたが、秀秋自身は亡き秀吉の義理の甥であり、養子だった時期もありました。つまりは「絶対に豊臣側でしょ」的な見方をされていたんです。
西軍=豊臣方とは言えないんですが(あくまでも関ヶ原の戦いは東軍VS西軍、豊臣家臣たちのケンカということになっているんです)、毛利輝元が秀頼と一緒に大坂城にいるものですから、まあやっぱり、西軍は豊臣を奉じているとみなされちゃいますよね。
しかし、そんな秀秋の不穏な動向は、西軍にとっても弱点だったわけです。
もちろん、吉継の耳にもその噂は入っていました。そして彼は、為広に、小早川方への探りを入れることと、噂がもし本当ならば秀秋を暗殺せよとの命令を下していたんだそうですよ。
ただ、この暗殺の企みは小早川方に察知されてしまい、実行できなかったとされています。
本戦突入、そして小早川の裏切り

結局、小早川秀秋の内通の噂をはっきりさせることができないまま、関ヶ原の戦いは始まりました。
それでも、大谷吉継は秀秋の裏切りを予見し、為広ら360人ほどを小早川隊への備えとして配置しています。
最初、戦況は西軍有利で進んでいました、布陣から言っても、ほぼ山の上を制した西軍に対して、東軍は平地を突っ込んでくるしか無かったため、ふつうに戦えば西軍の勝利はほぼカタかったんです。
しかし、やはり秀秋が裏切りました。
なかなか裏切らないので家康がしびれを切らし、鉄砲を撃ち込んだとまで言われていますが、とにかく秀秋は西軍を裏切ったんです。
一斉に山を駆け下りてきた小早川隊に対するは、為広率いる360人を先陣とした大谷吉継の隊です。
為広は奮戦し、何度も小早川隊を押し返す勢いでした。歴戦の強者である為広に率いられた兵たちですから、ちょっと微妙なスタンスでいた小早川隊よりは士気も高かったんでしょう。
ただ、小早川隊は西軍でも最大兵力に匹敵する1万5千もの大軍。
多勢に無勢とはこのことで、徐々に為広は押し返され、吉継の隊も巻き込み乱戦となり、ついには壊滅状態に陥ってしまいました。
吉継と交わした別れの句に涙!

薙刀の名手として知られた為広は、自らそれを振るい孤軍奮闘を続けました。
しかし、やがて力尽き、もはやこれまでと覚悟を決めます。
そしてしたためた辞世の句がこちら。
「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ つひにとまらぬ 浮世を思へば」
「世の移り変わりを止めることはできない…人はいつか死ぬのだから、名誉のために(一説には「君のために」とも)命を捨てることは惜しくはない」という意味を込めたこの歌を、為広は自分が討ち取った武将の首と一緒に吉継へと届けさせたと言います。同じく敵中で孤立しているであろう親友に対する、別れの歌でした。
そして、それを受け取った吉継は、自らもまた辞世の句を詠みます。
「契りとも 六の巷に 待てしばし おくれ先立つ 事はありとも」
(あの世でも縁があるなら、死後の世界の六道の辻で待っていてくれ。遅いか早いかはわからないが、いずれ私もそこへ行くことになるのだから)
なんとも熱い、男同士の友情ではありませんか…! 涙無しには読めません。
この歌を詠んだ後、吉継は側近に介錯させて自刃したのでした。
これが、為広に届いたかどうかはわかりません。乱戦の中のことですから、もしかしたらそんな余裕はなく、届かなかったかもしれません。
けれど、届いたと思いたいですよね。私は届いたと思ってます。
為広の心意気は子孫に伝わる
吉継の返歌が届いたということにして、進めていきたいと思います。
それを詠んだ為広は、きっとにやりと笑ったのではないでしょうか。そして、最後の力を振り絞って薙刀を振りかざしたはず。
彼の最期については、逸話があります。
相手方の兵が突き掛かってきた槍を、為広は薙刀で受け止め、かわそうとしました。
しかしその瞬間、その刃は根元からポキリと折れたのです。
為広の運命が終わりを告げた瞬間でした。
そして、彼は討ち取られたのです…。
いずれにせよ、為広は奮戦し、最後のきらめきを放って燃え尽きたんです。
為広の子供たちのうち、ひとりは父と共に戦死し、もう一人は大坂夏の陣で戦死したと言われています。
弟のみ家康方に捕らわれましたが、家康が「平塚の武勇と義の心を絶えさせてはいかん」と放免されたとも伝わっているんですよ。
そして、なんと実は、平塚家はずっと続いています。
明治時代に至り、政府官僚となっていた子孫・平塚定二郎(ていじろう)によって、為広が布陣したと思われる関ヶ原の地に「平塚為広の碑」が建立されました。

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そしてこの定二郎の娘が、女性の権利獲得を叫び活動した平塚らいてうなんですよ。彼女もまた、為広の碑を建立するのに関わっているそうです。
男尊女卑の考えが大勢を占める当時、世論と戦い続けた彼女の姿勢は、関ヶ原で力尽きるまで薙刀を振るい続けた、漢気あふれる為広の姿に重なりはしないでしょうか。
まとめ
- 秀吉の不興を買い浪人となるが、武功を挙げて復帰した
- 醍醐の花見では秀吉の護衛役を務めた
- 大谷吉継と共に石田三成の説得を試みるも失敗、それでも三成の味方となった
- 小早川秀秋の暗殺を密かに命じられていた?
- 裏切った小早川の大軍相手に奮戦した
- 辞世の句を大谷吉継と交わした
- 子孫には女性運動家・平塚らいてうがいる
あえて三成に味方し、大谷吉継と交わした辞世の句…その漢気に満ちた人生には、きっと誰もが心を打たれると思います。
それにしても、平塚らいてうが子孫だとは驚きでした。
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