三河の国の矢作橋(やはぎばし)
蜂須賀小六と言えば、三河の国岡崎は矢作橋での日吉丸(後の豊臣秀吉です)との出会いが有名です。
「橋の上で眠りこけている日吉丸の頭を、通りかかった野武士の頭の小六が一蹴り。起き上がった日吉丸、恐れ気も無く小六を睨みつけ、「人の頭を蹴りて挨拶も無しとは無礼なり。詫びていけ」。小六はこの小僧面白い奴とその場で手下に引き入れ、「初手柄を見せよ」とけしかけます。日吉丸はすぐさま、橋の東に店を構えた味噌屋の松の木によじ登り、内から門を開いて小六の一味を引き入れ・・・」
とお馴染みの場面ですが、実はこの話後世の創作なのです。武内確斎(たけうちかくさい)筆の『絵本太閤記』に出て来る逸話の一つで、『絵本太閤記』とは豊臣秀吉の生涯を描いた一代記、江戸時代寛政年間の大ベストセラーです。
では本当の蜂須賀小六はどんな人物だったのでしょう。今日はそんなお話など。
蜂須賀党の誕生
蜂須賀小六正勝:Wikipediaより引用
蜂須賀小六は、尾張海東郡蜂須賀郷(かいとうぐんはちすかごう)の土豪の家に生まれ、畑を耕したり野山に獣を追ったりして暮らしていました。しかし天文12年(1543年)17歳の時に、兄八右衛門(はちえもん)と共に故郷を出て、亡き母の実家、丹羽郡宮後村(にうぐんみやうしろむら)の安井家に移っています。当時尾張の国に勢力を振るっていた織田信秀が、蜂須賀郷をわがものにせんとたくらみ、蜂須賀家を圧迫して来たのです。
家族散り散りに逃げのびた小六は、信秀憎しとその頃信秀と対立していた美濃の国の斎藤道三の傭兵となります。この時小六は初めて戦場に立ちました。喰うためにその後も傭兵家業を続けた小六でしたが、やがて宮後村周辺の土豪や木曽川沿いの人足たちを集めて、その頭におさまりました。世に言う蜂須賀党の誕生で、1,000人の荒くれ男たちを配下にしたのです。
信長・秀吉との縁
その頃兄の八右衛門が、宮後村と隣り合った小折村(こおりむら)の土豪生駒家から、嫁を迎えました。生駒家は灰と油を扱う大商家でもあり、兄の縁で小六の蜂須賀党は、生駒家の荷駄の護衛に付き、尾張から美濃・伊勢・三河まで足を伸ばします。
この生駒家にはもう一人、嫁ぎ先で夫を亡くし戻ってきている娘が居ました。この娘の美しさに惚れてしまったのが、なんとあの織田信長。生駒家に立ち寄った信長に、湯茶の接待をしたのが縁でした。この女性こそ、信長が生涯にただ一人愛した女性と言われる生駒氏です。これ以降信長は、鷹狩りなどにかこつけて生駒氏の元に通いつめ、やがて嫡男信忠が生まれます。ここで小六と織田家の間につながりが出来ました。
織田家に仕えることになった小六は、織田信長による美濃侵攻にあたって、墨俣城(すのまたじょう)築城でひと働きします。
信長から築城を命ぜられた木下藤吉郎(秀吉)が、1,000の手下を抱える小六に助けを求めて来ました。墨俣の地は大小の河川が入り乱れて流れる沼地で、城のような大きな建物を築ける土地ではありません。
最初のうち小六はこの頼みを相手にしませんでした。土地の様子を良く知っていましたし、第一そこは敵地だったからです。しかし藤吉郎の弟小一郎(秀長)がやって来て、頭を下げました。秀長の朴訥で正直な心根に感じた小六は、蜂須賀党1,000を引き連れ築城に協力します。他の土豪衆と協力して、短期間で城を築き上げた小六は、これより秀吉配下となり戦場を駆けるようになりました。
意外に頭脳派
蜂須賀小六(正勝)と言えば土豪上がりの荒くれ者、腕っぷしばかりが強調されますが、この人意外にも頭脳派なのです。
本能寺の変の後、秀吉が大急ぎで都へ戻る途中、姫路城で城に蓄えてある金銀米穀を家臣たちに分け与えますが、その時に城の金奉行・米奉行・蔵奉行を指揮したのが正勝でした。
天正13年(1585年)6月の秀吉四国征伐には、黒田孝高(よしたか)と共にいくさ目付の役割を務めました。大阪に居た秀吉の目となり、耳となり、口ともなりました。長宗我部元親との降伏交渉も、誓紙の宛名は総大将羽柴秀長でしたが、実際の交渉は正勝が行ったようです。講和が成立した後、元親から正勝に送った親書の中に、「今後も御指南をお願いしたい」との文が見られます。(徳島市立徳島城博物館蔵「蜂須賀家文書」より)
秀吉の軍師と言うと、竹中半兵衛・黒田官兵衛が思い浮かびますが、正勝も外交交渉に活躍し、なかなかの策略家でありました。敵将を篭絡して寝返らせたり、四国征伐では土着の武士を懐柔して道案内をさせたり、戦後の講和の折衝や城地の受け取りなども、正勝の得意分野でした。
その昔1,000の無頼の者をまとめたのも、度胸と誠意を兼ね備えた対人術だったのでしょう。
小六お殿様になる
天正9年(1581年)、信長に命ぜられた秀吉の中国攻め半ば、播磨の国平定に成功します。秀吉は正勝(小六)に、龍野5万3千石を与えます。長年苦労を共にしてきた正勝の功績に報いようとしたのです。土豪出の正勝が晴れて一国一城のあるじ、お殿様になりました。
その後も秀吉に従って働き続けた正勝は、四国平定が成るとその功績を認められ、阿波一国18万石を与えられます。大層な出世ですが、正勝はこれを断ってしまいます。
もちろん感謝もしたし嬉しかったでしょうが、心のどこかで当惑する思いもありました。「儂は元々野山を駆けまわっていた田夫野人(でんぷやじん)。殿様になって臣下の礼を受けるなど、尻がこそばゆいわ」と言うわけで、病気を理由に阿波の国は息子の家政に与えられるよう願い出て、承諾されました。「阿波の殿様蜂須賀公」の誕生です。
天正12年(1584年)、正勝は秀吉家中の筆頭格の老臣となります。同時に大阪城のすぐそばに新しい屋敷を賜り、側近として毎日登城します。家督はすでに息子家政に譲っていました。
意外に心配性
息子が18万石の大名になったのですから、楽隠居を決め込めば良いのに、正勝さまざまに息子のやることに口を出します。息子家政が余程可愛かったか、出来が悪かったのでしょう。付けてやった牛田又右衛門尉(うしだまたえもんのじょう)や、林五郎兵衛尉(はやしごろべえのじょう)他の家臣団宛てに、書状をしたためました。
「阿波の国の様子は、いろいろ一書にまとめて阿波の守家政に申し渡してあるが、地元の国人衆、新しく召し抱えた浪人衆が家政に従うか危ぶまれるので、補佐が大事である。家政は若年なので諸事気にかけ、意見をするように頼む。手に余ることが有れば私に知らせるように」
同日の書状に、阿波の名刹丈六寺(じょうろくじ)(徳島県丈六町)に、寺領二百石確定することを伝え、家政の配慮であると伝えるようにとも書きました。
なんか「うざっ」の一言で片づけられそうですが。
寄る年波には勝てず
年のせいも有り病がちになった正勝は、秀吉の許可を得て京都に行き、良医を招いて養生しました。その甲斐あって小康を得て大阪に戻りましたが、やがて寝付くようになり天正14年(1586年)大阪城外の楼ノ岸の屋敷で亡くなりました。
蜂須賀小六と言うと野武士の棟梁のイメージばかりが強く、また秀吉の家臣としては加藤清正・福島正則、軍師としては竹中半兵衛・黒田官兵衛と有名どころが揃っているので、正勝の存在は忘れられがちです。しかし藤吉郎の時代から秀吉に寄り添い、実直に職務を務め上げた生涯でした。
阿波の殿様蜂須賀公が今に残せし
「阿波の殿様蜂須賀公が 今に残せし阿波踊り~♪」
この有名な阿波踊りの歌詞から、蜂須賀小六って徳島の人じゃないのって思う方も多いですが、実は尾張の国の人なんですね。
初代藩主家政は阿波の国を治めるにあたって、秀吉の指示通り新しく徳島城を築城しました。初めて入城するとき「今日は目出度い日、無礼講じゃ。皆の者好きに踊れ!」とのお触れを出したところ、領民は「話せる殿様じゃ」と競って踊り出しました。これが現在に伝わる『阿波踊り』の始まり・・・と伝えられています。
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