天下人から愛され、畏れられた器量人 家臣思いの勇将 蒲生氏郷

Pocket

会津の太守となった蒲生氏郷は織田信長からその才を愛でられ、豊臣秀吉から恐れられた英傑の武将。彼がなぜ天下人から高く評価されたのか、数々の逸話からその人となりに迫ってみたいと思います。

スポンサーリンク

蒲生氏郷のプロフィール

蒲生氏郷は1565年、近江観音寺城主六角(ろっかく)氏の重臣・日野城主の蒲生賢秀(かたひで)の子として生まれました。

日野城を訪れた連歌師の里村紹巴(さとむらじょうは)が、父と一緒に夜遅くまで酌をしながらもてなし、話に聞き入っていた12歳の鶴千代(氏郷)の利発さに感心した逸話も知られています。

その後、六角氏が滅び、賢秀が信長に降伏したため氏郷は信長の人質になりますが、信長と13歳の鶴千代との出会いは、バッチバチのガンの飛ばしあい! だったそう。

人質ながら氏郷は一歩も引かずに、信長にガンを飛ばしたのです。そんな度胸に信長も一目ぼれ。「この子の目つきははただものではない。将来性がありそうだ」と自身の娘の婿にすると約束しました。ただものでない2人のしびれる出会いです。

氏郷の武将人生は信長の人質にして婿候補という、ちょっと変わった立場からスタートしました。

信長の見立て通り、氏郷は他の人質の少年たちとは全く違いました。他の少年たちは眠そうな毎夜の軍談も、氏郷だけはしっかり耳を傾けていたとか。

稲葉一鉄:Wikipediaより引用

稲葉一鉄も「この子は大軍を率いる武将になるだろう」と称えたとされています。

翌年の初陣では介添え不要!と言って、自力で首級をあげます。

柴田勝家:Wikipediaより引用

さらに自ら願い出て武勇に名高い柴田勝家の与力となり、その下で次々と武功を上げて信長を喜ばせました。信長も婿となった氏郷を身近に置いて、戦いだけでなくお茶や楽市楽座(らくいちらくざ)といった文化、領国経営も学ばせます。

順調にいけば氏郷は信長一門として輝かしい未来・・・のはずでしたが、本能寺の変で一変します。

本能寺の変:Wikipediaより引用

ただしこの時も氏郷は安土城留守居の父賢秀とともに、信長の家族を守りながら明智光秀に対抗するといった的確な指揮をとり、秀吉からも高く評価されました。

その後は秀吉に従って転戦。迷わずに秀吉を選んでいるあたり、大勢を判断する氏郷の器量も優れていたのでしょう。

小牧・長久手の戦いでは軍の最後尾を務めるなど活躍し、伊勢松ヶ島12万石を与えられました。

小田原攻めでも戦功をあげた氏郷は秀吉から陸奥国会津42万石を与えられ、会津若松城主になりました。会津では葛西大崎一揆の鎮圧とともに隣国の伊達政宗との対立に悩みながらも国をまとめ、最終的には92万石の太守になります。

町の名を黒川から若松に変え、商業や手工業の発達を促して城下町も開発した矢先、病に倒れ、わずか40歳で亡くなりました。

氏郷の人となり

信長の人質から会津の太守にまで上り詰めた氏郷。彼は文武両道に優れていただけではなく、人使い、とくに家臣の扱いのうまさにおいてもピカ一でした。

氏郷の人づくりの基本は知行(報酬)と情の両輪。しかもこの「情」が、家臣をキュンキュンさせてしまうのです。

リーダーシップが光る氏郷

人材を大切にした氏郷は、「知行と情けは、車の両輪なものだ」と言っています。

戦いでも「情」を実践しました。

氏郷は新参者に「我が家には銀の冑をつけた兵がいて、敵に真っ先に飛び込んでいく。この男に負けないように」とアドバイス。その新参者は戦いに出て驚きます。銀の冑をつけた兵とはじつは氏郷のことだったのです。

大将が先頭に立って戦うことは賛否両論ありますが、氏郷は「大将が後ろから進めと言うだけではだめだ。真っ先に敵陣に突撃し、ここは安全だからついて来いといえば家臣がついてくる」と言ってそれを実践していました。

時には兜に矢が突き刺さったことも。自らリーダーシップをとって先頭に立って戦う心意気。家臣も負けていられませんよね。

蒲生風呂

この思いは家臣に対する配慮でもかわりません。

近江日野6万石時代の氏郷は、家臣に十分な恩賞を与えられませんでした。せめて食事でもてなそうと、ある家臣を屋敷に招きます。

食事の前に家臣に風呂をすすめました。家臣が湯に浸かっていると外から「湯加減はいかが?」との声。

家臣はその声に仰天します。

「まさか」と外をのぞくと氏郷自らが火吹き矢を吹いているではありませんか。

氏郷のサプライズの優しさに家臣はキュン死! 感激で胸がいっぱいになったことでしょう。

以降、蒲生家ではこの「蒲生風呂」を受けることが最高の恩賞と喜ばれ、家臣の団結力も高まったといいます。

自己申告と査定会議

情けがあっても知行に不足があれば、家臣から不満が出てしまいます。

氏郷は会津の太守になると、今までの功に報いたいと驚きの行動に出ました! なんと家臣たちに自分の軍功と希望する知行を自己申告させたのです。

もちろん誰だってたくさんほしいですよね。

申告通りに計算すると、蒲生家の予算をオーバー。「どうするんですか!」と重臣から詰めよられた時の氏郷の顔、見てみたかったですよね。

そこで今度は全家臣を集めて、その前で各申告書を見ながら査定会議を始めました。「お前はそれ取りすぎ」「お前あの時、さぼっただろ」などの意見が次々と飛び出し、妥当なところに落ち着いたそうです。

それでも蒲生家では1000石以上の大身が120人以上おり、氏郷の分は少なかったので家臣が交代で禄を出し合ったのだとか。家臣に支えられる大将って・・・と言いたいですが、自分のことより家臣のことだなんてしびれますよね。

査定も自分たちで考え、相談した結果であればしぶしぶでも納得できます。

上層部の搾取やひいき査定に悩む現代のサラリーマンにとっては羨ましいかぎりかも。ここには現代にも通じるマネジメントの意外なヒントがありそうですよね。

何より家臣の待遇を良くしようと努力する氏郷に家臣たちは、この殿のため! と誓ったのはいうまでもありません。

また、氏郷は側近であっても軍紀違反を犯すと厳しく罰するなど公明さにおいても信頼できる大将といえました。
こうした信頼で結ばれた主従の団結力が、強い蒲生軍団の秘訣だったのでしょう。

暗殺者も許した氏郷

人としての器量の大きさも氏郷の魅力でした。なんと暗殺者でさえ許してしまう度量の大きさでした。

秀吉の奥州仕置の後、苦労して手に入れた会津を秀吉に取り上げられたのが面白くない奥州の伊達政宗。会津に入った氏郷を敵視し、葛西大崎一揆をあおる一方で、氏郷の暗殺を計画します。

代々仕える者の息子で、16歳の美少年の清十郎を、氏郷の親戚の田丸中務(なかつかさ)少輔(しょうすけ)に児小姓(ちごこしょう)として奉公させました。

田丸邸を訪れる氏郷を、男色趣味を利用して近づき、殺すよう命じたのです。男性版ハニートラップといったところです。

ところが清十郎が父に送った手紙が関所の検閲で見つかり、陰謀が露見。清十郎は投獄されました。

しかし氏郷は「命を捨てて忠義を尽くそうとするのは立派だ」と命を許したばかりか、帰してやったそうです。

自分の命を狙った者を忠義に免じて許すとは政宗も驚いたことでしょう。

また、氏郷の家臣を斬った理助という男が徳川家家臣の久世家に逃げ込んだことがありました。氏郷は理助の引き渡しを要求しましたが久世家は拒否。そのため両家の間に確執が生まれました。

それから何年も後のこと、氏郷が家康の元を訪れた時、理助が刀を放り投げ丸腰で氏郷の前に進み出て「私の私怨でご迷惑をおかけしました。どうぞ御成敗ください」と訴えました。氏郷は「さても感心だ。昔のことは気にしていない」と家康にことわって盃を与えたそうです。

たとえ自分の面目をつぶされても、前非を反省した理助を許す氏郷の懐の深さに家康も驚いたそうです。

秀吉から恐れられた男!

人としての豪胆さと度量の大きさも天下人から愛された理由だったのでしょう。
信長の娘婿というエリートにして、懐が深くデキル男氏郷が、天下への野心を持っていたら。当然秀吉は警戒しますよね。

氏郷は会津に国替えを命じられた時、家臣に「都に近い地に小国が一つあれば天下を狙えたものを。こんな遠い地ではその夢は断たれた」と悔し涙を流したそうです。

そう、氏郷は戦国武将らしく覇気と野望を秘めた武将でした。諸大名が秀吉の後継の話をした時も多くの大名が徳川家康の名をあげるなか、氏郷は「前田利家殿。それがだめなら自分だ」と言ったとも。

また、秀吉に「朝鮮を下さるのなら切り取ってみせます」と豪語したこともありました。氏郷の遺品の中に「朝鮮への国替えをお願いしたい。自ら奪います」と記した書が残されていたとも。会津の太守では終わらないぞという氏郷の気概を感じますよね。

そんな氏郷の野心と力量を秀吉も恐れていたのでしょう。関東の要である会津を誰に任せるかという話になった時、多くが細川忠興の名をあげたのに対し、秀吉は「氏郷しかいない」といって氏郷に会津を与えました。そして氏郷が会津に行くことを迷惑がっていると知った秀吉は「だろ? 恐ろしいから奥州に行かせた」と不敵に笑ったとか。

会津は関東の要。そのため会津を平定する器量があり、江戸の家康や政宗の抑えにもなる人物(氏郷)を送り込んだのでしょう。怖い氏郷も都から遠ざけられる・・・。秀吉の高笑いが聞こえてきそうです。

このようにできる男氏郷が40歳という若さで病死したため、秀吉による毒殺説もささやかれたほどでした。デキすぎる男はつらい・・・。

辞世の句は

「かぎりあれば吹かねど花は散るものを 心みじかき 春の山風」

と散り急がせる山風に自らの無念の思いを託しています。

この歌を見せられた千少庵(せんのしょうあん 千利休の養子)は、

「降るとみば 積らぬ先に払えかし雪には折れぬ青柳の枝」

(積る雪にも折れずに払う青柳のように頑張れ)と返し励ましたとも伝えられています。

蒲生氏郷はリーダーシップがある文武両道の勇将で家臣思い。人望もあり懐の深さも人一倍で、天下人から評価され、家臣から信頼される理想の武将でした。

氏郷がその後の歴史でどう動いたのか、ぜひ見たかったですよね。

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。