四国を代表する戦国武将・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)ほど、少年期と壮年期、そして晩年のギャップが激しい武将はいないと思います。軟弱な色白美少年が突如開眼、「鬼若子(おにわこ)」と呼ばれるまでの活躍をして四国をほぼ手中におさめたものの、晩年は家臣や実の息子を排除しまくる暴君と化したのです。さて、彼はいったいどんな人生を歩んだのでしょうか?
色白の美少年「姫若子」
元親が生まれたのは、天文8(1539)年のことです。豊臣秀吉や前田利家はほぼ同世代に当たりますね。
父親は長宗我部国親(ちょうそかべくにちか)。一時零落した長宗我部氏を復興し、土佐をモノにしようという気概あふれる武将でした。
そんな国近の悩みのタネは、嫡男の元親のことだったんです。
背は高く美形だったそうですが、色白でおとなしく、見るからに軟弱。「姫若子(ひめわこ/姫のような若君)」と呼ばれてしまうほどでした。ぼんやりしていることも多かったそうで…こんなのに家督を譲っていいものかと国親は悩んでいました。
姫若子から鬼若子へ突然の覚醒

そのせいか、元親の初陣はきわめて遅く、22歳になってからでした。早ければ10代前半で初陣ですから、どんだけ遅いのって話です。
永禄3(1560)年、土佐の覇権をめぐって本山(もとやま)氏と衝突した長浜の戦いが、元親の初陣でした。
相変わらずの姫若子な元親は、戦の直前になってから家臣に「槍はどう使うのか…?」と尋ねるほどで、周りのムードは「あちゃー…」な感じだったようです。とはいえ、その家臣は元親に「槍は敵の目鼻を狙うのですぞ」と教え、「大将は臆さずにいるものです」と付け加えました。
うなずく元親。どこまでわかっていたのか不明ですが…。
ところが、戦が始まった途端、元親は一変します。
手勢を率いて敵に突っ込み、50騎で敵兵70余りの首を挙げるというびっくりな働きをしたんですよ。自らも2つの首級を手にし、姫若子なんて嘘みたいな戦功を挙げたんです。
それだけではありません。制止を振り切り、勢いに任せて敵方の城を奪ってしまったんです。怖さを知らないってこともあったんでしょうが、すごいですよね。彼を「姫若子」と呼んでバカにしていた者たちは、きっと口ポカンな状態だったことでしょう。
こうして、元親は「姫若子」ではなく「鬼若子」と呼ばれるようになったのでした。
土佐統一への戦い
長浜の戦いの直後、父・国親は病に倒れ亡くなりました。ただ、元親の働きを見て、ちょっと安心していたことでしょうね。
こうして家督を継いだ元親は、積極的に土佐平定に乗り出します。本山氏との戦いに勝つと、共闘していた一条氏から自立を企て、勢力拡大を目指していきました。
その手法は、毛利元就(もうりもとなり)も使ったやり方だったんですよ。周辺豪族と縁戚関係を結んでちゃっかり乗っ取るというヤツです。
弟2人を吉良(きら)氏、香宗我部(こうそかべ)氏に養子に出し、一条氏の家臣・津野(つの)氏には自分の三男を養子に出し、周りみんな一族みたいな形にしたんですね。後に二男は香川氏に入りましたから、着々と足場を固めていったわけです。
十分に力をつけた元親は、天正3(1575)年に四万十川の戦いで一条氏を撃破。ついに土佐統一を成し遂げたのでした。もう誰にも「姫若子」なんて言わせませんよ。
信長との同盟、そして四国統一を目指す

土佐をモノにした元親、このままの地位に安穏と居座るつもりはありません。乱世に生まれたなら狙うはさらに上、まずは四国を制覇しようと思い始めました。
この頃はちょうど織田信長の全盛期。天下人となるのを目前にした信長と、元親は同盟を結びます。この時役に立ったのが、元親の正室と信長の重臣・明智光秀との縁でした。元親夫人は光秀の家臣・斎藤利三(さいとうとしみつ)と異父兄妹だったとも言われているんです。ちなみに斎藤利三の娘に春日局(かすがのつぼね)がいるんですよ。
こうして信長と首尾よく同盟を結び、「四国切り取り次第(攻めてモノにした分はお前のモノ、みたいな意味)」のお墨付きをもらった元親は、阿波や讃岐などへ侵攻を開始したのでした。
元親を支えた原動力「一領具足」
長宗我部氏を支えた原動力となったのが「一領具足(いちりょうぐそく)」と呼ばれる半農半兵の人々でした。ふだんは農業をしており、ひとたび戦となると具足(甲冑)をまとって兵になるというわけです。「一領」とは具足の数え方です。
元親の父・国親の頃からこのシステムが取り入れられ、元親の四国統一に大きな力となりました。忠誠心もあり、後に長宗我部氏が改易となった際にも新領主に反発して大規模な一揆を起こしたほどです。
元親は、四国統一に乗り出した理由を問われた際にこう答えたそうです。「家臣にほうびを存分に取らせてやりたいし、妻子にも何不自由なく暮らしてほしいのだ」と。そういってくれる主になら、喜んで仕えますよね。
また、元親は時に一領具足たちの意見を採用しました。阿波攻略の際など、側近よりも彼らの意見を重視したほどです。
そんな元親を全力で支えようと、一領具足たちは奮起し、元親の四国統一に付いていったんです。
信長の手のひら返し
阿波の三好(みよし)氏や十河(そごう)氏と戦いを繰り広げ、四国統一まであと一歩のところまで来た元親の勢いは、まさに破竹の快進撃でした。
ところが、それを見て危機感を抱いたのか、信長が急に手のひらを返します。
「土佐と阿波南半分は認めるけど、あとは俺によこせ」
と言ってきたんですよ。
これでは話が違う!と元親は反発し、あの信長と対立してしまいました。
信長は討伐軍を編成し、まさに四国に渡ってこようというところまで来ました。
元親、大ピンチです。
しかし、ここでなんと本能寺の変が起きたんですね。そのため、討伐軍は四国にやって来ることはなく、元親は四国平定を続けることができたんです。何というラッキー。この後は徳川家康と組んで豊臣秀吉に対抗するなど、中央へのアピールも忘れませんでした。
そして天正13(1585)年、元親はほぼ四国を統一しました(諸説あり)。
元親暗君化の最大要因:息子の死

長宗我部信親:Wikipediaより引用
しかし、豊臣秀吉の天下統一事業はものすごい勢いで進んでいきました。やがてそれは四国に及び、秀吉は10万超の大軍を四国に派遣してきたんです。これにはどうにもならなくなり、元親は降伏して秀吉に臣従し、領地は土佐のみとなってしまいました。
こうして秀吉の臣下となった元親は、天正14(1586)年の九州征伐に従軍します。この時は将来を期待した嫡男・信親(のぶちか)も一緒でした。
そして、九州征伐の緒戦である戸次川(へつぎがわ)の戦いで悲劇が起きたのです。
豊臣軍の意見は川を渡るか渡らないかで真っ二つに割れ、仙石秀久(せんごくひでひさ)などは川を渡るべきと主張しましたが、元親らは渡らずに敵を引きつけるべしと主張しました。しかし仙石の意見が通って川を渡ることとなり、結果、豊臣軍は島津方の兵にこてんぱんにやられてしまったんです。
乱戦の中、元親は信親と離れ離れになってしまい、何とか伊予へと退却します。しかし彼の耳に入ったのは、信親討死との報せでした。元親は憔悴し、後追い自殺までしようとしますが、家臣に止められています。
幼い頃から頭が良く立派な若武者に成長した信親の死は、元親に大きなダメージを与えました。そしてこれ以降、元親はまるで別人のように暗君化していくんです。
暗君となった元親

長宗我部元親:Wikipediaより引用
信親の次に誰を後継者にするかという問題が当然持ち上がったわけですが、元親はここで強硬に末子の盛親に譲ると言い出します。他家に養子に出ているとはいえちゃんと二男と三男は健在でしたし、盛親はまだ13歳。このため、反対する家臣たちもいました。
なんとここで、元親は反対した者を粛清してしまったんです。しかも二男は直後に亡くなり、元親が毒殺したのではないかとも、ショックで自殺したのではないかとも言われているほどです。後に三男も家臣の讒言を信じて幽閉してしまいましたし、まるで今までの元親とは違う所業の数々が行われたのです。
こうして、かつての輝きを取り戻すことなく、元親は関ヶ原の戦いの直前に61歳の生涯を終えました。
その後の長宗我部家は、関ヶ原で西軍に加担し改易。大坂の陣で再起を期した盛親は豊臣方に参戦しますが、敗れて処刑されたのでした…。
まとめ
- 若い頃は「姫若子」と呼ばれ、軟弱だった
- 初陣で突然大活躍し、「鬼若子」となる
- 土佐統一を成し遂げた
- 織田信長と同盟し、四国統一へ乗り出す
- 元親の原動力のひとつは「一領具足」だった
- 信長に攻められそうになるが、本能寺の変が起きたため難を逃れた
- 九州征伐で嫡男・信親を失う
- 晩年は暗君化し、家臣や息子を排除した
信親を失ったことは大ショックだったのでしょうが、そこで崩れていったのは、少々メンタルに難があったんでしょうか。二男か三男を後継者にしていたら、長宗我部の未来は違ったかもしれませんね。
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