戦国武将といえば、四天王や7本槍などと呼ばれる武勇の家来がいますよね。
徳川家康ならば徳川四天王、豊臣秀吉ならば賤ケ岳7本槍などが有名です。
賤ヶ岳7本槍の加藤清正や福島正則は大大名に出世しましたが、そんな彼らが活躍するより以前の秀吉軍団に、羽柴四天王と呼ばれた勇猛な家来がいたことをご存知でしょうか。羽柴とは豊臣の前の秀吉の名字です。
その4人とは
- 神子田正治
- 尾藤知宣
- 戸田勝隆
- 宮田光次
7本槍の加藤清正らが大大名になって歴史の表舞台に出たのに比べ、彼らの存在はあまり知られていませんよね。どうしてそんなことになってしまったのでしょうか?
今回は秀吉の草創期を支えた羽柴四天王に光をあててみたいと思います。
羽柴四天王とは?
羽柴四天王といっても、戦国時代にそう呼ばれていたわけではありません。
江戸時代初期に山鹿素行が書いた『武家事紀』に、この4人をこえる勇者はいないと記されています。
また、ほかの資料も三木城攻めで活躍した者として尾藤、戸田、宮田の3人の名前を挙げており、彼らが秀吉初期の勇猛な家来とみなされていたようです。
それで後世に四天王と名付けられたのでしょう。
この4人は
秀吉が初めて一国一城の主となった長浜城主の時にそれぞれ250貫文を与えられ、黄母衣衆または大母衣衆に選ばれる。
秀吉が播磨を与えられると、それぞれ5000石を与えられる。
4人はそろって順調に出世を重ねていきました。
そんな彼らにこの後、それぞれ波乱の人生が待ち受けていたようです。1人ずつ見ていきましょう。
神子田正治
羽柴四天王のリーダー格。
秀吉古参の家来の1人といわれています。
軍功を重ね、竹中半兵衛も自分の後釜にしたいといったほどの軍略も兼ね備えた人物でしたが、武功を自慢して偉そうにしたり、秀吉のことも見下したりする皮肉屋だったそうです。
秀吉が播磨一国を任されたときのこと。
4人に5000石ずつ与えられました。
ところが神子田以外の3人は「少なすぎる」と不満をもらし秀吉の元から逃げようかなと考えます。
ところが神子田だけは喜んでいるので3人が不思議に思ってたずねると、神子田はにやりと笑い真面目な顔でいけしゃあしゃあと
「秀吉公は私たちに領地を分け与えてもう余りがないからこれで我慢しろと言いましたよね。我々だって播磨は大国なのでまだ余りがある事は知っています。秀吉公は私たちを無知だと思うから、言葉でごまかして言い訳しているわけです。こんな無知な私たちに5000石もくれるのは、私たちによっぽどの武功があったからということですよね」
と武功を誇って皮肉たっぷりに言ったと伝えられます。
ただし武将としての能力は優れていたようで、賤ヶ岳の戦いでは、秀吉が不在の折、佐久間盛政の攻勢により、自軍が動揺すると
「秀吉公は大軍を率いて戻ってくるから気弱になるな!」
ととっさの機転を働かせて大音声で触れ回って味方の士気を高めたこともあったそう。
やがて播磨の広瀬城主になり1万2000石に加増されます。
このころは信長が亡くなって秀吉が天下への道を進み始めたころです。
神子田も一城の主となり、さらに出世・・・といきたいところですが、賤ヶ岳の戦いの翌年の1584年、徳川家康と戦った小牧長久手の戦いでとんでもないことが起こるのです。
神子田は尾州二重堀城の守城を任されていました。
秀吉から退却の最後を命じられますが、織田信雄の兵に追われ敗走。
しかもその不手際を秀吉に怒られると
「だって大勢の敵に立ち向かうほどの数の兵士をくれないじゃないですか」
と口答えしたため、その日のうちに追放されました。
これには別の説もあるとか。
神子田はこの二重堀城から撤退する際、自分だけが先に引き上げてしまいます。
秀吉もあの神子田が逃げた?と不思議に思っていました。
そこへ神子田が敵の首を一つとって現われたので、秀吉も「さすがだ」と感心します。
すると神子田は
「このような些細なことを感心されたのでは、武将たちは匹夫の勇にばかり心を入れ、戦いで大利を得ることはできません」と反論。秀吉が「何だと。分に過ぎた雑言だ」
と激怒し、ここからののしりあいがヒートアップしていきます。
神子田「大小の利をわきまえずに戦いばかりで功を見るのは闇将だ」
秀吉「何だと。お前なんか敗北し兵を捨てて逃げたくせに。この臆病者め」
神子田「あなたこそ理非を知らない。闇将だ」
あーあ言ってしまったという心境ですよね。
なんと神子田は所領を没収され、高野山に追放されてしまいます。
さらに翌年には妻子ともどもその高野山を追放されました。
神子田の処罰を公表した朱印状が残されているのですが、
「神子田は主君に対して口答え、あまつさえ、臆病で君命に背くので高野山も追放した」
と、書かれています。
秀吉の怒りは相当だったらしく家臣の脇坂安治あての書状に
「神子田をかくまったものは同罪だ。俺は信長のように甘くないからな」
と怖いお達しを出して、秀吉の目の届くところで神子田が働けないようにしたとか。
信長が甘かったのかどうかはさておき、秀吉もなかなかしつこい粘着型上司といえますよね。
それから約2年後の1587年、九州平定に赴いた秀吉のもとに神子田が許しを請いに現われました。
ところが許されず切腹、または打ち首を命じられてしまいます。
さらにその首は一条戻り橋に掲げられ、木札には
「神子田は臆病なふるまいをして悪口におよんだのでこの刑に処する」
と書かれていたとのこと。
秀吉はよっぽど神子田の悪口と臆病が頭に来たのでしょうね。
尾藤知宣
尾藤知宣は織田信長の家臣・森可成に仕えた尾藤源内の子。
秀吉の家臣となり早くから武功を上げました。
中国攻めの三木城攻めでは戸田勝隆とともに先駆けを行ない、傷を受けたといわれています。
武勇を誇るだけでなく、賤ヶ岳の戦いでは御武者奉行、佐々成政攻めでは軍奉行を勤め、秀吉の側近として活躍したようです。
但馬豊岡城主となり、さらに四国平定で手柄をあげ、讃岐国宇多津5万石を与えられました。
ここまではトントン拍子の出世ですが、1587年の九州平定で一変してしまいます。
秀吉の弟の秀長のもと、3000名を率いて九州に従軍した尾藤は九州平定の軍監(戦目付)を命じられました。
あるとき味方の宮部継潤の守る根白坂砦が島津家の夜襲を受けます。
この時、秀長らは救援を出そうとしましたが、尾藤はこれに反対しました。
尾藤の前任者の仙石秀久が軽々しく動いて島津の策略に引っかかり、大敗北していたので、尾藤としては「はいどうぞ」とは言えなかったわけです。
ところが秀長配下の藤堂高虎が勝手に救援に出向き、ほかの軍勢も続いて駆けつけ、なんと島津勢を押し戻します。
こうなれば武将らは「島津を追いかけよう」とイケイケで盛り上がりますが、尾藤はここに至っても「島津は何があるか分からない」と尻込みして追撃に反対。
そのため島津軍をみすみす逃してしまいます。
九州平定が終わった後、もちろんこの尾藤の行動が問題になりました。
尾藤はなんと秀吉に「臆病者!」と怒られ、領地を取り上げられ、追放されてしまうんです。
尾藤は秀吉の手が及ばない小田原の北条氏に仕えました。
1590年、秀吉が天下統一の総仕上げとして小田原攻めを始めます。
尾藤はかつて秀吉に敵対した柴田勝家の一族の佐久間が秀吉に許されたと聞いて、
「あの佐久間でも許されたのだから、古参の自分は許されるはず」
と考えました。
そこで剃髪した姿で、秀吉の前へまかり出て許しをこうたのですが・・・。なんと手打ちにされてしまうのです。
秀吉としては小田原攻めの前ならともかく情勢がはっきりした頃になって、のこのこ現われた尾藤を気に入らなかったようです。
2人とも主君に追放されたあげく、最後は臆病者とののしられ命を落としてしまいました。
こんなはハズではと2人の嘆きが聞こえてきそうです。
戸田勝隆
4人の中で一番長生きをしたのが戸田勝隆です。
三木城攻め、賤ヶ岳の戦い、小牧長久手合戦、四国攻めで活躍し伊予の大洲7万石を与えられました。
また奉行としても活躍し、朝鮮出兵では朝鮮半島を転戦し巨勢島での講和会議に参加するなど、大きな失敗もなく出世をしてきたのですが、朝鮮からの帰国途上に病死してしまいます。
勝隆に子供がなかったため家は断絶になりました。
宮田光次
戸田とは反対に一番早く死んだのは宮田光次です。
宮田は秀吉軍団の中で武功第一の人物といわれました。
中国攻めでの武勇が著しく、次のようなエピソードがあります。
武将たちの戦功を詮議する際、宮田はその場に出席しませんでした。
秀吉は
「臆病者は言い訳するために戦功の詮議に出席するが、宮田のような殊勲者はその場を逃れても入札が多いのだから入札も無用だ」
と言って宮田に札を与えたとのことです。
ところがこの宮田は播磨国の別所長治の三木城攻め、あるいは上月城攻めの際、討ち死にしてしまいました。
その翌年、秀吉が
「羽柴の家来は昔に比べて10倍になった」
と自慢したところ、竹中半兵衛が
「いいえ昔に劣ります。宮田が死んで劣ってしまいました」
と答えると、秀吉も
「その通りだ」
と肩を落としたと伝えられます。
死後も秀吉や竹中らに武勇を惜しまれた勇者だったようです。
四天王の人生とは
このように神子田と尾藤は一国一城の主となるものの悲惨な最期を遂げ、戸田も秀吉より先に亡くなり、宮田は若くして戦死しました。
それにしても今なら社長とケンカしても「クビだ」で終わるところが、命まで取られるのだから当時の武将たちも大変です。
ずっと活躍し続けるって難しいですよね。
しかも人たらしで知られる秀吉なので、昔の家来が謝ってきたら許してくれそうなのに、リベンジのチャンスどころか命まで取るとは、かなり厳しい上司といえます。
ただ神子田も尾藤も一度目は切腹までは命じられませんでした。
そういう意味では挽回のチャンスが残されていたのかもしれません。
秀吉のところに現われる時「昔のよしみ」に頼るのではなく、「臆病者ではない」と思わせる証を引っさげていくべきだったのかも。
どう信頼を取り戻せばよいのか、失敗した時のリベンジは現代の私たちも身につまされますよね。
4人の生涯は、栄光に輝いたものではありませんでした。
でもこの4人が秀吉軍団の初期、抜きんでた武勇の士として秀吉を支え、秀吉の出世を後押ししていたのは間違いないと思われます。その時はきっと輝いていたことでしょう。
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