結城秀康(ゆうきひでやす)は、徳川家康の二男でありながら、終生「徳川」姓を名乗ることはありませんでした。
本来なら将軍になってもおかしくない地位にありながら、それはどうしてだったんでしょう?
武勇に優れ、義を重んじた人柄は将軍の器だったはずなのに…。
不遇な人生を歩んだ彼の生涯をご紹介したいと思います。
生まれた時から父に嫌われていた?
秀康が生まれたのは、天正2(1574)年のこと。
父は徳川家康、母は於万の方でした。
当時家康には嫉妬深さで有名な正室・築山殿(つきやまどの)がおり、その侍女だった於万の方は嫉妬によって折檻されたという逸話までつくられました。
そんな事情が関与したのかどうかはわかりませんが、秀康が生まれたのは家康の家臣の屋敷だったそうです。
幼名は「於義伊(おぎい)/於義丸(おぎまる)」とも言います。
この付け方もひどいもので、「ギギ」という魚に似ていたからだという話があるんですよ。
織田信長が「奇妙丸」だの「茶筅(ちゃせん)」だの変わった幼名を息子たちに付けたのは有名な話ですが、これは信長だからいいのであって、家康がそれをしても何だか微妙な感じがしますよね。
怖い奥さん・築山殿を憚ったのか、家康は秀康と会おうともしなかったそうです。
一説には、秀康は当時「畜生腹」として忌まれた双子で生まれてきたという話もありまして…。
それでも秀康には何の罪もありませんよね。
そんな秀康を憐れんだのが、実兄の信康(のぶやす)でした。
松平信康:Wikipediaより引用
彼が家康との対面の場をセッティングしてくれたんですって。
秀吉の養子になったけどまた別の家へ
やがて兄の信康が切腹させられてしまい、家康の後継の座は秀康に回って来るかに思われました。
しかし、家康は豊臣秀吉のところに秀康を養子に出してしまったんです。
小牧・長久手の戦いにおける和睦の条件だったそうですが、やっぱり愛情ないのかなと勘ぐってしまいますね。
一方、秀吉はこれを喜び、自分の「秀」と家康の「康」を取って「秀康」と名乗らせました。
そして、秀吉の下で成長した秀康は、秀吉の天下取りの戦いに従軍して功績を挙げ、武将としても成長していきました。
戦功がふるわず悔し涙を流した秀康の話を耳にした秀吉は、
「やはりワシの子だからな!」
とご満悦だったという逸話もあり、可愛がられていたようです。
こうして、ゆくゆくは秀吉の後継者になるはず…だったんですが。
天正17(1589)年のこと、なんと秀吉に実子・鶴松(つるまつ)が誕生したんです。
狂喜した秀吉は、あっさりと鶴松を後継者とし、秀康は関東の結城(ゆうき)家へとまたも養子に出されてしまったのでした。
結城家は関東の名門武家ですが、まあ正直、体のいい厄介払いですよね。
将軍の器量アリなのに…将軍にはなれず
結城秀康像:Wikipediaより引用
たらいまわし状態の秀康ですが、腐ることはありませんでした。
やがて関ヶ原の戦いが起こると、彼は父・家康に従い東軍に属します。
そして、関東で会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)の牽制役となり、関ヶ原本戦での東軍の勝利に貢献したんですよ。
それがいかに大きな功績であったかは、戦後に彼が結城10万1千石から越前68万石へと大幅な加増転封されたことからもわかります。
体格が良く、剛の者として知られた彼は、天下の三名槍のひとつ「御手杵(おてぎね)の槍」と操りました。
この槍、4m弱もあるという巨大なものだったそうで、それを軽々と扱う彼は、まさに次の将軍になってもおかしくないと思われたようですよ。
実際、家康が「次の将軍、誰がいい?」とたずねた際、徳川四天王のひとり本多忠勝(ほんだただかつ)や側近の本多正信(ほんだまさのぶ)・正純(まさずみ)親子は、秀康を推したんだそうです。
結局は、秀康がすでに結城家に養子に出ていたということもあり、弟の秀忠が将軍となりましたが…秀康の器量は将軍にふさわしいと思う人が多かったことも事実なのです。
義の心も持ち合わせた人だった
強いだけでなく、秀康には相手を思いやる心もありました。
関ヶ原の戦いの前、石田三成が武断派諸将によって襲撃されたことがありました。
この時、居城に戻る三成を警護したのが秀康だったんです。
三成に対して、秀康は
「太閤殿下の恩に報い、秀頼公のためを思うなら、今は城に戻って諸将をなだめるべき。私がちゃんと守って差し上げますからご心配なく」
と進言したそうです。
三成は最後まで警護してくれた秀康に深く感謝し、刀を贈りました。秀康はこれを「石田正宗」と名付け、関ヶ原の戦いの後も、三成の名を口にするのもはばかるような風潮の中でこれを大切にし続けたそうですよ。
上杉景勝:Wikipediaより引用
また、自ら抑えた上杉景勝が降伏を申し入れてくると、攻め込むことはせずに家康への謝罪をすすめて取り成しました。
後、江戸城の大広間で2人が出会った際、お互いに上座を譲り合いまくって大変だったとか。
景勝は秀康の家柄が上だとして譲ろうとしたんですが、秀康は、
「先に中納言となり先輩なのは上杉どの。それに、すでに自分は結城家のものであり、徳川家ではありませんから」
と固辞して景勝の面目も保ったのだそうですよ。
ちなみにこうした譲り合い、弟の秀忠との間にもあったそうです。
2人の乗った輿が出会ってしまい、
「どうぞそちらが先に」
と譲り合ってまったく行列が動かなくなってしまったとか。
「制外」の家とされるも、こんな嘆きを…
2代将軍にはなれませんでしたが、秀康は松平姓を名乗ることを許され、一代限りで「制外」の特権を与えられました。
これは将軍の命令の範囲外ということで、事実上まあ好きに何をしてもいいという「超」破格の待遇だったんです。
御三家とも別格だったんですよ。
家康には冷遇されていたと言われていますが、これは家康や秀忠なりの配慮だったんでしょうね。
とはいえ、一説には、患った梅毒によって欠けた鼻を貼り薬で隠して家康に会った時には
「鼻の形を気にするなんて武将として言語道断」
とか言われちゃったりしていますし、なんだかやっぱり不遇だったんですよね。
また、秀康は将軍になれなかったことに対して嘆いたこともあったそうです。
歌舞伎の創始者ともされる出雲阿国(いずものおくに)の歌舞伎を観賞した時のこと。
出雲阿国:Wikipediaより引用
秀康は阿国をほめたたえましたが、
「天下にはたくさんの女がいるが、この女は歌舞伎で天下を取った。しかし自分は天下一の男にもなれず、あの女にさえ劣るとは…何とも無念なことだ」
と呟いたそうですよ。
そして慶長12(1607)年、秀康は34歳の若さで亡くなりました。患っていた梅毒が原因とも言われています。
豊臣秀頼:Wikipediaより引用
死の床で、彼はかつての「弟」に当たる豊臣秀頼のことを案じていました。
「自分が生きているうちは秀頼を殺させるかと思っていたが…自分が死んでしまえば、秀よりも滅んでしまうだろう」と。
秀康にとっては、秀吉の養子として育った時代が懐かしかったのかもしれませんね。
後にまた養子に出されたとはいえ、秀吉は秀康を可愛がってくれたんですから…。
そして、秀康の死からまもなく大坂の陣が勃発し、秀頼もまた豊臣家もろとも滅ぶこととなってしまったのです。
もし秀康が生きていたら、いったいどんな行動を取ったんでしょうか…気になりますね。
まとめ
- 生まれた時から父・家康には疎んじられていた(?)
- 豊臣家へ養子に出されるが、その後もまた結城家へ養子に出されてしまう
- 武勇にすぐれていたが、将軍にはなれなかった
- 義侠心があり、負けた相手にも礼を忘れなかった
- 「制外」の特権を得ていたが、若くして亡くなった
徳川家康の二男として生まれ、豊臣秀吉の養子にまでなりながら、天下とは無縁だった結城秀康。
人柄も良かったのに、不遇な生涯を送ったのがとてもかわいそうになってしまいますね。
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