徳川家康は何度死んだ? 影武者家康ミステリー伝説

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徳川家康といえば、三河の小領主の子に生まれ、幼いときは人質として過ごすなど苦労しながら天下人に上り詰め、江戸幕府を開いた戦国サクセスストーリーの勝ち組。

ところがそんな家康にはあるトンデモミステリー伝説がつきまとっています。

それは家康は途中ですりかわっていたというもの。家康が一人ではなかった!?

一体どういうことなのか?

家康のミステリーを追ってみたいと思います。

 

家康は大坂の陣で豊臣家の滅亡を見届けるようにその翌年の1616年に病死したとされています。

ところが後世、その生前中に何度か死亡フラグが立ちました状態に!

桶狭間の合戦後に暗殺され、関ヶ原合戦後に暗殺され、大坂夏の陣後に殺害されたという説があります。

どれが本当なのかそれともすべて単なる噂なのか、それぞれ見てみましょう。

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桶狭間の合戦直後にすりかわった?

『尾州桶狭間合戦』:Wikipediaより引用

これは徳川家の儒学者林羅山(はやし らざん)が書いた『駿府政事録(すんぷせいじろく)』の中で、家康本人が「自分は又右衛門某と云うものに売り飛ばされ、9歳から19歳まで駿府で暮らしていた」と昔語りをしたという衝撃的な話がきっかけ。

これをもとに明治時代の1902年に元役人の村岡素一郎(むらおかそいちろう)という人物が、『史疑 徳川家康事蹟(しぎ とくがわいえやすじせき)』を発行して世間を驚かせました。

 

なんと家康は、1560年の桶狭間の合戦の直後、世良田二郎三郎元信(せらたじろうさぶろうもとのぶ)という人物にすりかわっていたというのです。

 

話を要約すると、元信は下野の江田松本坊と駿府のお大との間に駿府で生まれます。寺に預けられますが破門となり、その放浪中にさらわれて売り飛ばされ、私僧の願人坊主(がんにんぼうず)となります。

やがて世良田二郎三郎元信と名乗り、同志を集めて一大勢力を作り上げます。桶狭間の合戦のどさくさにまぎれて、三河岡崎城主松平元康の子で今川家に人質に出されていた竹千代(のちの信康)を誘拐するも元康とは和解します。その後、元康は信長と戦うため出陣中に逆臣に殺害されてしまいました。

元信は松平家臣の要請を受けて、幼い竹千代の後見として元康に成りすまします。この元信が徳川家康に改名し、以後の家康となったわけです。

 

この後、三河の一向一揆で三河家臣団が家康に抵抗したのも、いつまでも居座る家康こと元信を追い出したかったのかもしれません。

 

家康が妻の築山殿と竹千代こと信康を殺害した事件も、血のつながらない親子の争いだったというわけです。築山殿らがニセ家康を甲斐の武田と組んで滅ぼそうとしたのもうなずけます。逆にニセ家康も自分の正体を知る、実の妻子ではない2人を葬る機会をねらっていたでしょう。

 

この説に従えば、秀吉の後の天下を受け継いで徳川幕府を開いた偉大な徳川家康は松平家の子孫ではなく、世良田元信の成りすましだったことになります。もはや影武者ではなく、元信こそホンモノといったほうがいいかもしれませんね。

 

これ面白いのがこの説の中で元信の母お大、祖母源応尼、母の再婚先が久松家など、今に伝わる家康の家族といくつか名前がダブっていること。そして元康が阿部弥七郎に殺される「守山崩れ」という事件は家康の祖父清康のこととされています。この奇妙な一致も元信が自分や周囲の経歴をちょいちょい家康としての歴史に組み込んだと考えれば納得です。

 

 

関ヶ原合戦の直前に殺害された?

関ヶ原の合戦:Wikipediaより引用

次に関ヶ原合戦の直前に暗殺されたという説もあります。こちらは徳川将軍の日々の出来事を記した『徳川実紀』にある「関ヶ原の戦い」のところに、「家康の本陣に使い番の馬が家康の馬にぶつかり、家康が腹を立てて使い番に切りかかった」という記述がもとになっています。

 

ここでは家康が乱心したと書かれているのですが・・・。大事な時に家康がこんなことで怒るとは考えられません。

 

そこで浮上したのが使い番に扮した刺客が家康を殺害し、とっさに「影武者家康」がその刺客に切りかかったというものです。そして以後はその影武者世良田二郎三郎が家康になりかわったというのです。

豊臣家を滅ぼすのに長くかかったのは、影武者家康が用済みとして殺されることを恐れたからかもしれませんね。

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家康は大坂の陣で死んだ?

大坂夏の陣図屏風:Wikipediaより引用

次に1615年5月7日の大坂夏の陣。豊臣方の真田信繁(幸村)は決死の覚悟で家康本陣に突撃します。その攻撃はすさまじく徳川の旗本衆を蹴散らして馬印を引き倒し、家康も命からがら逃げ、自害を覚悟したほどだったとも。史実では徳川方の応援がはせ参じて真田もついに力尽き、信繁も自害したと伝えられているのですが・・・。

ところがこの時、家康はあわやというところで助からず、討ち取られていた!という伝承が残されています。

 

真田に追い立てられた家康はわずかな従者と逃げ出しました。途中で葬式にいきあたり、棺桶または葬式用の籠に入って和泉の半田寺山に逃げますが、その時、大坂方の後藤又兵衛と出会います。

後藤又兵衛:Wikipediaより引用

これを怪しんだ又兵衛は棺桶の外から槍をグサリ。家康は脇腹を突かれますが、声を立てず、穂先の先を血でぬぐったため、又兵衛は死人と見てやり過ごします。

しかし家康の傷は深く、南宗寺に担ぎ込まれた時、絶命していたというのです。

 

または、命からがら泉州路を落ち延びた家康は願泉寺(がんせんじ 大阪府貝塚市)に逃げ込みます。そこで麦粉の湯がいたものを3椀も平らげた家康は「逃げ延びた暁には多大な恩賞を与える」といった証文を残して寺を去りますが、後藤又兵衛に刺殺されたとか。

 

平野郷の伝承によると、信繁は樋ノ尻口の地蔵堂に地雷を埋め、伏兵を置いて到着を待ちました。家康は堂内に入りましたが間一髪、小用にたったため難を逃れます。この時地蔵尊の首が爆発で吹っ飛び、家康の身代わりになったとか。しかしやはりその後、後藤又兵衛に刺殺されて落命しました。

 

このように家康はこのとき殺害されたという説があるのです。その遺骸は南宗寺に運ばれ、開山堂の下に埋められました。その後、東照宮へとうつされたといいます。

 

南宗寺に残された謎

南宗寺:Wikipediaより引用

そんなバカな話! と一笑に付されそうですが、南宗寺にはそれを示すかのような謎の伝承がいくつも残されています。

1623年に2代将軍秀忠と3代将軍家光が別々にこの寺を訪れ、参拝したと伝えられています。これは秀忠から家光に将軍職が譲られた年。その報告に来たのかもしれません。

 

南宗寺には東照宮が勧請され、寺の瓦には三つ葉葵の紋が。また、堺奉行が就任するとこの寺を参拝したといいます。

知れば知るほどもしかして・・・とちょっとドキドキしません?

今ある墓は昭和40年代に建てられたものです。

 

影武者家康

万一これが事実だとすれば、その1年後病死した家康は誰なのかということになりますよね。

大坂の陣で家康が死んだことが分かれば混乱を招くため、影武者が立てられたそう。

それが家康の孫の夫の古河城主の小笠原秀政とも、家康の異母兄弟あるいは双子ともいわれる恵最(えさいまたはけいさい)なる人物ともいわれています。

この影武者が約1年間家康役をつとめ、用済みとなったので殺されたともいわれています。

 

『戦国武将の都市伝説』(並木伸一郎)によると、この影武者が危篤になり、見舞いに来たある武将に「甥の秀忠をよろしく」といったとか。恵最からみれば、秀忠は甥になりますが、まさかまさかですよね。

 

ただしこの家康が死んだという伝説、つじつまの合わないところもあります。

家康を殺害したという後藤又兵衛は、その前日に徳川方との壮絶な戦いの末、死んでいます。また大坂の陣で堺が焼き払われ、南宗寺も焼失していました。

 

もしかして家康は亡霊に殺され、幻の寺に運ばれた?

ひえー。ここまでいくとオカルトの世界ですが、家康が死んだ伝説があるように、又兵衛が生き延びていたという伝承もあります。または又兵衛の残党かもしれません。

南宗寺も寺の関係者が手厚く葬ったということかもしれませんよね。

 

とはいえ、家康は大坂の陣から亡くなるまでの1年間、引きこもっていたわけではないのでバレないはずはないよね? なんて疑問もわきますが、じつは多くの重臣らが知ってて知らんぷりしたヤラセ状態だったとも考えられます。

 

死亡フラグがたくさん立った家康

 

このように家康は1616年に病死したとされる以外に、その真偽は不明ですが、桶狭間の戦いの後、関ヶ原合戦、大坂夏の陣で死亡フラグが立っています。

オイオイ何度死んでるんだ! ゾンビか! とツッコミたくなりますよね。もちろん死んだのは一回のはずなのですが。

 

でもこれ全部殺されていたとしたら、これこそ死んでも生き返るゾンビです。なにせ家康は人質から成り上がってやがては秀吉の死を待ち、その子を葬って天下人の道を磐石にしたスゴ腕の人。これだけの偉大な実績を一人でやり遂げるより、何度か死んで、いえリセットされてパワーアップし別人で再生した方がしっくりくるといったら・・・。どの家康に怒られるのでしょうか。

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