家康に捧げた忠義と命!三河武士の鑑・鳥居元忠のあっぱれなる最期!!

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天下を取るほどの人物の下には、彼のためになら命を投げ出す覚悟のある人材が山ほどいるもの。

特に、徳川家康に昔から仕えてきた三河(愛知県)武士たちは、「犬の様だ」と言われるほどの忠誠心を持っていました。

それを、死をもって示したのが鳥居元忠(とりいもとただ)。

まさに「燃え尽きた」と言える彼の生涯、そのあっぱれな死にざまをたっぷりご紹介します!

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家康とは幼い頃からずっと一緒

鳥居元忠が生まれたのは天文8(1539)年。徳川家康より2歳年上になります。父は鳥居忠吉、鳥居家は代々松平家(徳川家の前身)に仕えてきた、譜代の家臣でした。

 

当時、松平家は、東を今川氏、西を織田氏という強豪に挟まれており、家康の父・松平広忠は今川義元の傘下に入っていました。そのため、幼い息子・竹千代(後の家康)を今川への人質に差し出したんですね。

元忠は、そんな時から家康に仕えていました。辛いことも多かった人質時代、そばでずっと支え続けてくれた元忠を、家康は兄のように信頼していたことでしょうね。

 

今川方の武将として成長した家康の転機は、織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いでした。これ以後、家康は故郷・岡崎城を取戻し、一戦国大名として独立を果たしたんですよ。

 

戦で障害を負ってもなお、戦場を駆け巡る

鳥居家の三男として生まれた元忠でしたが、長兄を戦で失い、次兄は出家していたため、彼が家督を継ぐこととなります。

これが元亀3(1572)年のことでしたが、鳥居家にとっては辛い年でした。

今川傘下時代、食べるにも事欠いた日々の中、父・忠吉(ただよし)は松平家のために蓄財を続け、桶狭間の戦いののちにそれを知った家康から賞讃されるほどの忠義の臣でしたが、この年に亡くなっています。

また、元忠の弟・忠広は、同年に起きた武田信玄との三方原の戦いで、敗走する徳川軍のしんがりを買って出て戦死しているんです。

 

一方、元忠は家康を守り続けて命を永らえていましたが、無傷では済みませんでした。武田方とのせめぎ合いの中、敵方へ潜入した際に脚を討たれ、歩くのに障害が残ってしまったんだそうですよ。名誉の負傷、とは良く言ったものですが、武将が体に障害を抱えて生きて行くのは大変だったはず。それでも、元忠はハンディをものともせず、家康に従い各地の戦いに参加しています。さすが、三河武士…!

 

家康からの信頼は徳川四天王に匹敵

さて、天正10(1582)年の本能寺の変で織田信長が倒されると、彼が制圧して分配した旧武田領を巡り、徳川と北条の間で争いが起きます。

北条氏が旧武田領へ侵攻してきたため、家康はそれを迎え撃ちます。しかし、北条の別働隊1万は、家康の背後へと回って奇襲を仕掛けようとしていたんです。

そこに立ちはだかったのが、わずか2千ばかりの兵を率いた元忠でした。元忠はここで奮闘し、北条軍を撃退してみせたんですよ。その功績に家康は喜び、彼に甲斐都留郡(山梨県都留市)を与えました。

この意味も大きいんですよ。この地は北条氏と国境を接しているので、そこを元忠に任せたということは、家康の信頼がいかに厚いかということの証明だったんです。

 

また、天正18(1590)年の、豊臣秀吉による北条攻めの後、家康が関東へ国替えを命ぜられた際には、元忠は下総矢作(しもうさやはぎ/千葉県香取市)4万石を与えられています。

この地は家康のいる江戸からは距離がありましたが、それにもちゃんと理由があるんですよ。ここは常陸(茨城県)の佐竹氏や東北諸大名と領地を接しており、だからこそそういう地に家康は譜代家臣を配置したんです。

 

本多忠勝や井伊直政などの徳川四天王など綺羅星のごとき名将が顔を揃えている家康の家臣の中にあっても、家康の元忠への信頼は揺るぎなかったんでしょうね。そして、それに応える実力もまた、元忠にはあったんです。

 

家康からの信頼が大きかったことがわかる逸話をひとつ。

馬場信春:Wikipediaより引用

武田氏を滅亡させた後のこと、家康は武田の重臣にして名将・馬場信春(ばばのぶはる)の娘の行方を捜していました。おそらく、妻のひとりに迎えて武田とのつながりも欲しかったんでしょう…ところが、捜索に当たった元忠は、「探しましたが見つかりません」との報告をしてきました。

しかし、それからしばらくして。

元忠に新しい妻ができたという話が家康のところに舞い込みました。そして、彼女こそがその馬場信春の娘だというんです。元忠、意外とちゃっかりしてるじゃん!

という突っ込みはさておき、それを聞いた家康は「抜け目のない奴め」と大笑いして許したんだそうですよ。

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家康のために死兵となるを辞さず

今川の次は信長、信長の次は豊臣秀吉…と、忍耐と服従の日々を強いられてきた家康に、ついにチャンスが訪れました。秀吉が亡くなり、家康は幼い後継者・秀頼を支える五大老の筆頭となったのです。

とはいっても、家康は着々と天下取りの算段を実行に移し始めていたわけで、それを警戒したのが、石田三成などの秀吉の側近だった家臣たち。両者の緊張は高まっていましたが、家康が、東北の上杉景勝(うえすぎかげかつ)を征伐に向かうこととなったため、京都・大坂周辺に家康方の将はほとんどいなくなってしまうことになったわけです。

しかし、家康の拠点・伏見城をがら空きにするわけにはいきません。

 

もしかすると、家康が東北へ向かっている間に何かが起きるかもしれない。

その時、何とかそこで時間を稼いでくれるのは…。

と、家康は考えた末、元忠に白羽の矢を立てたのです。

 

上杉征伐へ向かう少し前のある夜、家康は元忠を呼び、2人だけの酒宴を開きました。

東北へは徳川の主力をほぼ投入し、伏見城に残せるのはごくわずか。

おそらく、家康と元忠は、この先、石田三成が挙兵することをうすうす感づいていたのかもしれません。

「少ししか兵を残してやれずに済まぬ」と謝る家康に、元忠はこう答えました。

 

「今は天下分け目の大事。家来の命を殿が惜しむ時ではありますまい。天下をお取りになるには、これから先ひとりでも多くの人材が要りようでしょう。ですから、ひとりでも多くの家臣をこの城から連れ出し、殿に随行させてください」

 

2人は深夜まで酒を酌み交わし、元忠は退出する際、小姓に手を引かれながら戦の古傷でうまく動かない足を引きずって帰って行ったそうです。その後ろ姿に、家康は涙したとか…。

 

これが、約50年間連れ添ってきた主従の今生の別れの時だったんです。

 

これで泣けない人はおかしい!と言い切っちゃいますよ。

 

伏見城の戦い

家康が残した1,800の兵と、200丁の鉄砲を手に、元忠は伏見城に残りました。

慶長5(1600)年6月18日、家康が出立すると、その1ヶ月後、やはり石田三成が挙兵します。その矛先は、伏見城にいた元忠に向けられたのでした。

4万もの大軍が伏見城に押し寄せ、降伏勧告の使者が向けられましたが、元忠はきっぱりと拒否。そして籠城戦に突入したんです。

 

ところで、この時、家康に頼まれた薩摩の雄・島津義弘(しまづよしひろ)が加勢を申し出てきてくれたのですが、連絡ミスによって、なんと元忠方は義弘を門前払いしてしまったんですよ。義弘は軍神とまで呼ばれた名将中の名将、彼がもし元忠に加勢していたなら…と思っちゃいますね。

 

とまあ、こんなふうにして関ヶ原の戦いの前哨戦・伏見城の戦いが始まったのです。

 

4万VS1,800だったら、勝ち目は見えていますよね。

しかし、家康への忠義という三河武士の心意気で一致団結した元忠軍は、わりとてんでんばらばらな西軍諸将の攻撃をよく防ぎ、まったく崩れません。城内突入すら許さなかったそうですから、その強さはすさまじいものだったんでしょう。この防戦劇によって、伏見城は10日以上も持ちこたえたのですから、三成挙兵の報に接して戻ってくる家康ら東軍に対して十分すぎる時間稼ぎとなったんです。これこそ、家康が元忠に求めていたものでした。

 

最期の瞬間まで、家康に忠義を尽くす

しかし、西軍の武将のひとりが、城内で戦に参加していた甲賀衆の妻子を人質に取り、内通しなければ彼らを殺すと脅迫してきたんです。これには甲賀衆も寝返らざるを得ず、そのうちの何者かが城内の一角に火を放ちました。それに乗じて西軍の兵たちが城内へ侵入し、乱戦となったんです。

 

最後の時が近づいたことを知った元忠ですが、敵に首を取られるくらいならばと自刃をすすめる部下に対し、一喝しました。

 

「私が戦う理由は、名を残すためではなく、殿のために敵を食い止めて時間を稼いでいるからだ。自分の名誉にこだわり、主を忘れるなど忠義の士としてもってのほか! ひとりになっても最後まで敵を倒し、忠義を尽くすのだ」

 

その元忠の言葉通り、伏見城の兵たちは最後まで抵抗を続けました。

 

一方、傷つき座り込んだ元忠の前に、一人の武将が現れます。

彼が、鉄砲衆として信長を苦しめた雜賀衆(さいかしゅう)の頭領・鈴木重朝(すずきしげとも)。

元忠は彼と一騎打ちを繰り広げたともいい、彼の介錯によって自刃しました。享年62。

 

家康と出会ってからの約50年、すべてを家康のために捧げ尽くした一生でした。

その見事な最期は、「三河武士の鑑」と称賛され、同時に、後世に彼の名を残したのです。

 

そして、家康は東軍を率いて関ヶ原の戦いに臨み、西軍に完勝したのでした。心の奥底には、元忠の弔い合戦という思いがあったかもしれませんね。

 

元忠の名誉は血天井と共に残る

 

戦後、家康は、元忠以下、伏見城で討死した兵たちの血が染みこんだ畳を江戸城の櫓の上に置き、登場してくる大名に元忠の忠義のほどを示しました。後に畳は丁重に祀られ、「畳塚」が栃木県壬生町に残されています。実は筆者、お参りしたことがあるんですが、元忠のことを想うとかなりじーんとしましたよ。

 

また、彼らの血に染まった床板は、「血天井」として京都の養源院(ようげんいん)など、多くの寺院の天井に使用されています。今でも見られるので、京都旅行の際はぜひ訪れて見てはいかがでしょうか。元忠の想いを感じて目頭が熱くなること間違いなし。

 

元忠は、こうして何度も家康の危機を救ってきたのですが、「感状」を一度ももらうことはありませんでした。彼が固辞したんです。

感状とは、主が家臣の功績に対して与える賞状のようなもので、もし次の主に仕えようと就職活動をする際にとても役立ったんです。そして、名誉以外の何物でもありませんでした。

それを固辞した元忠は、やはり、名誉のためではなく生涯唯一の主・家康に尽くすのが当たり前だったんでしょうね。

 

こうした元忠の偉業の恩恵を被ったのが、あまり出来のよくなかった子孫たちなんです。

孫も曾孫も不出来で、本来なら家ごと取り潰しでもおかしくないくらいだったんですが、元忠の功績によって罪を減じられたんです。持つべきものは、素晴らしいご先祖。

 

まとめ

  1. 徳川家康の幼少時からずっと仕えていた
  2. 戦で負傷し、足に障害が残ったという
  3. 家康からの信頼は、徳川四天王にも匹敵するほど篤かった
  4. 伏見城の戦いの直前、家康と盃を酌み交わし別れを告げた
  5. 4万の大軍相手に1,800の兵で迎え撃った
  6. 最期の瞬間まで敵を斬り続け、「三河武士の鑑」と称えられた
  7. 元忠ら城兵の血が染みた「血天井」が残されている

 

派手な活躍はなくても、家康への忠義は人一倍だった元忠。

 

最後の最後、伏見城の戦いで散った彼の死に様、あっぱれという言葉以外思いつきません。

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