戦国大名のあだ名って、カッコいいものが多いですよね。上杉謙信なら「越後の龍」、伊達政宗なら「独眼竜」。もちろん、豊臣秀吉の「「はげねずみ」、明智光秀の「キンカ頭」なんて微妙なものもありますが…。ところで、今回ご紹介する最上義光(もがみよしあき)は、「羽州の狐」と呼ばれることもあります。狐…イメージ良くないですね。しかし現在、一部の歴史フリークからは、彼は親しみをこめて「鮭様」と呼ばれています。さて、狐か鮭か…最上義光は、どんな人物だったのでしょうか。
身長180㎝の大男、妹を溺愛
天文15(1546)年の元旦、出羽(山形県)に生まれた最上義光。いきなりめでたいですね。同世代には武田勝頼や黒田孝高(くろだよしたか/官兵衛)がいますよ。
小さい頃から体格がよかったそうで、5歳にして12歳くらいの体つきをしており、後に身長は約180㎝になりました。当時の男性の平均身長は160㎝に満たないくらいですから、巨大です。これだけで相手を威圧できますね。
しかしそんな義光は、妹の義姫(よしひめ)を溺愛していました。義姫は後に伊達輝宗(だててるむね)に嫁いで政宗を生んでいますが、そんな妹を嫁に出してからも義光はとてもマメに手紙のやり取りをしていたんですよ。姻戚とはいえ、時には敵対することもあった家同士ですから、手紙のやり取りには慎重になるはずですが、そんなものまったく気にせず(たぶん)にまるでラブレターみたいな手紙を送っています。
義姫も強い女性だったんですが、義光は妹が大事なあまり、戦場に乗り込んできた彼女に停戦を懇願されてそれに応じちゃったこともあるんです。し、シスコン…! ついでに、政宗も母の頼みに負けて停戦してます。ま、マザコン…!
とにかく肉親とのいざこざ多し:父親編
妹の嫁ぎ先・伊達家との油断ならない微妙な緊張関係も続いていましたが、元亀元(1570)年ごろから、義光には父との確執もあったようです。一度は家臣の取り成しで和解しましたが、数年後また険悪になってしまいました。いったい何があったの…!?
このウラには、父が弟をひいきしたからという説もあるんですが、これが創作ではないかとも言われているので、正直はっきりしません。ただ、肉親の関係って一度こじれるとなかなか元に戻らないことがありますから、義光と父もそんな感じだったのかもしれませんね。家族は大事にしましょう。
伊達輝宗:Wikipediaより引用
そんな風に家の中でもめてる隙に、伊達輝宗(政宗の父)が「舅を助けるのだ!」という名目で最上領内に侵入。そんなワケないじゃないですか。あわよくば領地取っちゃおうって魂胆ですよ。しかも、出羽国内の豪族たちまで義光の父側についてしまって大ピンチではあったのですが、どうにかこうにかこれを切り抜け、いつの間にか父子は和解したんです。やっぱり家族の大切さに気付いたんでしょうか?
「出羽の狐」、調略を駆使して出羽統一
出羽国内では大きな力を持っていた最上家でしたが、まだ従わない国人もいました。その中には、義光を出し抜いて「私を出羽守(でわのかみ)にしてください!」と時の権力者・織田信長に願い出た輩もいたんですよ。
これには、かつていちおう室町幕府から「羽州探題(うしゅうたんだい/奥羽地方を統括する役職)」に任ぜられた最上家のプライドが黙っちゃいません。義光がここで「出羽の狐」と呼ばれた本領を発揮します。
まず、信長に弁の立つ家臣を送って自分がいかに正当な羽州探題であるかを説明させ、ついでに贈り物攻撃もして、信長に自身を出羽守と認めさせます。
そして、自分を出し抜いて信長に願い出た国人に対し、「自分が重病になってしまったから後を頼みたい、だから城まで来てくれ」と頼み、やってきた相手を殺してしまったんですよ。
こんな風に策を用いて相手を制圧していったので、義光にはいつしか「危険な奴=出羽の狐」なんてイメージがついてしまったようです。
ただ、前述の暗殺劇に至るまでには、義光も相手を懐柔しようといろいろ手は尽くしていたんですよ。自分の嫡男・義康(よしやす)と相手の娘を縁組させようと提案したんですが、拒否されたので、もうこれは殺すしかないということになったんです。
直接武力に訴える前に、義光はまず調略を用いました。心理戦や懐柔策(時々は陰謀ですが)によって相手を降伏させるか味方に引き入れるかして、着実に自分の兵力を増やしていったわけですね。これって頭いいですよね。戦をすれば多かれ少なかれ負傷者や死者が出るわけですから、そのダメージを最小限に抑えていたということになります。
食えない甥っ子でも鮭を贈る:「鮭様」誕生
さて、伊達家に嫁いだ義光の妹・義姫が生んだ政宗は、義光の甥っ子に当たるわけですが、決して可愛いだけの存在ではありませんでした。時には敵と味方に分かれ、争うこともあったんです。そうでない時でも、笑って握手をしながらもう片手には刃を潜ませている…という関係でした。
天正14(1586)年の大崎合戦では敵対し、慶長3(1598)年の慶長出羽合戦では、苦戦する義光を支援する姿勢を見せつつも政宗が密かに領地拡大を画策するという(未遂ですが)こともあったんですよ。でもまあ、結局は激突することはなかったんですけれどね。お互い、食えないヤツだと思っていたんじゃないでしょうか。でも、親戚は大事にした方がいいと思います。
そんな関係でしたが、義光と政宗は手紙のやり取りもしていますし、義光は鮭を贈ったりしています。
義光の大好物は鮭だったといいます。自分で食べるだけでなく、家臣にも甥っ子にも、仲良しの徳川家康にも贈っているんですよ。どれだけ鮭を広めたいのか…!
しかも「鮭」が付く家臣もいましたし(鮭延秀綱/さけのべひでつな)、これはもう、「鮭様」と呼ぶしかないでしょう! ということで、「鮭様」と呼ばれるに至ったのです。たぶん。
ちなみに、鮭延の家臣が義光の侍女と密かに恋仲になると、激怒した義光は2人に死罪を申し付けます。しかし鮭延の取り成しにより渋々それを引っ込めました。すると後に、鮭延の家臣は鮭延のために戦で戦死し、侍女はその後を追って自害してしまったんです。
それを聞いた義光は男泣きし、2人を手厚く弔ったとか。まあ、鮭延がデキたお人だったという話になっちゃいますが、義光にも人情があったということで。
秀吉への恭順、しかし娘に悲劇が…!
信長の死後は、義光も他の戦国大名たちと同様、豊臣秀吉に恭順して三男の義親(よしちか)を人質に出し、出羽の領地を保証されます。
しかしそこはさすが「出羽の狐」、二男の家親(いえちか)を徳川家康の小姓に差し出し、そちらともしっかりパイプを作っているんですよ。家康とは3歳違いで年も近く、けっこう仲良くしていたようです。
とまあ、こんな風にうまく外交戦略を駆使していた義光ですが、文禄4(1595)年に悲劇に直面します。
秀吉の養子で、将来の後継者と目されていた豊臣秀次が娘の駒姫(こまひめ)を見初め、側室にと要求してきたんです。何度か断ってはいたのですが、駒姫が15歳になったので、ついに差し出さなくてはならなくなりました。
しかし、駒姫が上京した矢先、秀次は秀吉の不興を買い(諸説あり)、切腹させられてしまったんです。しかも、妻子まですべて殺せと秀吉は命じたのでした。
駒姫:Wikipediaより引用
まだ、駒姫は秀次にお目見えすらしていなかったと思われます。義光は家康を介して必死の助命嘆願をしましたが、それでも秀吉は彼女を助けてはくれませんでした。哀れな駒姫は、ここで15歳の命を散らしてしまったのです…。
義光の落胆はひどく、何日も食事を摂ることもできませんでした。しかも追い打ちをかけるかのように、娘の死にショックを受けた夫人まで亡くなってしまい、義光は娘を秀次に嫁がせたということで連座させられ、謹慎処分となってしまったんです。
この悲劇は、豊臣家に対する決定的な恨みを残すことになり、義光がさらに家康側に近づいていく要因となりました。
これはもう、仕方ないですよね…。可愛い娘を殺され、妻は亡くなり、自分まで罪に問われるなんて、こんな理不尽があるでしょうか。
上杉は俺が殺る! 慶長出羽合戦での死闘
慶長出羽合戦:Wikipediaより引用
こんな風に辛い状況にあった義光ですが、領土面でも厳しい相手とやり合っていました。それが、越後(新潟県)を支配していた上杉景勝(うえすぎかげかつ)です。上杉方に義光は庄内地方を奪われてしまったんですよ。ここは日本海に面した場所ですから、ここを奪われると最上としては非常に痛かったんですね。
後に上杉景勝は会津(福島県)に移封されますが、相変わらず最上領に接していることは変わりなく、目下いちばんの敵でした。
そんな中、秀吉が亡くなると、徳川家康は上杉征伐に打って出ます。東北でいち早くそれに呼応したのは義光でした。
しかし、西では石田三成が挙兵したため、家康は本隊を連れて転進してしまいます。すると、東北諸将の中には国に帰ってしまう者が続出。甥っ子政宗とは言えば、こっそり講和しちゃったりして、気づけば上杉と戦うのは義光だけになってしまったんですよ。
それでも義光は上杉に戦いを挑みました。これが「北の関ヶ原」とも呼ばれる「慶長出羽合戦」です。上杉軍は2万4千、義光がこの地に動員できるのは3千ほどで、不利は明らかでした。
しかし、上杉景勝の右腕・直江兼続(なおえかねつぐ)に対して、長谷堂城(はせどうじょう)に籠もった義光の家臣は千人だけで頑張り通したんですよ。
こうして彼らが奮闘している間に関ヶ原本戦が終了、西軍敗戦の報せに、上杉軍は撤退していきました。助かった! そして長谷堂城の皆さん、よくやった!
こうして庄内地方も奪い返し、戦後の論功行賞によって、義光は出羽山形57万石の領地を得たのでした。押しも押されもせぬ立派な大大名です。
ちなみに義光、この戦いの時、退却する上杉軍を深追いしすぎて兜に被弾してます。危うく死ぬところでしたよ。
昔、敵陣に突っ込んで首を取って帰ってきて、家臣に「大将がそんな軽々しいことしないで下さい」と怒られたこともあったんですが…。そんなうっかりさんなところも、「鮭様」なんて呼ばれ親しまれる所以かもしれませんね。
またも肉親とのいざこざ:息子を失う
太平の世となり、城下町を整備し内政に力を注いだ義光は、名君として東北に君臨しました。
しかし、嫡男の義康との確執が生まれてしまいます。
二男・家親は家康に仕えておりその覚えもめでたく、家康もどちらかというと家親が最上家の跡を継いでくれたらな…なんて思っていたみたいです。
すると、おそらく家親を推したい家臣が、義光と義康の離間を図ろうと、義康について良からぬ根も葉もないことを讒言したようなんですよ。しかも義光、それを聞き入れてしまったんです。
そして義康は高野山へ追放され、その途中で暗殺されてしまいました。
義光は息子の首を見て涙したそうですが、時すでに遅し。
自分が若かりし頃に父と対立して家内が大変だったこと、もっと早く思い出して欲しかったです…。
やがて、義光も老境に差し掛かり体調を崩すようになります。しかし病をおして家康の元に参上し、最上家の後を家康に頼みました。それから国へ戻ると間もなく亡くなります。69歳の生涯でした。
実はこの後、最上家は後継ぎを巡るお家騒動などで改易され、旗本の身分にまで降格してしまったんですよ。義光、草葉の陰で泣いたでしょうね…。
まとめ
- 妹が大好きな大男だった
- 父親とかなりもめた
- 調略を駆使して出羽を統一、「出羽の狐」と呼ばれる
- 鮭を贈りまくったので「鮭様」
- 娘を嫁がせた途端に殺されるという悲劇
- 慶長出羽合戦で上杉勢を破る
- 息子ともめた挙句に暗殺されてしまい深く後悔
突っ込みどころが満載な人物ですが、そこがまた人間的魅力でもあった義光。
親しみをこめて、「鮭様」と呼びたいですね。
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