甲斐の虎として戦国武将たちから恐れられた武田信玄。思慮深く、卓越した戦略や戦闘能力を持つ戦国随一の武田軍団を作り上げたカリスマ武将です。一時はその動向が戦国の歴史を動かすキーマンにもなるほど。知れば知るほど凄い魅力がいっぱいの武将でもあります。かの織田信長も徳川家康もビビッていたといわれる信玄の凄さの秘密とは?
勝利を呼ぶ子誕生
武田信玄(晴信)は1521年、甲斐の国の躑躅ヶ館の詰めの城である要害城で生まれました。

武田信虎:Wikipediaより引用
このとき、じつは信玄の父武田信虎は存亡の危機に。駿河の守護大名今川家の家臣、福島正成に攻めこまれていたのです。今川家は駿河・遠江の100万石の大大名。対して武田家は甲斐一国20万石。2000ばかりの兵で1万5千の大敵を迎えうつという圧倒的に不利な状況にありました。
しかし嫡男誕生を知った信虎は奮起。ゲリラ戦を展開し、ついに奇襲で正成を打ち取り、敵を撃退しました。
長年にわたって内紛や周辺諸国との争いで弱体化していた甲斐の守護武田家ですが、信虎は再び甲斐統一を果たしたのです。
祝福されて生まれた信玄は、都から招かれた僧や貴族に兵法書や文学、諸子百家を学び、教養豊かな青年に成長しました。
信玄の代名詞ともいえる

「風林火山(はやきこと風のごとく、しずかなること林のごとく、侵略すること火のごとく、動かざること山のごとし)」
は中国の『孫子』からとったものです。
しかし実戦肌の信虎はそんな息子をいつしか疎むようになり、次男の信繁に家督を譲ることを考え始め、父と信玄の仲がぎくしゃくしていきました。
電光石火のクーデター劇
こうなると戦国時代の定番、父と子、兄弟同士が血で血を争う骨肉の争いになったのかと思いきや信玄は意外な方法で先手を打ちます。1541年、信虎が今川義元のいる駿河に出かけると、信虎をそのまま駿河に追放。自らが甲斐の守護職を相続してさっさと当主についたのです。電光石火の父追放のクーデター劇。事前に重臣たちを味方につけて根回しするなど二十歳前後の若者とは思えない老獪さを身につけていたようです。
じつは信虎は甲斐統一を果たした有能な武将でしたが、国人や民衆の不満をかえりみず強権的に信濃侵攻を推し進めたため、人心を失っていました。甲斐国内では新しい当主の登場を待ち望んでいた背景もあったようです。
負けない戦い
甲斐の当主となった信玄は名将として名を馳せていきます。その秘密は、武将としては「戦わずして勝つ」ことを第一に考え、「負けられない戦い」いや「負けない戦」を徹底したことにあります。
信玄自身はつねづね「勝利は五分程度が良い。七割程度は中、完勝は好ましくない」と述べています。なぜなら余裕で勝つと味方が油断し、圧勝するとおごり高ぶります。引き分けか少し勝つぐらいが次の励みになるのでちょうどいいのだとか。そう、負けなければいいんです。
事実、信玄は生涯70回以上の戦いをしましたが大敗したのは3回程度と言われています。しかもその敗北は、たいてい初め勝っていたため深追いしすぎて敗北するパターンが多かったのだとか。信玄は敗北からしっかり学んだようです。
では、負けないために進言が必要としたものとは何だったのか。もちろん信玄自身の武勇や戦略、用兵の妙、そしてカリスマ性もあったでしょう。

でも信玄がまず徹底したのは敵を知ることです。そのために情報収集、つまり忍者のスパイ活動を重視しました。
もちろん各地の戦国武将も情報収集には熱心でしたが、信玄の忍者集団はもはや軍団並みの立派な組織。三ツ目、歩き巫女など様々な忍者組織を整備して諸国に送り込み、信玄の元には日本全国の情報が集まりました。しかもこれらの情報は狼煙や信玄が作った軍用の道路を使ってひとっとびで信玄の元に。今ならさしずめSNSを駆使した情報ツウ。この早く正確な情報収集能力の高さこそが負けない武田軍団を築く礎のひとつになりました。
この情報収集を分析してまずは外交戦を駆使。敵を寝返らせて無血開城させるなど戦わずして勝つことにこだわりました。戦うことになっても敵の情報をしっかり分析することで「勝てる」つまり「負けない」ことを確信して戦場に臨めたわけです。
実力主義で人材登用

武田信玄:Wikipediaより引用
そんな負けない戦いを支えたのは戦国最強とうたわれた武田軍団。その強さの秘密は画期的な人材登用にありました。農民出身の高坂弾正、素性が不明の山本勘助、浪人していた真田氏など実力主義でヘッドハンティング。彼ら有能な武将が団結して実力を発揮することで武田軍団は急成長していきます。
しかもこれらの一筋縄でいかない軍団を統率するために軍法を重視。「甲州法度之次第」を作り、大将たるもの、人材をうまく使い、えこひいきせず正当に評価することを徹底させました。この分国法では法の下の平等をうたい、信玄も法を犯せば処罰されると明記しています。これは当時としてはかなり珍しいもの。大将にここまで言われたら、武将たちもえりをただすしかありませんよね。しかも「うちの大将は他の威張るだけのよその大将とは違うぞ。どんなもんだい。えっへん」と家臣たちの信頼と忠誠心は一段と高まったに違いありません。
信玄は民衆にも心を配ります。比較的緩やかな税制を敷くとともに、「信玄堤」と呼ばれる大規模な治水工事を実施して農業の向上につとめています。
信濃に侵攻し領土拡大
家臣と領民たちの心をしっかりつかんでいた信玄は富国をめざし、広大で肥沃な地に小豪族が林立していた信濃の国取り合戦をスタート。
諏訪に勢力を持つ妹婿の諏訪頼重を攻め、信濃進出を本格化させます。この時も諏訪一族ながら頼重と敵対していた高遠氏を引き入れ、挟みうちにして勝利。さらに大井氏や笠原氏を降して佐久地方も制圧します。快進撃を続ける信玄の前にやがて立ちはだかったのが北信濃の強豪、葛尾城主村上義清。1547年の上田原の戦いでは武田方の先鋒板垣信方が打ち取られ、信玄も手傷を負うなど惨敗していまいます。
信玄は村上氏の支城の戸石城を攻撃しますが、要害にありなかなか陥落しません。
そこで翌年、信濃出身の真田幸隆に命じてこの戸石城に買収工作を行ない、陥落させています。その上で次々と支城を落として葛尾城に迫った結果、義清は戦わずして城を捨て、上杉謙信のもとへ駆け込みました。

上杉謙信:Wikipediaより引用
下伊那や木曽も制圧した信玄が、善光寺平を手にいれ、信濃全土を制圧するのは時間の問題とみられましたが、ここで信玄の最大のライバルとなる越後の上杉謙信が立ちはだかります。小笠原や村上が謙信のもとに逃げ込み、出兵を懇願しただけでなく、謙信にとってもここを奪われると本拠春日山城が脅かされてしまうからです。
川中島の戦い

そのため善光寺平をめぐって川中島の戦いが始まりました。この川中島の合戦は5度行われましたが、「負けない戦」をする信玄は強い謙信にむやみに戦いを仕掛けず、その多くが局地戦で終わっています。
ただし1561年の第4回の戦いは最大の戦いになりました。このときは両軍が白兵戦の死闘を展開し、謙信と信玄が一騎打ちをしたという説もあるほど。一時は武田軍が追い込まれますが、別動隊の加勢で立て直し、上杉軍を撤退に追い込みました。武田方も信玄の弟信繁、軍師山本勘助などの有力武将が戦死するなど多大な被害をこうむりましたが、窮地を脱しました。
信玄いざ都へ
川中島の戦い以降、信玄の矛先は西上野、さらに今川義元亡き後弱体化した駿河に向けられます。とくに駿河攻めのため今川と北条との3国同盟を破棄し、信長と同盟するという方針転換をしています。
ただしこの駿河侵攻には大きな代償もはらいました。じつは今川攻撃を嫡男の義信が反対。義信の妻が今川義元の娘という事情もありましたが、義信は三国同盟を破棄すれば北条氏が甲斐を攻めてくることを恐れたようです。しかし信玄は義信を自害に追い込み、駿河へと侵攻していきました。
こうして甲斐、信濃を中心に最大版図を広げた信玄。いつしかその武名と実力は都にも鳴り響きます。足利義昭の信長討伐に応じて2万以上の大軍を率いて西上します。信玄は、義昭を始めとする信長包囲網の武将たちの希望の星でした。進軍した信玄は三河では徳川家康を三方ヶ原におびき出してこれを討ち破ります。
ところがじつは信玄はすでに病に冒されていました。急きょ甲府へと引き返しますがその帰路、息を引き取りました。
信玄の西上を待ち望んでいた義昭らにとっては痛恨の極みだったでしょう。この巨星、信玄の死は戦国史のターニングポイントにもなり、以後は信長が天下統一へとまい進していくことになりました。
家臣や領民を思いやって内政にも力を尽くし、強い武田軍団を率いながらもつねに慎重に負けないことを大切にしていた名将信玄。どうせならこんな大将の下で働いてみたいですよね。
一方、信玄の跡目を継いだ勝頼は信玄のように「負けない戦」をすることができませんでした。勝ちをもぎ取りに行く戦いにこだわり、やがて武田家は弱体化して滅亡していきます。
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