戦国武将なら勇ましい名前を想像しがちですが、今回ご紹介するのは北信愛。
「ほくしんあい」ではありません。
「きた のぶちか」と読みます。
「愛」の字が入ってる武将って、珍しいですよね。
東北の雄・南部家を支えて70年余り、80歳近くなっても現役で戦の指揮を執り、10数人で数百の敵に立ち向かった…なんて話を聞くと、俄然、彼について知りたくなってきませんか?
主家の後継者問題に直面
信愛が生まれたのは大永3(1523)年。武田信玄や千利休、柴田勝家などが1つ上や2つ上くらいにいる年代です。
剣吉城(けんよしじょう/青森県三戸郡南部町)主・北致愛(きたむねちか)の嫡男として誕生しました。
北家は元々南部一族だったと言われています。
若い頃の信愛については、詳細は不明ですが、天文9(1540)年ごろには父から家督を譲られたと伝わっています。
さて、時は過ぎて元亀元(1570)年のこと、信愛の主・南部晴政(なんぶはるまさ)に子供が生まれました。
南部晴政:Wikipediaより引用
これだけなら非常にめでたいことなんですが、実はそうでもなかったんですよ。
というのも、晴政には長らく男の子が生まれず、娘婿としてイトコの信直(のぶなお)をすでに養嗣子に迎えていたんです。
そんなところへ実子が生まれてしまったのですから、誰もが微妙な空気を感じ取っていたんですね。
もちろん晴政は実の子が可愛いわけで、となれば、
「やっぱり跡継ぎは実の子に…」
と思っちゃうパターンになってきたんです。
そして折悪しくも、信直の妻である晴政の娘が病気で亡くなってしまい、ますます信直の居場所がなくなってきてしまったのでした。
なんかこの構図、室町幕府でありましたよね。
8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)と日野富子(ひのとみこ)の間に子供がいなくて、弟を後継者にしようって決めた途端に息子が生まれてゴタゴタになるという…。
まさのその構図が、南部家で生まれてしまったんです。
そうした空気を読んだ信直は、養嗣子を辞退して館に引きこもります。
しかし、晴政が刺客を放つのではないかという恐れもあったので、居場所を転々とすることになってしまいました。
そんな信直に手を差し伸べ、保護したのが信愛だったんですよ。
当主擁立の陰で奔走
苦しい状況の自分を保護してくれた信愛に、信直は深く感謝し信頼を寄せるようになりました。
やがて、天正10(1582)年に晴政が亡くなると、幼い実子の晴継(はるつぐ)が当主の座に就きます。
南部晴継:Wikipediaより引用
ところが、晴継はこの直後に亡くなってしまうんです。
病気だったとも、暴漢に襲われたとも言われていますが、実は信直の手によって殺されたという説もあります。
当主がまたも不在となった南部家は、舵取りをどうするかで揺れました。
そこで評定が開かれたんですが、ここで選ばれたのは、やはりと言うべきか、信直だったんです。
南部信直:Wikipediaより引用
この裏には、信愛の根回しもありました。
おそらく信直を保護した時点で信愛は彼を補佐していく気持ちを固めていたんでしょうね。
南部一族の有力者に接触して信直推しを取り付けていたんです。
ただこの時、南部家の家臣である九戸政実(くのへまさざね)は猛反対しました。
亡き晴政の二女を妻に迎えていた、自分の弟・実親(さねちか)こそ正当な跡継ぎだと主張したんです。
しかしこれが容れられず、遺恨となり、後に大きな戦いが起きるんですよ…。
信直の側近として、外交に奔走
信直の側近となった信愛は、次は外交面で活躍しました。
まずは、時の権力者・豊臣秀吉の覚えめでたくなることが必須。
そのため、信愛はまず秀吉の親友・前田利家に会い、鷹を献上して秀吉にツテを作りました。
前田利家:Wikipediaより引用
こうして、信直こそ南部家の当主であると認めてもらったんですよ。
これにはものすごく大きな意味がありました。
四国・中国・九州・関東と統一を果たした秀吉は、制圧した領地を再分配していたんです。
その時、秀吉のところに真っ先に参上して忠誠を誓えば、元々の領土はほぼ安泰となったんですね。
だからこそ、南部家がたとえ東北の奥地であろうとも、いち早く秀吉に謁見することが必要だったんです。
これこそが、この直後に起きる九戸政実の乱でも利いてくることになりました。
信直が当主になった時に反対した九戸政実は、やはり南部家に反発し、ついに挙兵しました。
これが「九戸政実の乱」です。
戦上手の政実に南部方は苦戦し、ついには援軍を頼もうということになりました。
この時またも奔走したのが信愛です。
彼は上洛して秀吉に会い、援軍を頼みこみました。
こうして、6万にも及ぶ豊臣方の軍勢が東北の最北端にまで派遣され、乱が鎮圧されて東北の戦国時代も終わりを迎えたのです。
津軽家の独立などもあって領地が少し減ってしまった南部家ですが、一応、陸奥での領地を確固たるものにすることができたのでした。
その陰で奔走した信愛の働きは、とても大きかったと言っていいでしょう。
慶長4(1599)年、主の信直が亡くなると、信愛は剃髪しました。
南部利直:Wikipediaより引用
本当は隠居もしようとしたんですが、信直の跡を継いだ利直(としなお)に強く引き留められたんだそうですよ。
この時すでに信愛は76歳でしたから、当然隠居してもOKな年齢だったんですが、その影響力を惜しまれたのでしょう。
十数人で数百の敵を撃退!
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いが起こると、本戦から遠く離れた奥州の地でも、最上などを中心とした東軍と、上杉を中心とした西軍による「慶長出羽合戦」が起きました。
慶長出羽合戦(退却する直江兼続を追撃する最上義光):Wikipediaより引用
しかし、奥州には伊達政宗という曲者がいました。
この人はどうしてもウラでいろいろやっちゃう方なので、合戦そっちのけでこっそりと一揆を扇動したと言われています。
一揆勢力の大将は、九戸政実の乱の後に豊臣秀吉が行った奥州仕置(おうしゅうしおき/奥州の領土再分配)で領地を奪われていたので、それを奪回しようとしていたんです。
ちょうどそこが、信愛が城代として守る花巻城付近だったんですよ。
その夜攻め込んで来た一揆勢は数百人。
しかし、すでに老齢で眼も悪くなっていた信愛はじめ花巻城を守るのはわずか十数人でした。
というのも、南部家は慶長出羽合戦に兵力を割いていたからだったんです。
すでに本丸が包囲され、大ピンチに追い込まれてしまいました。
しかし、信愛はまったく動じることはありませんでした。
彼は鉄砲を持ってこさせると、火薬だけ詰めて空砲を撃ちまくったんです。
その射撃音は、まるで本丸からたくさんの兵が撃っているように聞こえました。
これこそ信愛の知略で、大人数がいると見せかけ、寄せ集めの一揆勢の士気をくじくものだったんですよ。
信愛の下には、城下から女性や僧まで馳せ参じて戦いに加わりました。
信愛は彼らに、攻撃する時にはまず足元を見ろと命じます。
敵ならば川や堀を渡って来ており、足が泥で汚れていると考えたからでした。
こうして、夜の闇の中での戦いも切り抜けたんです。
こうして一揆勢が攻めあぐねている間に南部家の援軍が到着し、信愛は見事に敵を退けたのでした。
信愛の人柄が伝わる「鷹の話」
信愛の実直かつ立派な人柄が、逸話として残されています。
主の利直は、目を悪くした信愛の晩年の楽しみになるようにと鷹を贈りました。
信愛はその鷹を鷹匠に預けましたが、ある時、鷹が鳥を捕らえて舞い降りたところに犬がやって来て、鷹をかみ殺してしまったんです。
この犬はある百姓の犬だったので、鷹匠は百姓を捕らえ、自分も共に罪に服すと信愛に申し出ました。
すると信愛は
「何と無分別な!」
と怒りを露わにしたそうです。
そして、
「その百姓が犬をけしかけたわけでもないし、お前も犬に噛ませようと鷹を放ったわけではないだろう! 犬が鳥を噛むのは当然。鷹が噛まれたのは油断していたからで、死ぬのも運命だったのだ」
と続けたのです。
驚く鷹匠に、信愛はさらに続けました。
「鷹が百姓に比べてどんな働きをしたというのだ?鷹一羽のために大事な百姓をひどい目に遭わせるわけにはいかん。早く縄を解くのだ、百姓に謝らなくては」
本来ならみんな手討ちでもおかしくないような状況でしたが、信愛は誰も咎めませんでした。
鷹には気の毒でしたが、人の上の立つ者としての度量の広さが感じられる逸話です。
まとめ
- 南部家の後継者争いの際、孤立気味の信直を保護し信頼を得た
- 信直の当主擁立に奔走した
- 外交で力を発揮し、南部家の領地を安泰とした
- 老齢で眼も悪い中、十数人で数百の敵を防ぎ切った
- 実直な人柄で、器量が大きい人物だった
信愛は91歳という長寿を全うしました。
信心深く、髻に観音像を忍ばせて戦場に向かったと言う彼。
生前の行状も立派なものでしたし、きっと極楽浄土へ行ったことでしょうね。
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