顕如上人 戦国の覇者信長に真っ向勝負を挑んだお坊様

Pocket

永楽年間、戦国時代の日本に滞在していた宣教師ガスパル・ビレラは、ローマへの報告書簡にこう書いて送りました。

「日本の富の大部分はこの坊主(原文では“ボンズ”)の所有なり」

「この坊主」とは、石山本願寺の第十一代宗主、顕如上(けんにょしょうにん)のことです。清貧を厭わぬはずのお坊様が日本一の大金持ちって?

スポンサーリンク

浄土真宗本願寺派、不遇から一転攻勢へ

本願寺派とは、親鸞上人を宗祖と仰ぐ浄土真宗の一派で、その八代宗主が顕如の曽祖父である蓮如上人でした。

 

しかし親鸞の嫡流の血筋でありながら、蓮如の生まれた当時京都東山にあった大谷本願寺は、「人跡絶えて、参詣の人ひとりも無く、さびさびとしておわす」などと書かれてしまう有様です。

境内わずかに300坪。個人の家じゃありません、お寺ですからねぇ、お堂を建て並べるにはいかにも狭い。浄土真宗他派や佛光寺教団の勢いを横目に、細々と信仰の道を説いておられました。

 

やがて比叡山延暦寺からの圧力もあり、京都に居られなくなった蓮如は、親鸞上人祖像を奉じて北国・東国を転々と旅します。しかし加賀守家の内紛に関わった辺りから、運命は好転を始めました。

 

この騒動の時に、加賀の国の民人が続々と蓮如の下に集まったのです。蓮如の声望が高まり始めたのです。佛光寺派の内輪もめに端を発した、他派の本願寺派への合流が始まりました。

 

真宗出雲路派の門徒衆を引き連れての合流、真宗木辺派の、伊勢国、伊賀国、大和国の40ヶ所の門徒衆を引き連れての合流などを繰り返し、不遇をかこった本願寺派は、見る間に蓮如一代で日本一の巨大教団に成り上がりました。

 

 

大阪本願寺

そんな蓮如上人が明応5年(1496年)82歳の時に、隠居所として建立したのが大阪本願寺です。後に信長の包囲攻勢に、10年あまり耐え抜いたのですから、さぞ堅牢な建物だったのでしょう。顕如の父証如の時代に、本願寺は大阪に本拠を移します。

 

ではなぜ貧乏寺の本願寺が、ここまでのし上がることが出来たのでしょう。

 

1つには中世的な土地支配から脱却し、豊かになった農民の財力の底支えがありました。蓮如は北国・東国をさすらっていた時に、もともと信心深い彼の地の人々の教化に努めました。

 

教義を消息(手紙)の形に書き直し、だれにでも分かる「御文」として広めます。1日に6度の念仏をすすめていた旧来のやり方を改め、朝夕2度の念仏で救われると説きます。実情に沿ったやり方ってわけですね。

 

商品経済の発達により、都市部の商人、職人層にも経済的余裕が出てきました。自身のことは自身で決めたい欲求が生まれますが、何か拠り所が欲しい、その心をうまく掬い取ったのです。このような自分の心で選んだ信仰心は強いものです。

 

 

顕如誕生

証如影像:Wikipediaより引用

天文12年(1543年)、本願寺派十代宗主証如を父として誕生。天文23年(1554年)、証如が38歳の若さで亡くなった為、12歳の顕如が十一代宗主となります。

 

この時顕如はまだ得度前でありましたが、父証如が病に倒れたため急ぎ得度を行い、宗主となる資格を得ました。

 

本来なら本寺である京都青蓮院に出向いて得度を受けるはずですが、急なこととて証如が重病を押して戒師となり、得度の式を執り行いました。次の宗主が決まって安堵したのでしょうか、その翌日に証如は亡くなってしまうと言う慌ただしさです。

 

宗主となった顕如は、3年後の弘治3年(1557年)15歳の時、細川晴元の養女如春尼と結婚します。如春尼の実の姉が武田信玄の正室三条夫人でしたので、この婚儀を以て信玄と顕如は義兄弟になったのです。政略結婚だらけの戦国時代ですから、思わぬところで思わぬ人と姻戚関係になったりするのです。

 

先程から普通にお坊様の結婚だの子供だのと言っていますが、浄土真宗では宗祖親鸞上人以来、僧侶であっても結婚することが普通の習わしとなっていました。

 

スポンサーリンク

本願寺、門跡寺院へ

正親町天皇像:Wikipediaより引用

永禄2年(1559年)、正親町天皇のとき門跡寺院の勅許が下り、勅使の万里小路秀房(までのこうじ ひでふさ)が大阪本願寺でこれを伝えました。

 

この勅許には裏が有って、本願寺の御堂衆・西光寺裕俊が「法流故実条々秘録」に書き残しています。

 

正親町天皇は弘治3年(1557年)に即位なさいましたが、朝廷の経済困窮のため、即位の式典を執り行うことが出来ませんでした。すると公家衆の中にも知恵者はいるもので、「いま日本の長者と言われる本願寺に門跡を許せば、喜んで即位式の費用を献上するだろう」と申します。話し合った末、良きかな良きかなとなって勅使を送ったわけです。

 

大阪本願寺には、財が有ると知れ渡っていたのですね。

 

こうして本願寺は、財力と共に宗門における権威も獲得して行きますが、このことが後に信長との対立を生む元となりました。

 

この頃の有力寺院と言うのは、例えば加賀の国では本願寺派の信者である門徒と、国人、宗教者の合議制によって国を治め、本願寺の領国となるなど、武士の領主のような面も持ち合わせていたのです。

 

天下統一を目指す信長からすれば、相手が武将でも坊主でも同じこと「目障りな奴ら」に変わりはありません。

 

 

信長嫌がらせをする

永禄11年(1568年)、室町幕府の将軍足利義昭を擁して上洛を果たした信長は、自分に敵対しそうな勢力を潰しにかかります。もっともいかに信長と謂えども、何の名目も無しに戦を仕掛けるわけにはいきません。

 

で、手始めに将軍家再興資金の名目で、畿内の寺社・有力者に銭を要求します。要求に応じればそれはそれで良し、応じなければ潰しにかかるぞと言うのです。

 

大阪本願寺へは銭5千貫を求めてきました。この時は本願寺はこれを受け入れます。しかし次に突き付けられた要求は、到底受け入れられるものではありませんでした。本願寺の土地建物を明け渡せと迫って来たのです。断れば寺を破壊するとの勝手な言いようです。

 

開戦

元亀元年(1570年)、要求を断った本願寺に対し、信長は軍を進めます。

 

「避けては通れぬ」本願寺も腹をくくりました。各地の門徒宛てに「此の方の儀、いよいよ難儀におよび候間、時日をうつさず、早々おのおの上洛候はば喜悦たるべく候」との書状を送り援助を求めます。

 

同年9月戦いは始まりました。しかし開戦後4、5日で本願寺側から休戦を提案、この交渉は不調に終わりましたが、その後も足利将軍や朝廷、青蓮院門跡などが両者に和睦を勧めます。

 

一方その間にも本願寺は朝倉・浅井氏、阿波の篠原長房に救援を要請、伊勢長島では大阪本願寺の檄文に応じて、門徒が決起。近江の坂田・浅井・伊香の三郡の門徒が集結すれば、対して信長は比叡山を焼き討ちにします。

 

天正元年(1573年)には、本願寺の同盟者である武田信玄が死去したかと思えば、その子勝頼は、本願寺支援の要請に答える構え。

 

伊勢大湊衆に九鬼水軍、羽柴秀吉に細川藤孝、紀州門徒に加賀門徒、柴田勝家に佐久間信盛、毛利水軍に雑賀衆と、敵味方入り乱れてあちらこちらで勝った負けたの大騒動。その間にも和睦の動きは何度か見られました。

 

決着

天正8年(1580年)3月、信長の兵糧攻めに力尽きた本願寺は、朝廷の仲立ちによる和議に応じました。

 

信長側は七ヶ条を記した和平の血判誓紙を、勅使に差し出します。これに応じて本願寺側も、五ヶ条の誓紙を提出、ここに十年余に及んだ石山合戦もようやく終わりを迎えました。

 

もっとも十年余に渡る戦いであったので、本願寺内では信長の本心を疑い、徹底抗戦を主張する者もいます。顕如は寺内が分裂するのを恐れ、またせっかく整った信長との和議が破れるのも案じられ、同年4月大阪本願寺を出て紀州鷺森へ移りました。信長が本能寺の変に倒れるのは同年6月のことです。

 

 

その後

4年ばかり鷺森に留まった顕如は、その後各地を転々のしたのち、その頃は天下人となっていた秀吉の計らいで、京都六条堀川の地に寺院を建立し移り住みます。念願の京都帰還を果たし、その時建立された寺院が現在に続く西本願寺です。

 

天正20年(1592年)11月の朝、いつものように勤行を終えた後突然倒れた顕如は、それから4日後50歳で亡くなりました。信長との10年戦争を戦い抜き、もっとお年を召されているかと思いましたが、まだ50歳だったのですね。

 

大阪本願寺は顕如が立ち退いたのち、原因不明の出火で三日三晩燃え続け、一切が灰燼に帰しました。当然出火原因についてはあれこれ推測されますが、今もって不明です。

 

やがてその跡地には、壮麗な豊臣大阪城が聳えるのですが、それはまた後の世のお話。

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です