中世、多くの城が築かれましたが、その際、数々の人柱伝説が残されました。
人柱とは人身御供のひとつで、工事の完成を祈り、神へのお供えとして人を生きたまま埋める風習です。
でも誰しも人柱になんかなりたくありませんよね。そのため多くの悲しい伝説も生まれました。
こんな世にも恐ろしい人柱は本当にあったのでしょうか?
今回はそんな城にまつわる都市伝説についてご紹介します。
人柱は城のみならず、橋や堤防の完成を祈り、また自然災害から守ってもらうために人を生き埋めにした風習です。
人柱伝説は、日本神話にもすでに登場しています。たとえば荒ぶる海の神を鎮めるため海に入水したヤマトタケルの妻オトタチバナヒメもその一人です。
『日本書紀』では、仁徳天皇の御世、大阪の堤防が難工事で困っていると、天皇の夢に神が現われ2人の男を人柱に指名しました。一人は泣く泣く水に入りましたが、もう一人は自分の代わりにひょうたんを捧げました。どちらの堤も無事、完成したということです。
そして城が築かれるようになると、その工事の完成を祈り、城にも人柱が用いられるようになりました。ではどんな人柱伝説があるのか見てみましょう。
まずはこわーいお話から。
松江城(島根県)
堀尾吉晴の項目で紹介した松江城には人柱伝説が伝えられています。
築城時、天守閣の石垣が何度も崩れて困った堀尾家では、城内で盆踊りをして声が美しく踊りも上手な若い娘を連れ去って天守台の下に生き埋めにしました。
事情もわからず連れ去られた娘の怒りと悔しさ・・・。さっしてあまりありますよね。
天守閣ができた直後の盆踊り。天守閣が不気味な音をたてて揺れるという怪異が起こり、さらにどこからか女の悲しげなうめき声が響いてきました。ゾッとして固まる人々。すると誰かれとなく「声が天守閣から聞こえてくる。人柱にされた娘の怨霊に違いない」と言い始めました。
天守がゆれる、女のすすり泣きなんてダブルパンチで怖すぎです。
盆踊りなんかやっている場合じゃないということで、以降このあたりでは盆踊りを踊らなくなったといわれています。
そもそも盆踊りはお盆に亡くなった人を迎えて供養する行事。犠牲になった娘だって帰ってきますよね。恨みと一緒に・・・。
また、別の言い伝えでは人柱にされたのは旅の虚無僧だったとも・・・。天守台下の石垣が何度も崩落して困っていたところ、吉晴の旧友という虚無僧が現れます。その虚無僧の指示で崩落部分を掘ったところ、矢の刺さったどくろが出現。これが崩落の原因かと供養しましたが、虚無僧は「これだけでは不十分。自分が人柱になるので息子を仕官させてほしい」と頼んで自ら人柱になったと伝えられています。
またはある虚無僧が奏でる尺八音があまりにも不気味なため捕えて人柱にしました。すると夜な夜な天守閣から尺八の音が響き渡るようになったといわれています。
この人柱伝説、怖い怖いだけでは終わりません。じつは祟り付き?というトリプルパンチ。城主の堀尾氏は跡継ぎがなく3代で断絶。その後に入った京極氏もやはり跡継ぎがなく一時廃絶と、不幸が続きます。まあ、こうなるとたいてい祟り!と噂が広まりますよね。
ところがこの怪奇伝説、意外な形で解決します。
次に松江藩主となった松平直政が、天守閣に登ると娘の亡霊とおぼしき美女が現れます。直政が「何者か」と問うと、「この城の主じゃ。この城は誰にも渡さない」との返事。そこで「コノシロ(この城)を与えよう」と言ってコノシロという魚を供えたところ、女が現われなくなったとか。あまりにもしょうもないオヤジギャグに亡霊もあきれ果てて姿を消したのでしょうか。
かなり恐怖をかきたてながら最後はオヤジギャグのオチ・・・。笑うに笑えませんよね。
月山富田城(島根県) 米子城(鳥取県)
盆踊りは若い娘が集まるからでしょうか。盆踊りと人柱の関わりは、松江城に近い尼子氏の月山富田城、米子城にも残されています。
米子城では盆踊りの輪の中からお久米という若い娘が連れ去られました。月山富田城では盆踊の輪の中に巫女の予言どおりの月の紋を染めた着物を着た娘がおり、人柱にされました。その時、娘の霊を慰めようと大太鼓をたたきましたが、翌年から同じ時期に月山から大太鼓の音が響くようになったとか・・・。
闇から響く太鼓の音。盆踊りがトラウマになりそうです。
丸岡城(福井県)
母の切ない気持ちがじわじわ伝わるのが丸岡城。柴田勝家の甥、勝豊が築城しました。この城の人柱になったのはお豊という片目が見えない貧しい女性。息子2人を侍に取り立ててもらう条件で自ら人柱になり、城は完成したのですが・・・。あろうことか勝豊はすぐ後に移封になり、この地を去ったため息子は侍に取り立てられませんでした。
お静の恨みが春雨になって流れ出し、堀の水を溢れさせたということです。人々は哀れに思って小さな墓を造って供養しました。
せめて約束は守りましょうよ。
長浜城(滋賀県)
女性のけなげさが涙を誘うのは豊臣秀吉の長浜城。
築城の命を受けた京極氏が人柱に立つ娘を探していた時、たまたま出会った漁師に娘が2人いると知ると、人柱に1人ほしいと頼みます。断れない漁師は盲目の妹娘の「しのぶ」はかわいそうだからお城のお役に立てるならと差し出すことにしました。漁師が娘にそれを打ち明けると、姉娘の「きく」が「私はしのぶより幸せな思いをしてきたので思い残すことはありません。私がいきます」と言って妹をかばい人柱になったそうです。
また、長浜城にはもうひとつ「おかね堀」伝説があります。これも長浜一の美女のおかねさんが人柱に選ばれました。彼女はけなげにも地域の繁栄を願い自ら命を捧げたのだとか。かつて城の北側にあった堀はおかね堀と呼ばれていたそうです。
女性のけなげさにつけこむのはひどいですよね。
日出城(大分県)
とはいえこれらの伝説はあまりにもムゴすぎます。城の人柱なんて本当にあったのでしょうか。これらの城跡から人柱とされた人骨が出てきた!というわけではないため、多くが伝説ともいわれています。
一方で、大分県の日出城(ひじじょう)では昭和35年の発掘でなんと人柱とおぼしき人骨が見つかりました。城跡から発見されたのは老武士の人骨で、人が入れる桶に人形などとともに入れられており、人柱にされたとみられています。
老武士というところが、いろんな意味で切ないかも。
とここまで聞けば悲しすぎて、いくら昔のこととはいえテンション下がりまくりですよね。
ここからはちょっとホッコリしてもらいましょう。
彦根城(滋賀県)
当時の人々も人柱に全く抵抗がなかったわけではないようです。そんなことしたくないというお殿様の方が多かったはず(と信じたい)。でも神様が関わることだけに「人柱不要」と殿様でさえ言えないわけです。
そこで知恵を絞りました。例えば井伊直継の彦根城。天守閣の工事がうまくいかず現場からは人柱を立てるべきと声が出始めます。直継が人柱をしたくないと悩んでいたところ、工事責任者である普請奉行の娘のお菊が人柱になると申し出ました。お殿様のお役に立ちたいというけなげなお菊の申し出に直継もしぶしぶこれを認めます。お菊は白木の箱に入り、埋められます。その後、工事は完成。普請奉行は娘のことを思うと立派な天守閣を見ても複雑な気持ちだったでしょう。
しばらくして普請奉行の前に娘が現れます。「父上、私のことは忘れて」とお菊が幽霊になって現れた・・・。
ではありません。なんと娘は生きて現れたのです。じつは直継が、埋める直前に空箱と取り替えて、工事の人々には人柱を埋めたとみせかけ娘を助け出していたのでした。
殿様、イキなはからいですね。しかしここで驚きの事実が判明しましたね。お殿様だって人柱、信じていなかったようです。
郡山城(広島県)
人を犠牲にする人柱なんて不要! と、ある意味、宣言したのが毛利元就の郡山城の「百万一心」伝説。
郡山築城に際して巡礼の娘が人柱に選ばれました。これに反対した元就は「百万一心」と刻んだ石を人の変わりに埋めたのです。これは一日一力一心の意味で、「みんなで力を合わせれば何でもできる」ということを表しています。お手本にしたい石ですが、この石、残念ながら見つかっていません。
江戸時代に長州藩士が城跡から石を発見して拓本のように写し取って帰りました。ところが後にこの石を町の人たちが探しましたが、見つかりませんでした。
逆の意味で都市伝説になっています・・・。
鳥取城 丹波亀山城(京都府)
人の代わりの人柱伝説が池田長吉の鳥取城にもあります。
二の丸の三階櫓の石垣にお左近(おさご)の手水鉢が埋め込まれています。お左近は池田家の侍女でした。美人で聡明。築城工事では自らはかま姿で現場を回り、人夫を励ましていました。彼女こそ人柱にふさわしいと考えた長吉は、難工事の三階櫓の石垣に彼女が愛用する手水鉢(手や口を洗い清める水を入れる鉢)を埋めて人柱の代わりにしたのです。工事は完成しました。今もそれらしきものを見ることができます。
丹波亀山城を築いた明智光秀が人の代わりに埋めたのは多くの石仏。これを石垣の内側に埋め込んだといわれています。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今でも建築前には地鎮祭を執り行うなど、建築と神様とは無縁とはいえません。そのため戦国時代には今以上に神様のご加護が信じられ人柱伝説が生まれたのでしょう。
でも、仁徳天皇の時代にもすでに身代わりを立てて工事を成功させています。戦国時代の人々も知恵を絞っていたと信じたいですよね。
ただ人を捧げるという究極の伝説が生まれるのも、それほど築城が大変な工事だったからなのでしょう。
城めぐりの際には美しい城にみとれる一方で、築城にまつわる物語に思いをはせてみてはいかがでしょうか。
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