戦国武将!ボーイズラブ秘聞 信玄、政宗から傾国の美童まで

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戦国時代、命のやり取りが激しい中で武将たちがひときわ熱く燃えたのがなんとボーイズラブ!

彼らは現代人もびっくりのドロドロ、メロメロのリア充のボーイズラブに熱い血潮をたぎらせていたようです!

ということで今回は、禁断?の戦国武将の男色にまつわる物語に足を踏み入れてみたいと思います。

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男色または衆道

ボーイズラブのことを男色(なんしょく)、または武士の男色を衆道といいました。

元々は中世の寺の僧と稚児との関係から始まったようですが、戦国時代の武将たちにとってはたしなみのようなもの。ごく一般に行なわれていました。

戦国時代の主君と家臣と言えば、ある意味、命をも共にするという深い結びつきがありました。戦場という男たちの世界の中で、常に側に侍る美しい小姓たちに心ときめくこともあったでしょう。

また、床を共にすることで君臣の絆を深めることもできたに違いありません。家臣側からすれば出世の糸口にもつながったと思います。

ただし、当時のボーイズラブは結構ドロドロで過激だったようです。だって武将ですもんね。今回はそんなお話を伝えていきたいと思います。

浮気を謝罪する手紙

まずはこの手紙、一体誰の手紙だと思います?

「一、弥七郎に言い寄ったけど腹痛ということで断られて思い通りにはなっていない。

一、昼夜とも弥七郎に夜伽をさせたことはないし、今夜もしていない」(超訳)

これはあの甲斐の虎と恐れられた武田信玄が、まだ晴信と呼ばれていた20代前半の若い頃に出した手紙。

宛先は年下の家臣・春日源助。そう、これは信玄がボーイズラブの相手の源助に出した手紙です。

源助は信玄がその美貌に魅かれて近習にして寵愛したという美少年でした。

そんな源助がいたにもかかわらず、信玄に弥七郎との浮気疑惑が発覚。それを知った源助が腹を立てたので、信玄が慌てて浮気してないよーと源助に出した弁明の手紙なんです。

手紙の内容は一言で言えば「一線はこえてませんー」と浮気を否定したもの。

そこ?「違うだろー。ふられただけじゃんか!」と思わず突っ込みたくなりますよね。

「一線はこえてません」は昔から常套句だったようです。

この手紙はまだ続きます。

「一、これに偽りがあれば当国の一二三大明神、富士、白山、八幡大菩薩、諏訪上下大明神の罰を受けるはずだから嘘じゃないよ」

と自分の国のありとあらゆる神様の名を出して神様が約束してくれると言い張ってます。神様も三角関係に巻き込まれてビックリかも。

トドメが「本当ならばちゃんとした起請文を書かないといけないが、今夜は人が多く無理なのでとりあえず略式の白紙に書いた。後日正式な手紙を出すからね!」

と、くどくどダメ押し。信玄様必死すぎですー。まるで恐妻にビビりまくったダンナ様の謝罪文のよう。

あの家康や信長も震え上がらせた虎の信玄が、家臣相手にその袖に取りすがるように

「ねえ許してよお。ちょっと気はあったけど一線は越えてないんだからー」

と平謝りだなんて想像するだけで笑ってしまいます!

しかも美少年の源助はのちにその武勇で知られた高坂弾正(こうさかだんじょう)ともいわれており、どうしてもイメージはイカツイ2人の世界・・・。

信玄といえば多くの妻妾がいましたが、男色は浮気には意外と厳しい?世界だったようです。

ただし信玄はこりてはいませんでした。男相手に次々と浮名を流したようです。

のちに信玄と関係のあった僧の教雅が回想しています。

信玄は浮気相手の彦五郎から教雅の悪口を吹きこまれ、教雅に冷たくあたるようになります。

教雅が信玄から去っていくと・・・。信玄は自分が冷たくしておきながらこのツンデレにブチギレ。なんと教雅を調伏、つまり呪い殺そうとしたのです。

この呪いの効き目はというと当の教雅はピンピン。

しかも

「信玄は65歳まで生きることができたんだけど、私にかけた呪いが自分に跳ね返って13年も寿命を縮めたのさ。哀れだね」

と述べています。

まさか信玄が進軍の途中で亡くなったのは恋の呪いが原因だった!?ことはないですよね。

伊達政宗の謝罪文

男色がらみのオイタは信玄だけではありません。伊達政宗もひと騒動起こしています。

こちらも浮気を謝罪する手紙を出していますが、なんと50代の老いらくの恋。

しかも孫ほど年の離れた小姓の作十郎の浮気を疑い、酒の席でののしります!

これに怒った作十郎が腕を切ってその血で潔白を訴えてきました。

この手紙を受け取った政宗は「すまない」と弁明する手紙を出す羽目に。

ところがこれがあの豪快な政宗らしくない何ともごにょごにょ言い訳がましい手紙なのです。

「お前にこんなことをさせて胸が痛む。すまない。お返しに指でも切ればよいのだが、年甲斐もないと言われそうだし。いや、やりたくないわけではないよ。私も昔は簡単にそういうことをしたので体中が傷だらけだ。でも今は時代も違うし。かといってこのままでは悪いので起請文を書いて血判押したのでこれで許しておくれ。これまで以上に仲良くしてくれ」(超訳)

愛にオロオロする乙女チックな政宗様に萌え―といえばそれまでですが、なんといっても50代ですから。

老獪さも垣間見えますよね(笑)。

自傷行為で愛を示すなんて男色激しすぎです。呪ったり傷つけたり、オカルトの世界まで登場して、ボーイズラブはある意味、戦場よりも怖い命がけの恋なんですね。

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傾国の美少年たち

でもまだ家の中でドロドロしたり、勝手に呪いをかけたりするのは可愛いほう。なんとこのボーイズラブがついには国を滅ぼした遠因となったという話も。傾国の美女ならぬ傾国の美少年です。

中国地方と東北地方、くしくも漢字一文字違いの2人の武将についてご紹介します。

大内義隆:Wikipediaより引用

山口県の守護大名大内義隆はイケメンの家臣、陶晴賢(すえはるかた)にメロメロ。

晴賢が領地に帰ってしまうと長距離恋愛?に恋は燃え上がり、2人は途中の寺でおちあって逢瀬を楽しんだことも。

やがて晴賢は大内家を支える武勇に優れた重臣になりました。

やがて出雲遠征に失敗した義隆は、戦いに嫌気が差したのか京都から招いた公卿たちと風流人気取り。しかも文治派でイエスマンの相良武任(さがらたけとう)を重用し始め、武功派の晴賢を遠ざけるようになりました。

武任と晴賢が義隆の寵を争ったという説もありますが、年齢を考えるとそれは?です。

しかし愛して忠誠をささげた義隆にそっぽを向かれた晴賢の心中は嫉妬の炎がメラメラ。

「あいつのせいだ!すべてあいつが義隆様を丸め込みやがって」

と武任を憎み、ついに愛も憎しみに変わる時が訪れます。

1551年に「俺を捨てるから悪いんだ!」何と反乱の兵を挙げ、義隆を自害に追い込むと武任も殺害します。つまり下剋上しちゃったわけです(ただし大内家の跡目は大内一族をすえましたが)。

その晴賢はのちに広島の毛利元就に敗れますが、元就の3男小早川隆景もじつは義隆に寵愛されていたとも。男色の三角関係が動かした裏日本史・・・だったのかもしれません。

一方で宮城県の大崎義隆。

こちらは義隆の2人の寵童、新井田隆景と伊庭野惣八郎が、寵を争ったのがきっかけで、家中を2つに分ける騒動に発展。

ついに隣国の伊達政宗に協力を仰ぐ者も現われ、政宗はチャンス!とばかり攻めてきました。こうして1588年に大崎合戦が始まります。

愛されていたはずの義隆は何と幽閉され、合戦の最中、渦中の惣八郎は隆景に殺されるなど三角関係がついにはバトルロワイヤルばりの殺し合いに。義隆は何とか政宗を押し戻しますが、この後もゴタゴタが収まらず、豊臣秀吉への参上が遅れてお家おとり潰し・・・。

「俺はただ愛しただけなのに」と義隆のボヤキが聞こえてきそうです。

男色に「平等の愛」という言葉はなさそうです。

信長、秀吉、家康

最後に、戦国時代の英雄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康はどうだったのでしょう。

ご存じの通り信長も多くのお気にボーイを抱えていました。

前田利家も幼名の犬千代から「犬」と呼ばれて可愛がられていた一人。また「お竹」と呼ばれた長谷川秀一など何人かの男色相手が知られています。

徳川家康は井伊直政が有名ですよね。20歳を過ぎても前髪を落とさせなかったとか。

直政を育てたのは女領主直虎様。「男も美貌は大切」とばかり、せっせと美にも気を配って育てたのかもしれません。

最後に気になるのが秀吉・・・。こちらは武士出身ではない上に大の女好きなので、女性一筋かと思いきや男色の噂もチラホラ。ただしこんな逸話もあります。

豊臣家に羽柴長吉というそれはそれは美しい美童が仕えていました。

ある時、秀吉がこの長吉を「ちょっと」と奥に呼び寄せます。

「これはもしかして」

「秀吉様も男色に目覚められたか!」

と家臣らは色めき立ちます。

しばらくして戻ってきた長吉に一同

「どうだった」

「言い寄られた?」

と興味深々。

長吉は涼しい顔をして

「お前に姉か妹はいるかと聞かれました」

えーそっちかーい。一同ズッコケたのは言うまでもありません。

秀吉はやっぱり秀吉だったようです。

いかがでしたでしょうか?

戦国武将たちは戦いの裏で、こんな激しい恋愛に身を焦がしていたとは驚きですね。

ボーイズラブは固い絆を生み出し、武将たちの思わぬ素顔が飛び出すこともあったようです。

甘美で激しい愛の先には・・・危険な落とし穴も。

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