九州を席巻した「肥前の熊」龍造寺隆信、猜疑心の強さが人心離れを招く

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戦のさなかに大将が首を取られた合戦は、桶狭間の戦いと沖田畷(おきたなわて)の戦いの2つしかないそうです。前者では今川義元、後者では龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が首を取られました。さてこの2人、輿に乗っていた(龍造寺は籠とも)ことと太っていたことが共通していましたが、圧倒的な兵力を持ちながら敗れたということが、最大の共通点でした。「肥前の熊」として恐れられていた龍造寺隆信は、いかにして敗れ去ったのでしょうか。その生涯を見ていきたいと思います。

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波乱と苦難の幼きころ

 

享禄2(1529)年、肥前(佐賀県)の龍造寺家に誕生しました。幼い頃は仏門に入っていましたが、曾祖父の龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)からは、「仏に帰依するなら高僧に、還俗すれば龍造寺の家を興す人物になる」と見込まれていたそうです。

 

ところが、隆信が17歳の時、お家を揺るがす事件が起きます。

祖父・家純(いえずみ)と父・周家(ちかいえ)が、謀反の疑いをかけられて主君の少弐冬尚(しょうにふゆひさ)の手の者によって誅殺されてしまったんです。疑いを晴らそうと申し開きに行く途中だったとも言われています。

 

このため、隆信は曾祖父・家兼と共に筑後(福岡県南部)の蒲池鑑盛(かまちあきもり)のもとに逃げ込むこととなりました。

そこで家兼は蒲池氏の力を借りて挙兵し、翌年に家純と周家の仇を打ってお家再興を成し遂げたんです。この時、家兼は93歳。どれだけスーパーおじいちゃんなのか。

 

お家再興を達成して力尽きた家兼は、自ら見込んだ曾孫の隆信に後事を託しました。まだこの時隆信は僧籍にありましたが、家兼の遺言によって還俗したんです。その直後に本家の当主が没したため、隆信はその未亡人と結婚してまんまと本家当主の座に収まったのでした。

 

ゴッドマザー慶誾尼と義兄弟・鍋島直茂のヘルプ

このようにして龍造寺本家を継いだ隆信ですが、この相続の仕方に不満を抱く分子も存在しました。そこで彼は対抗勢力を抑えるために中国地方の実力者・大内義隆(おおうちよしたか)の力を借りますが、この義隆が部下の陶晴賢の謀反によって倒れてしまいます。そのため、不満分子が挙兵し、隆信は城を追われて再度蒲池氏のもとへ逃げ込む羽目となったのでした。

 

ただ、またもや蒲池氏の援護によって帰還を果たし、ここからじわじわと勢力拡大を図っていきます。

大友宗麟:Wikipediaより引用

それでも、黙っていなかったのが豊後(大分県)の雄・大友宗麟。大友の軍勢によって隆信は包囲され、窮地に追い込まれてしまったのでした。

 

ここで、家臣の鍋島直茂(なべしまなおしげ/この時はまだ信生/なおなり)が夜襲を提案します。

鍋島直茂:Wikipediaより引用

しかし慎重な意見も多く、なかなかまとまりません。

そこで皆を一喝したのが、隆信の実母・慶誾尼(けいぎんに)。「なにをぐずぐずしておる!

」とでも言ったのか、これで奇襲作戦が決定され、結果的に大成功を収めたのでした。

 

実はこの慶誾尼が、すごいゴッドマザーなんですよ。

隆信の父はとっくに殺されていたので未亡人だったんですが、隆信が家督を継ぐと、重臣格だった鍋島清房(なべしまきよふさ)と息子の直茂の力こそ必要だと考えた彼女は、なんと清房の押しかけ女房になっちゃったんです。こうして、隆信と直茂は義兄弟となり、鍋島氏は龍造寺氏と固く結びつくこととなったわけなんですよ。

 

こんな母や義理の弟の助けも得た隆信は、天正6(1578)年はついに肥前統一を成し遂げたのでした。一方、大友宗麟は同じ年に耳川の戦いで島津氏に大敗して没落し、隆信にとっては追い風吹きまくりだったので、この後彼はさらに勢力を拡大していったんです。

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猜疑心の強さが人心を離れさせる

 

イケイケドンドンな時はいいんですが、ある程度力をつけてそれを守らなければならなくなるど、人間の真の姿が出てきてしまうもの。

 

若かりし頃に祖父や父を謀殺されたり、不満分子に城を追われたりした経験のある隆信は、周りをまず疑ってかかるような部分があったみたいですよ。それが表面化してきてしまったのですから、いけません。

 

以前助けてくれた蒲池鑑盛の息子・鎮漣(しげなみ)に対して、隆信はひどい仕打ちをしたんです。

鎮漣が島津方に接近する動きを見せたとして、隆信は排除を考えます。そこで、宴席にしつこく誘い、鎮漣が断り切れず出向いてきたところを殺害してしまいました。しかも蒲池一族を抹殺してしまい、鎮漣の妻となっていた隆信の娘は自害してしまうという悲劇が起こってしまったんですよ。

 

この非道ぶりには家臣たちもショックを受けました。龍造寺四天王のひとりで、後に隆信を守って戦死した忠義の臣・百武賢兼(ひゃくたけともかね)でさえ、妻に「今回のことはお家を滅ぼすことになるだろう」と涙し、出陣しなかったほどでした。

 

また、側近であり義理の弟として近しい存在だった鍋島直茂のことも、彼がたびたび諫言をするので疎んじるようになり、蒲池氏を誅殺した後の筑後・柳川城に封じて遠ざけてしまったんです。

肥前を統一し、破竹の快進撃を見せてきた隆信ですが、徐々に酒色に溺れ、疑った家臣をあっさり殺害するなど暴君化していったのでした。これでは、心が離れていく者もいますよね…。

 

運命の沖田畷の戦い

さて、この頃の九州地方ですさまじい勢いをつけてきたのが、ご存知島津氏です。耳川の戦いで大友宗麟を破り、その実力は本物だと周辺豪族たちに示していました。

 

そんな島津氏が、隆信との領地を接する肥後へと侵攻してきたんです。

一度は和睦を結びますが、天正12(1584)年、龍造寺に臣従していた有馬晴信(ありまはるのぶ)が裏切りました。おそらく、隆信が蒲池一族を誅殺したことも影響していたはず。実際、隆信に人質として差し出した子供たちを殺害された武将が、島津方に参戦していました。

 

そこで隆信は2万5千の大軍を率いて出撃します。対する有馬軍と援軍の島津軍は、合わせても6千ほど。

圧倒的な兵力差に、隆信は楽観してハナから勝った気でいました。この間にも、鍋島直茂が「島津は油断ならない相手ですぞ」と意見したんですが、傲慢になっていた隆信はその言葉を聞き入れなかったんです。

 

しかし、兵力差はあっても、相手は島津。その大将は島津家久(しまづいえひさ)、島津四兄弟の末弟で、次兄の義弘(よしひろ)に匹敵するほどの知謀の将でした。

 

家久は戦場を沖田畷に定めました。

畷とは、湿地の中の細い道のこと。ここで島津方は負けたふりをして退却し、ぬかるんだ場所に隆信の大軍を誘い入れ、片っ端から矢と鉄砲を撃ち込んだのでした。

これでは、大軍といえどもどうすることもできません。身動きの取れなくなった龍造寺の兵たちはばたばたと倒れ、総崩れとなってしまいました。

 

隆信の最期

この頃の隆信は、不摂生から肥満体だったとも言われています。そのため、輿(籠とも)に乗っていたそうなんですよ。桶狭間で討ち取られた今川義元は輿に乗っていましたが、これは将軍家から許可を得て乗っていたいわば名誉の輿だったわけで、隆信の場合は馬に乗れないから輿(もしくは籠)に乗っていたとも考えられます。

 

彼の最期については様々な説がありますが、一説には、担ぎ手がみな逃げ出してしまい、取り残された隆信が敵方に討ち取られたとも言われていますね。その際、隆信は念仏を唱えながら這いずり回ったという説もあるんです。だとすれば、「肥前の熊」と恐れられた武将としてはとても残念な死にざまだったわけですが…。

 

その一方で、敵と禅問答のようなやり取りを交わして、堂々と首を取られたという話もあります。どちらが本当だったのか…皆さんはどう思いますか?

 

さて、隆信亡き後の龍造寺氏は、鍋島氏に取って代わられます。直茂がほぼ実権を握り、隆信の孫・高房(たかふさ)を最後に、江戸初期には佐賀鍋島藩が成立することとなったのでした。

 

まとめ

  1. 祖父と父が殺され、幼い頃は苦難の連続だった
  2. 龍造寺の当主となり、母や義弟・鍋島直茂に助けられ勢力を拡大した
  3. 猜疑心が強く家臣を謀殺したため、人心が離れていった
  4. 沖田畷の戦いで、圧倒的兵力差ながら敗れた
  5. その最期の様子については様々な説がある

 

武将は強いだけじゃダメなんだと、龍造寺隆信を見ていると強く感じます。

 

疑り深いのはやっぱりまずいですよね。かといって疑わなさすぎもまずいですが…戦国武将って大変だと思わされました。

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