太閤様の天下城、大阪城落城にまつわる物語

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あっぱれ天下の名城大阪城。この城に籠れば天下を取れると多くの武将が望んだ城。ですがこの城は悲劇の城でもありました。

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秀吉の死去

堅牢堅守を誇った大阪城も、やがては落城の時を迎えます。

その発端は、しっかりした身内による後継体制を作れぬまま秀吉が亡くなった時から、すでに始まっていたのです。

慶長3年(1598年)、臨終の床にあった秀吉の枕元に呼び集められた五大老、徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家。

その筆頭家康を拝まんばかりにして「秀頼のこと、返す返すも頼み申し候」と繰り返す秀吉。

卑しき身分から天下人にまで上り詰めた人の、残していくまだ年若い子を思いやる姿に、一片の憐憫の情が家康に無かったとは言えないでしょう。

の後の家康

それは西軍が敗れ、豊臣の力が大きく削がれた関ヶ原合戦の後、家康の取った行動にも表れています。

徳川秀忠の娘、自身にとっては孫娘に当たる千姫の大阪への輿入れです。

徳川の女子を秀頼と娶わせ、まだまだ力弱な秀頼の後見役を果たして欲しいとの、秀吉の思いに答えるものです。

秀頼、千姫の間に男子が生まれれば、豊臣の跡取りとして上々、女子であれば徳川に嫁がせ、両家の間柄をより緊密なものとしていく、秀吉の願いでもあり思惑でもあったでしょう。

双方の母である淀殿と秀忠の室江与の方は、あのお市の方を母に持つ実の姉妹でもありました。

ですがこの策は、徳川の血筋を豊臣に取り込むものです。

「主」と「従」がいつひっくり返るか、分かったものではありません。

まして二極体性と言うのは、いつの世どこの国でも不安定なものです。

しかし家臣が主君の寝首を掻き、親が子を滅ぼす戦国の世。秀吉には一片の誓紙などよりは、婚姻関係を結ぶ方が、確かなものに思えたのでしょうか。

或いは家康の心根を危ぶみつつも、ほかに縋るものが無かったのでしょう。

二重公儀制の破綻

しばらくは豊臣、徳川双方の関係は良好でした。しかし当然のごとくやがて破綻を迎えます。

豊臣家にすれば家康の心情に不安を覚えつつも、秀頼の成長を待つしかなかったでしょう、しかし家康は違います。

秀吉と言う求心力を失くした後の豊臣家の状況を見れば、自分が死んだ後のことを考えざるを得ません。

自分には秀忠と言う跡継ぎが居ます。

しかし朝廷での官位は右大臣である秀頼の方が、内大臣の秀忠よりも上です。

そして秀忠は関ヶ原の合戦で、参陣に後れを取る失態を犯しています。

加えて秀頼の側には、加藤清正、福島正則、浅野幸長など、豊臣家に恩顧を感じる武将が付いています。

今は家康がいるからこそ、彼らも徳川家に臣礼を取っていますが、自分が居なくなればどうなるか、分かったものではありません。

まして島津、毛利、上杉、佐竹などの関ヶ原負け組の諸大名は、徳川に対する復讐戦、また失った領地を回復する好機とばかり、押し寄せて来るでしょう。

気が付けば家康自身が、かつての秀吉と同じ立場に立たされていたのです。

「豊臣家は儂の代で潰しておかねばならぬ」決意した家康の行動は早いものでした。

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落城

豊臣期大阪図屏風に描かれた大阪城と城下の賑わい。:Wikipediaより引用

慶長16年(1611年)の二条城での家康、秀頼の会見から、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣までの間に、両家の間に何が有ったのか。

豊臣方の痛切な損失は、加藤清正、浅野幸長の忠誠心厚い二臣を失ったことです。

二人とも病死ではありましたが、いかにも時期が悪い。

その他にも浅野長政、池田輝政、前田利長などが相次いで没して行きました。

そして方広寺鐘銘事件と、それにかこつけた片桐且元追い落とし事件です。

巧妙に大阪方に揺さぶりをかけ、やがて迎えた大阪冬の陣、夏の陣。

堀を埋められ防備の要を失い、難攻不落と謳われた大阪城は、炎の中に落城しました。

山里曲輪の土蔵に身を潜めていた秀頼、淀殿親子も自害して果て、大野治長、真田幸昌、大蔵卿局ら30名が殉じました。

川大阪城

元和期の大坂城天守:Wikipediaより引用

こうして慶長20年(1615年)5月7日、豊臣大阪城は灰燼に帰し、その跡地に徳川大阪城が築かれます。

元の城は地中深く埋められ、北国、西国の大名64家が動員された「天下普請」は、石垣の高さ、個々の石の大きさなどで豊臣大阪城を上回る城を作り上げ、世人に徳川の威力を見せつけ、豊臣の世が終わったことを知らしめました。

しかし信じて後を託した家康に、見事に裏切られた豊臣側の怨念は、容易に静まりません。やがて城のここかしこで怪異の噂が囁かれ始めます。

徳川大阪城の体制

徳川大阪城は、江戸幕府の西日本支配の拠点として位置づけられ、その最高位の大阪城代には、譜代大名が家族、家臣ともども着任しました。

副城代の定番(じょうばん)は、同じく二人の譜代大名が勤めます。

旗本衆で構成される幕府正規軍の大番(おおばん)も、12組の内2組が城内に常駐し、加勢としての加番(かばん)には、譜代大名4人が家臣を引き連れて着任しました。

西国の変事に対応するために、大阪城には常にこれだけの兵力が常駐していたのです。

その他にも船手(水軍)あり、東西の町奉行所あり、三ヶ所に置かれた代官所、諸藩の大阪屋敷と、大阪の街には結構な人数の武士が住んでいました。

その武士たちを脅かしたのが、大阪城に巣食う妖しの者たちです。

徨う淀殿

淀殿:Wikipediaより引用

まずは淀殿の亡霊が城のあちこちをさ迷い歩くと言う噂が立ちます。

煌びやかな打掛を身にまとい、侍女も連れずに、一人で地を滑るように歩んで行く淀殿。

「あれ、淀君様が」などと声を上げようものなら、フッとかき消すように居なくなってしまいます。

実は豊臣家存続の最後の奇策として、淀殿と家康の婚儀を、秀吉が思いついたと言う話が有るのです。

淀殿の息子の秀頼は、家康の孫の千姫を娶っています。

家康の以前の正室は秀吉の妹の旭姫でした。

また家康の嫡男であり、その跡取りの秀忠の正室は、淀殿の妹の江姫です。

なんか二重三重に婚姻関係を作って、家康をがんじがらめにする作戦ですかねぇ。

確かに淀殿は、秀吉没後も髪をおろしませんでした。

これは当時の風習では、その女性が再婚の意思が有る証拠だったのです。

しかし淀殿は首を縦に振りませんでしたので、この婚儀は実現しませんでした。

ですが秀吉との約定を破り、一度は夫にとすすめられた相手に城を滅ぼされ、嫁の千姫は秀頼と共に自害することも無く、最後の最後に城を脱出した。

淀殿からすれば「憎や、徳川」だったのでしょう。

秀頼様も

豊臣秀頼:Wikipediaより引用

もちろん秀頼様も出没なさいます。

こちらは西大番頭(にしおおばんがしら)の屋敷に現れます。

「花のようなる秀頼様」などと謳われた方ですが、身長が高かったのは事実のようです。

ただ体型ですが、細身の公達の様な風情とも、単なる大兵肥満だったとも言います。

その秀頼様が率いられたのでしょうか、豊臣方将兵の妄執も炎となって城内を漂います。

特に本丸南側の空堀では、夜な夜な多くの兵士の罵りあう声や、馬のいななきが響き渡りました。

その他豊臣贔屓のあやかし

お狐様も豊臣贔屓だったのでしょうか、馬のように巨大な狐の妖怪が大口開けて、一息に喰らってやろうと襲い掛かって来ます。

これは京橋口定番の戸田忠囿(とだただその)が、自身も瀕死の重傷を負いながらも退けましたが、その場所は江戸時代を通じて空き屋敷として放置されました。

江戸名所絵図にも「化け物屋敷」「妖化屋敷(ようげやしき)」として、名所扱いで表記されています。

その他にも夜中に雪隠(せっちん、トイレのこと)の扉を開けると、禿姿(かむろすがた)の小さな女の子が、こちらを恨めし気に睨んでいる“禿雪隠”。

うっかりその畳の上に床を敷いて寝ると、銀髪を振り乱した夜叉のような老婆が襲い掛かって来る、“婆々畳(ばばあだたみ)”。

巨大な山伏の妖怪が出る“誰も寝ざる寝所”など、豊臣家にゆかりが有るのか無いのかわからぬようなあやしの者どもが、徳川の武士たちをおびやかしました。

秀吉の死の床からの願いを裏切って、溺愛した息子秀頼と愛妾淀殿を炎の中に葬り去り、天下を奪った徳川家。

戦国の世の習いとは言え、心の中の後ろめたさが、あやかしたちを呼び寄せたのでしょうか。

 
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