戦国武将の兄弟対決! 信長、政宗、義元・・・

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戦国武将の兄弟対決!

信長、政宗、義元・・・

現代では兄弟仲よく!は当たり前ですが、戦国時代、兄弟は一番の身内ながら取って代わる可能性のある最大のライバルでもありました。

まさに兄弟は他人の始まり。

実際に数々の骨肉の争いが繰り広げられてきました。

敗れた方に待ち受けるのは死! 当主になるか、敗れて死ぬか!まさに仁義なき戦いです。

今回はそんな有名武将たちの兄弟対決を見ていきたいと思います。

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織田信長

斉藤義龍

大友宗麟

伊達政宗

毛利元就

今川義元

上杉謙信

 

織田信長(兄)VS織田信行(信勝)(弟)尾張

 

TPOもわきまえないヤンチャでうつけの兄と折り目正しく聡明な弟。これは誰が見ても弟を信頼しますよね。戦国時代、間抜けな当主についていけばその先にあるのは破滅・・・なので、聡明な若君に期待が集まります。それが奇天烈な格好をしてうつけと呼ばれた織田信長と折り目正しい信行兄弟。母も2人の子を見比べて、「こりゃだめだ」と兄を見放し、弟を支持しているくらいなので家来はおしてしるべしです。

ただ一人兄弟の父信秀は信長が本当のうつけではないと見抜いて信長を跡目に決めて亡くなりましたが、父の葬儀で暴れるなど信長のうつけぶりはひどくなるばかり。

家中では信行を推す声が高まり、信行もその気になったのでしょう。1556年に信長の岳父で後ろ盾でもあった斉藤道三が敗死したのをきっかけに、信行は家来の林秀貞や柴田勝家らとはかり、信長に戦いを挑みます。これが稲生の戦いです。ところがここで意外なことが起こりました。戦力数としては信行方が有利でしたが、勝利したのは巧みな采配が光った信長方。信行は城に籠城しもはや切腹と追い詰められましたが、母のとりなしで赦免されました。

このとき、なんと信長は謀反を起こした弟を一度許しています。これで弟が改心すればよかったのですが、なんとこの信行、再び反旗を翻します。しかしこのころになると、「あれ?信長はただのうつけじゃなくね」と信長の力量に目をとめる人々も増えていました。その一人である勝家が信長に謀反計画を密告。

すると信長は自らが病気になったと偽り、信行を呼び出します。まさか計画がばれていないと油断した信行がのこのことお見舞いに出向きますが、信長の家臣に暗殺されました。

 

しかもこれと前後して信長の庶兄の信広も美濃の斉藤義龍と組んで謀反を企みます。信長が義龍と戦うために出撃した隙に、清洲城を乗っ取るという計画でしたが、事前に信長にばれて失敗。ところが信長はこの信広も許しています。

もう、あっちもこっちも!ともぐらたたき状態ですが、これだけ裏切られても信長は兄弟を信用していたのでしょうか。妹お市の夫となった義弟の浅井長政を信用して裏切られています。

 

 

斉藤義龍(兄)VS孫四郎、喜平次(弟)美濃

斎藤義龍:Wikipediaより引用

その信長のライバルともいうべき美濃国の斉藤義龍はもっとエゲツナイですよ。というのも弟を殺し、父と戦って殺害に追い込んでいます。

義龍の父道三は、下克上で戦国大名になった梟雄ですが、家族内でも下克上を起こそうとしたようです。

道三は長男の義龍に家督を譲ったものの、義龍のことを侮り、溺愛する息子の孫四郎を当主にしようと画策し始めます。

それを察知した義龍は下克上返し。孫四郎、喜平次という2人の弟を呼び出してだまし討ち。

そして父の道三に対して宣戦布告すると、父を討ち果たしました。

義龍からしてみれば、婿の信長に美濃を譲ると言ったり、自分を廃嫡にしかけたりする父はもはや敵。

「どこまで俺をコケにしくされば気がすむんじゃ」

とキレたのでしょう。

 

 

大友宗麟(兄)VS塩市丸(弟)豊後

大友宗麟:Wikipediaより引用

親子、兄弟ながらやらなければ殺される!こちらも仁義なき戦いの末、当主の座を勝ち取りました。

大友宗麟は義鑑(よしあき)の嫡男でした。しかし義鑑は、側室の産んだ溺愛する3男の塩市丸に家督を譲ろうと企み、側室とはかり宗麟派の家臣たちを殺害します。

これを知った他の宗麟派家臣たちが反撃に出ます。

義鑑の館を急襲し、塩市丸とその母を殺害し、義鑑に瀕死の重傷を負わせたのです。

義鑑は2日後に亡くなりましたが、宗麟に跡を継ぐように言い残したとも。

この二階崩れの変に宗麟がどこまで関与していたのか不明ですが、無関係とはいえないでしょう。

塩市丸は子供だったと思われますが、父に溺愛されたばかりに・・・。愛されすぎた男の悲劇です。

 

伊達政宗(兄)VS小次郎(弟)奥州

「頑張っただけなのに」と思わず嘆きが聞こえそうなのが伊達政宗です。

頑張った代償が母に嫌われて殺されかけ、弟を殺す羽目になるとは何とも不幸です。

政宗と小次郎の同母兄弟。

こちらは織田信長より母のえこひいきがすごいですよ。

母の義姫は弟の小次郎を溺愛し、政宗を引きずりおろそうと画策します。それでも父の輝宗は政宗に家督を譲りました。

この輝宗も亡くなった後、政宗は頑張って奥州を席巻していくのですが、どうやらこの頑張りも母の不興をかったようです。

政宗が親戚筋をどんどん攻めるのも義姫は面白くなかったよう。

おまけに豊臣秀吉が「戦いストップ」と宣言しても無視して戦いを進めたので、このままでは伊達家が危ない!とも思ったのかもしれません。

ついに政宗に毒を盛ります。政宗は解毒剤を服用して事なきを得ましたが、禍根を断つためにやむなく弟の小次郎を成敗したとされています。

小次郎がどこまで野心をもっていたかは分かりませんが、こちらも愛されすぎた男はつらいよ・・・です。

 

 

ここまでは本来であれば嫡男ですんなり家督相続できるはずが、父や兄弟からチョッカイを出されて争う羽目になった兄弟たちでした。ここからは途中で当主に抜擢されたためもめた兄弟です。

 

毛利元就(兄)VS相合元綱(弟)安芸

毛利元就:Wikipediaより引用

中国の大大名になった毛利元就ですが、元就が生まれた時の毛利家は小さな国人領主。

しかも元就は次男で、毛利家を継ぐ立場ではありませんでした。父亡き後、同母兄の興元が跡を継いでおり、元就は毛利分家の多治比猿掛城主として生きていく運命でした。

ところがこの兄が若死にし、その子の幸松丸もわずか9歳で夭折してしまいます。

ここで跡を継ぐのは正室の子であり、幸松丸の後見もして家中の信望もあつい元就と思った矢先、ちょっと待った!と割り込んできたのが異母弟の相合(あいおう)元綱。

家臣の中には元就の相続に不満を持つ者もいたようです。しかも厄介なことにこの元綱を裏で後押ししていたのが、出雲の大大名尼子家。吹けば飛ぶような毛利家(失礼)を操ろうと画策していたようです。

元綱らは元就の暗殺を企みますが、これを知った元就は機先を制して元綱を襲撃。自らが当主につきました。

しかし家中を二分する騒動は元就のトラウマとなったのでしょう。

3人の息子たちには、3本の矢のごとく団結して毛利家を盛り立てるようにとくどいほど諭しています。

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今川義元(弟)VS玄広 恵探(兄)駿河

今川義元:Wikipediaより引用

今川義元も同母兄が家督を継いでおり、当主になる立場ではありませんでした。

そのため家督争いを防ぐためか若い頃、僧籍に入れられています。

ところがこの兄、さらに次兄も立て続けに亡くなったため、今川家を取り仕切る母の桂寿尼が義元を呼び戻し当主につけようとします。

やはりちょっと待った!といって割り込んできたのが異母兄の玄広 恵探(げんこうえたん)でした。

彼もやはり出家していましたが、義元擁立に反対する家臣や母の一族の今川重臣の福島氏と結んで反旗を翻します。これが花倉の乱です。

義元側は師僧の太原雪斎(たいげんせっさい)の活躍や後北条氏の支援も得て勝利をあげ、花倉城にこもった玄広 恵探を自刃に追い込みました。

 

 

上杉謙信(弟)VS晴景(兄)越後

上杉謙信:Wikipediaより引用

残念な兄と優秀すぎる弟。この組み合わせも騒動のもとです。意外にも上杉謙信は兄を追い出す形で当主になっています。

謙信は兄の晴景とは20以上年が離れていました。そのため6歳のころには兄の晴景が家督を継ぎ、謙信は仏門に入ります。

ところが越後が不穏な状況のため謙信は還俗させられ武将の道に。初陣では見事な才覚で謀反を鎮圧させます。

その後も兄に代わって反乱を次々と降したため謙信の名声は高まりました。

一方の晴景は病弱で越後の内紛を治める才覚がなかったこともあり、国人の間では晴景より謙信に当主になってもらいたいという気運が高まります。

国人たちが晴景と謙信に分かれて味方に付き、国を二分する争いに。

守護上杉氏の調停もあり、晴景は引退し、19歳の謙信が春日山城主になりました。じつは晴景が謙信を何度か攻め、晴景は敗れて殺されたという説もあります。

この戦いがあったのかどうか明らかではないようですが、いずれにしろ義の人謙信のスタートは、兄から家督をのっとっちゃったという意外な顛末でした。

 

と、ここまで聞くと、兄弟げんかの嫌な話ばかりですよね。良い兄弟はいないの?と言いたくなるのでしょうが大丈夫、戦国時代だって兄弟愛が光る話があります。

豊臣秀吉

兄弟仲の良さでいえばダントツは豊臣秀吉と弟の秀長でしょう。

秀吉も篤実で家臣のまとめ役の弟がいたからこそ天下取りができたと言っても過言ではないほど。

秀長は武将としても優れ、ぴったり息の合った兄弟コンビでした。秀長が亡くなってから秀吉政権がおかしくなかったとも言われています。

ただしこの2人が他の兄弟たちと違うのは元々武将の家の生まれではないということ。

秀長はいわば兄に召し抱えられ、その天下取りを手助けした立場なので、兄に成り変わる立場ではありませんでした。

武田信玄

武将の家の麗しき兄弟愛と言えばやはり武田信玄とその弟の信繁でしょう。

信繁はつねに兄を立てその片腕として戦い、外交、内政でも活躍しました。

この兄弟がすごいのは、父の信虎が信玄に変えて信繁に家督を譲ろうとしていたこと。そう一歩間違えれば斉藤家や大友家と同じ仁義なき戦いが勃発していたのです。

ところがここで信玄は父を追放して当主の座に着き、弟の信繁を生涯にわたって片腕として信頼します。

別に信玄が優しい人というわけではないですよ。

何せ自分の息子でも切腹に追い込んだ人ですから。

 

兄弟仲がうまくいったのは、信繁が初めから兄の味方についていたからでしょう。

若いのに父におだてられてもその気にならなかった信繁は大人ですねえ(笑)。

そんな弟の忠誠心を受け止める度量も信玄にもありました。どちらも当時二十歳前後でしたが、なかなか大人の兄弟ですよね。

武田信繁:Wikipediaより引用

そうはいっても弟の苦労もあったようで、家来や子どもには自分はあくまで武田家臣であることを強調し、その家訓まで残しています。

また、兄の身代わりとなる形で戦死しました。いくら仲が良いとはいえ、讒言する家臣もいるので気をつけていたのでしょう。

 

ただ武田家の場合、じつは信玄の祖父信縄(のぶつな)の時代に兄弟内乱で痛い目にあっていました。

信玄の祖父信縄(のぶつな)は嫡男のため家督を譲り受けました。

ところがその父が、溺愛する次男を跡目に変えようと画策したため内乱に発展。

しかもそれが信縄の子、信虎(信玄の父)の時代まで続いたため武田家の勢力は大幅に弱まりました。

信玄もそんな苦い過去を聞いていたでしょうから、その二の舞はしたくなかったでしょう。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

戦国時代は必ずしも長子相続ではなく、また無能な当主では家の存続も危ぶまれたため骨肉の争いに発展する可能性が多かったようです。

そんな事情の中では最初の敵は兄弟と思う武将も多かったでしょうし、自分にその気はなくても親や周囲の家臣たちにかつがれて争いに発展することもありました。

まさに身内にも敵が多い戦国サバイバル。生き抜くのは大変なようです。

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