紀州雑賀衆前編 戦国の世を駆け抜けた粋なお兄さんたち

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雑賀の地

「さいか」、「さいが」とも言いますが、紀伊の国北西部の紀ノ川河口一帯、三里四方の土地を指す地名です(現在の和歌山市、海南市にまたがる地域です)。

戦国時代ここには雑賀荘(さいかのしょう)、中郷(なかつごう)、十ヶ郷(じっかごう)、南郷(なんごう)、宮郷(みやごう)の五つの荘郷があり、7万程の人間が住んでいました。

 

この住人たちは雑賀五組・雑賀五搦(ごからみ)と呼ばれ、戦国時代、地縁で結ばれた強力な戦闘集団として知られていました。

中でも兵力・財力ともに最強を誇ったのは雑賀荘で、全雑賀衆動員兵力1万のうち過半数を占めていました。

ここの頭領が地侍の鈴木佐太夫(さだゆう)で、和歌の浦妙見山に館を築き、所領は七万石とそこそこのもの。

 

では雑賀衆全部が佐太夫の命令で動いたのかと言うとそうでもなく、各郷にはそれぞれ統率者が居り、これに新義真言宗、根来寺対本願寺派浄土真宗の勢力争いも絡んで、なかなか一枚岩とは行かなかったのです。

しばしば敵味方に分かれて戦ってもいます。

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種子島

雑賀衆の生業は田畑を耕すとともに、紀伊の国と河内の国の守護大名畠山氏に雇われての、傭兵集団でもありました。

傭兵として実戦を重ねる中で、彼らの力は次第に強力なものになって行きます。

紀ノ川の河口には紀伊湊と言う良港があり、彼らは水軍も組織していましたが、盛んに交易も行っていました。

 

当時紀州は、他に抜きんでた大型船の造船技術を持っていました。

雑賀衆は、背後に控える紀伊山地の豊富な木材で、三百石積みや五百石積みの大型交易船を巧みに造り上げます。

 

陸上での馬を使っての運搬と違い、船を使えば一気に何千貫(1貫は約4kg)もの荷物を運べます。

商品は離れた土地へ運ぶほど価値が増すもの。百里(約400km)を運べば3、4倍の値が付きます。

 

雑賀衆は利を求めて黒潮に乗り、遠く種子島まで漕ぎ出して行きました。

当時の種子島は南蛮貿易の拠点で、舶来の珍奇な品が手に入ります。仕入れて来た珍品を国内で売り捌き、彼らは莫大な富を手に入れました。

 

天文12年(1543年)商品の仕入れにやって来た一人の雑賀衆が、その後の雑賀の運命を変える品物と出会いました。

漂着したポルトガル船の積み荷で “アルカブース”と呼ばれる珍しい武器です。

 

これこそ日本に初めて伝来した「火縄銃」で、持ち帰ったのは津田監物(つだけんもつ)と言う男。

彼は持ち帰った銃を手本に、雑賀の刀鍛冶に、実践向きの銃身の長い銃を作らせました。

優れた技術を持つ刀鍛冶は、ほどなく精巧な銃を作り始めます。

この武器こそ雑賀衆を日本一の傭兵軍団に仕立て上げたもので、これ以後日本の戦が変わりました。

 

根来衆

雑賀の荘の近くに根来があります。

当時雑賀衆と共に、強力な兵器である鉄砲を自在に扱える能力を持っていた集団は“根来衆”だけでした。

根来衆に関してポルトガル、イエズス会司祭ルイス・フロイスの記録が残っています。

 

『根来の坊主らは、日本の他の宗派とは全く違っている。彼らは坊主であるが絶えず戦いを行い、毎日矢を作る定めがある。衣服は俗人の兵士と同じで、銭が有るので絹の着物を着て、剣と短剣には金の装飾を施している。髪は剃らずに長く伸ばし、背中で結んでいる。戦闘能力に優れ、特に銃の射撃と弓術を好む。日本の諸侯が都の付近で戦う時は、この坊主らを銭で雇う。住居と寺院は他の宗派より立派で、坊主の数は8,000から1万も居る』

 

実は鉄砲を先に手に入れたのは根来衆が先で、それが雑賀に渡ったのではないかとの説もあります。

いずれにしても、お坊様にあるまじき強力な戦闘集団でした。

 

鉄砲を操る傭兵の誕生

銃を手に入れた雑賀衆はその扱いの習熟に励み、効果的な戦法も考えます。黒色火薬は硝石・硫黄・木炭の粉を混ぜ合わせて作りますが、季節によりその調合比率も変えねばなりません。(初期の頃硝石は輸入品に頼っていましたが、海外との貿易ルートを持つ雑賀衆は手に入れやすかったのです。)

 

初期の鉄砲は命中精度も低く、速射性に乏しいものでした。

この欠点を補うために数人で組を作り、弾込め役と射撃役に分かれ何挺もの鉄砲を使いまわして、早撃ちを可能にしました。

この方法は後の軍学書で「烏渡しの法」とか「取次」などの名前が与えられます。

 

訓練を重ねる中で、名手として知られる者も出てきました。

『蛍・小雀・下針(さげはり)・鶴頭(つるのくび)・発中(はっちゅう)・但中(ただなか)・無二』

彼らに付けられたあだ名ですが、小さな的も外さない、必中の技術を持つ事を表しています。

雑賀孫一:Wikipediaより引用

特に鈴木佐太夫の末息子孫一(雑賀孫一)は手練れとして知られ、雑賀の里でも100人は居ない「焙烙火矢(ほうろくかや)」の技を持っていました。

これは銅で作った玉の中に火薬と鉛玉を詰め、布で包み漆を塗ります。

これを竹の先に付け銃に差し込み発射し、敵兵の頭上に撃ち上げ、反転して落下させ炸裂させます。

殺傷能力の高い強力な武器だったそうです。

 

元々戦闘能力の高かった雑賀衆が鉄砲を手に入れたのですから、まさに鬼に金棒。雑賀衆と根来衆は、日本最強の鉄砲傭兵軍団となって行きました。

 

鉄砲を使った戦は、槍・弓・刀の戦とは桁違いの損害を相手に与えます。

この頃になると、雑賀衆・根来衆の持つ鉄砲は1万挺を超え、彼らを味方につけられるかどうかで戦況が大きく変わるようになりました。

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本願寺との結びつき

鉄砲を手に入れ、日本最強の傭兵軍団になった雑賀衆ですが、鉄砲を手にする以前から彼らの傭兵活動は行われていました。

記録に残るところでは、浄土真宗本願寺宗主蓮如の子実従の日記に、天文4年(1535年)大坂石山本願寺からの救援要請に応じて、「雑賀衆300人ばかり」が駆けつけたと有ります。

この時本願寺より感謝の書状が出ています。

 

なぜ雑賀衆が本願寺の救援要請に応えたのか?

実は雑賀衆は荒々しい傭兵軍団でありながら、熱心な浄土真宗の信者(門徒)でした。

不似合いな取り合わせですが、浄土真宗が説く分かりやすい教義に、彼らは惹かれたのです。

 

『武士・百姓・商人・漁師など罪深い俗世の人間が、出家をせずとも念仏を唱え阿弥陀如来に縋れば、極楽浄土へ往生できる。』

宗祖親鸞の教えを、民衆に分かり易く説いた蓮如の説法です。

 

現世で人を殺めるような悪行を重ねても、念仏を唱えれば来世では救われるとの教えに、荒っぽい家業で世渡りしていた雑賀衆は飛びついたのです。

 

 

敵は信長殿

雑賀衆が初めて織田信長の軍勢と対峙したのは、元亀元年(1570年)大坂は石山本願寺、いわゆる石山合戦でした。

 

信長は永禄11年(1568年)に将軍足利義昭を奉じて上洛し、京都で軍事政権を敷いてから2年が経っていました。

この時信長のもっとも大きな敵は、“坊主将軍”と呼ばれた本願寺の第十一代法主(ほっす)顕如上人と、彼が率いる日本全人口の半分を占めるとも言われた、浄土真宗門徒でした。日本の人口が1,500万から1,800万の時代です。

 

大名同士の戦いでも実際に戦場で動くのは、一握りの武士の指揮官と大多数の農民でした。

この農民の心を握っている浄土真宗の本山石山本願寺を潰さねば、信長の天下統一もおぼつかないのです。

 

信長は元亀元年8月、6万の兵を率いて大坂天王寺に陣を置きます。表向きは本願寺の北西、野田・福島城に立て籠っている三好三人衆討伐のためとしていますが、いつ矛先が本願寺は向くか分かったものではありません。

 

9月顕如上人は、雑賀衆に本願寺守護を命じます。

「野田・福島の三好党が敗北すれば、本願寺滅亡は目前にある。教団が破滅しないよう忠節を尽くしてもらいたい」

 

この時雑賀衆の主力は三好党に雇われていましたが、一部は根来衆と共に織田方でも働いていました。

金次第で動くのが傭兵ですが、石山本願寺の危急を知った彼らは、何の報酬も求めず持ち場を離れて駆けつけました。

 

雑賀の頭領鈴木佐太夫は、すでに孫一と共に、紀州和歌の浦から小早(こはや)と呼ばれる二十挺櫓の早船で、本願寺にやって来ていました。

 

長くなるので前編・後編に分けます。

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