紀州雑賀衆後編 戦国の世を駆け抜けた粋なお兄さんたち

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紀州雑賀衆後編です。

前編では雑賀の里のご紹介から、石山合戦前夜までをお話しましたが、その続きを。

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石山合戦Episode One

雑賀衆の精兵と武器弾薬を満載した船が、続々と木津川河口にある木津砦に到着します。

元亀元年(1570年)9月12日、織田軍は野田・福島城攻撃を始め、楼の岸(大阪市中央区)の本願寺砦にも、さかんに鉄砲を撃ちかけます。

本願寺では軍議が開かれ、雑賀の頭領鈴木佐太夫(さだゆう)は主戦論を説きます。

 

本願寺は開祖親鸞聖人の教えに「積極的に敵と戦え」と言うものが無かったので、根来寺や延暦寺その他の寺院のように、自らは僧兵を持ちませんでした。

もっとも降りかかる法難に対して、武力でこれを打ち払うことにいささかの躊躇もありませんでしたが。

 

寺側は実働部隊として各地の門徒を招集し、本山の防衛に当たらせました。これを番衆(ばんしゅう)と呼びます。

しかし本願寺側の戦力として最も頼りにされたのは、プロの戦闘集団である雑賀衆でした。その頭である佐太夫の意見は尊重されました。

 

稲刈り作戦

佐太夫の計略通り9月15日の朝、稲刈りを装った門徒衆2,000の後に続いて、雑賀衆3,000が佐太夫の末息子孫一の指揮の元、本願寺を忍び出ます。

鈴木孫一:Wikipediaより引用

予想通り織田方の兵は門徒衆に向かって突撃、その時鳴り響く孫一の二連短筒(にれんたんづつ)を合図に、雑賀衆3,000挺の鉄砲が織田方に向かって火を吹きます。

 

織田軍の死者はたちまち400、500と増えて行きます。

孫一は500の部下を率いて1万の敵勢の横手に回り込み、これでもかと銃弾を浴びせかけます。

本願寺の早鐘が打ち鳴らされ、鎌や太刀を振りかざし、稲刈り姿の門徒衆が襲い掛かります。

織田の指揮官佐々内蔵助(さっさくらのすけ)は脚に銃弾を受け、家来に背負われてかろうじて逃げ延びるありさま。

夜になり信長の天満森本陣は火をかけられ、やむなく後退。初戦は本願寺側の作戦勝ちでした。

 

緒戦で織田勢を一蹴した雑賀衆は、3,000挺の鉄砲が有れば、織田勢怖るるに足らずと楽観してしまいました。

 

石山合戦Episode Two

織田の陣中へ忍び込ませていた者から、信長は間もなく6、7万の大軍を繰り出すとの報が入ります。

 

本願寺に籠城中の佐太夫は、ある夜孫一を呼び出します。

孫一はまだ20代半ばでしたが、雑賀随一の指揮官として信頼を集めていました。

「これまでの戦でも分かるよう、信長は伏兵を使いたがる。まともに切り込めば、相手の思う壺、それに何とも執念深い。次の戦で仕留めねばこっちがやられる」

よくよく孫一に言い聞かせます。

 

翌朝織田方は、明智光秀らに率いられた2万の兵で、天王寺の陣より出撃。迎え討つ本願寺門徒衆は3万。

敵味方入り乱れ、刀を振るい槍を突き出し乱戦の中、織田方は次第に後退します。

 

信長一人に狙いを定めていた孫一は500の部下と共に、黒羅紗(らしゃ)の南蛮帽をかぶり、馬上で采配を取る姿を目当てに、信長を探し回りますが、見つけることが出来ません。

信長の本陣隊が現れたのは翌日の朝、孫一から十町(約1km)ばかりの所に、永楽銭を描いた信長の旌旗をはためかせながら現れると、雑賀衆の銃撃をものともせず襲い掛かって来ます。

 

甲冑を付け金の前立ての兜をかぶる1騎、あれこそ信長殿。

孫一は狙いすました一発を発射しました。

その人影は、身をかがめ馬のたてがみにしがみつきながら、馬上から落下します。

「やった、やった、信長を落としたぞ!」

周りの部下の歓声の中、孫一は狂喜しました。

しかし残念ながらこの時信長は、傷こそ負いましたが命は拾ったのです。

 

木津川河口の小競り合い

正面切って攻めてもどうも上手く行かなかった信長、次に目を付けたのは補給路を断つ事でした。

本願寺の補給が木津川河口から行われているので、ここを叩けってわけです。

 

陸上から攻めることを決めた信長、方面担当の原田直政に命じて実行に移しますが、本能寺側は事前に情報をキャッチ。

本能寺兵が手ぐすね引いて待ち構える処へ押し寄せた織田兵、迎撃され大敗を喫し直政も戦死します。

この戦いには孫一と、雑賀鷺ノ森の土豪佐武伊賀の守も参戦し活躍しました。

 

このあたりから織田・本願寺両者とも「この戦は籠城戦になる」と見込んだのでしょう。

お互いの本拠の周りに砦を築き、兵器・糧食の備蓄に努めます。

本願寺側は毛利水軍の応援も得て、大規模な搬入を行います。孫一は播磨室津の湊まで出向き、指図します。

 

雑賀の水軍は「諸浦門徒(しょうらもんと)」と呼ばれましたが、彼らも応援にやって来ました。

織田方水軍も出張って来て、荷物の運び込みを阻止しようとしましたが、毛利・雑賀両水軍に責め立てられ敢え無くほぼ全滅。

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信長の雑賀攻め

やることなすこと上手く行かない信長、それならばと雑賀の本拠地を叩くことを思いつきます。

本願寺との戦が膠着状態になった天正5年(1577年)、信長は6万の軍勢で紀州雑賀の荘を襲います。

荘へ戻っていた佐太夫・孫一の雑賀荘と十ヶ郷を中心に、雑賀衆は良く戦い、ひと月余り経っても信長は雑賀の荘を落とすことが出来ませんでした。

 

その間に雑賀の荘を救うべく本願寺顕如上人が動いて、毛利輝元、上杉謙信に上洛して信長を討つように頼みます。

いま毛利と上杉に動かれては大変、信長は佐太夫・孫一以下雑賀年寄衆に赦免状を与える代わり、形だけの降伏を引き出して軍勢を引き上げました。

実はこの時、雑賀衆の猛烈な鉄砲射撃による被害が甚大だったので、6万の軍を以てしても攻め切ることが出来ず、こうするより方法がなかったのです。

 

手足をもがれる本願寺

しかし天下の情勢は刻々と変わります。

元亀3年(1572年)4月、浜松三方ヶ原の戦で、織田・徳川連合軍を破った武田信玄が陣中で病死。

7月に信長追討の兵を挙げた将軍義昭は、頼みの信玄の助力を受けられず、信長の手で追放されます。

8月には3万の軍勢で浅井・朝倉を滅ぼした信長は、天正2年(1574年)9月に、伊勢長島の一向一揆を鎮圧。2万人の門徒が虐殺されました。

 

天正3年5月には長篠合戦で武田勝頼に大勝し、8月には越前一向一揆を鎮め、門徒4万を殺戮しました。

 

いやぁ戦国大名は、一方の敵と戦っていれば良いってもんじゃ無いのですね。

同時多発的にあちこちの勢力と戦ってみたり、和睦してみたり。

四方八方に目を配っていなければなりません。こうして信長は周囲の敵を各個撃破で潰して行き、本腰を入れて本願寺に襲い掛かります。

 

頭越しの手打ち

戦いが長引くにつれ、各地の一向一揆を潰して行く信長のやり方が、ボディブローのように、本願寺の体力を奪って行きました。

門徒衆の動員や糧食の補給に陰りが見えて来たのです。

 

天正8年(1580年)3月、本願寺は朝廷の仲立ちによる和議に応じ、徹底抗戦を主張した教如上人も石山本願寺を出て、紀州鷺森(さぎのもり)へ移り、石山合戦はひとまず終わりを告げました。

『勅命により』の和睦なので、両者の面子も立ちました。

 

この石山合戦、信長の側から見れば「とんだ所で手間を取らせおって」以外の何者でもありませんでした。

領民の中に在って、領主の命令よりも本願寺の意向を優先する門徒衆は、叩いて置かねばならない存在ではありましたが。

 

しかし元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)まで、途中二度の講和・休戦はあったものの、ほぼ10年間をこの戦に足を取られていたのです。

天下取りのスケジュールが大いに狂ってしまいました。

 

一方本願寺側から見ても、信長の圧迫があればこそ手向かいもしましたが、それを緩和してもらえるのなら、特に事を構える理由はありませんでした。

こうして当事者同士は手打ちをしましたが、それが傭兵と言うものとは言え、置き去りにされたのは雑賀衆です。

自分たちの信仰する宗派だと思えばこそ、懸命に戦って来たのです。

 

孫一、信長に接近する

戦が終わってしまっては、傭兵の収入の道が絶たれます。

最初のうち孫一は、本願寺と行動を共にしていました。

そもそも教如上人を紀州鷺森へ避難させたのも、雑賀衆がお膳立てした物でした。鷺森そのものが雑賀の荘の中にあったのですから。

 

本願寺側の使いとして信長の元へ出入りするうち、孫一は次第に織田方に使づいていきます。

本願寺と言う雇い主が居なくなった以上、次の働き口を探さねばなりません。

頭領として、部下の雑賀衆を食わせて行かねばならないのです。

 

あれほど付け狙っていた信長にと思いますが、このあたりが傭兵としての割り切りでしょうか。

しかし孫一の信長接近を快く思わない雑賀衆も居たわけで、彼らは内部分裂を起こして行きます。

信長が亡くなったのち孫一は秀吉に仕えます。

 

雑賀衆と秀吉

やがて本能寺の変、信長のあとを継ぐ形となった秀吉は、最初雑賀衆に接近して行きました。

別に秀吉でなくてもどこの戦国大名でも、彼らの鉄砲を操る技術と戦闘能力は、喉から手が出るほど欲しかったのです。

 

その気になれば雑賀衆は自分たちを高く売り込むことも出来たでしょう。

しかし彼らはその道を選びませんでした。

 

武士に対抗する農民・町人集団の側に付いたとする人も居ますが、それは余りに綺麗ごとに過ぎます。

ありていに言えば、多くの雑賀衆は誰にも仕えたくなかったのです。

自分たちの上に誰も居て欲しくなかったのです。

傭兵として雇われればその指揮命令に従いますが、それは金を貰ってのその時だけの話。

 

雑賀の荘郷の一つ宮郷(みやごう)について書かれたものが有ります。

「宮郷12ヶ村並びに太田郷は地頭なく、我持(われもち)の所也(ところなり)」

自分たちの土地は自分たちのもの、誰の世話にもならぬし、誰に守ってもらおうとも思わぬ、放って置いてくれってわけです。

 

しかし天下を狙う秀吉にすれば、こんな物騒な集団を、野放しにしておくわけには行きません。

信長が散々手を焼いたのを間近で見ています。

敵対する大名に付かれては大変、自分に従わないのなら、滅んでしまえと言うわけです。

 

雑賀衆壊滅

秀吉はまず根来を滅ぼし、両者の連携を絶とうとしました。

10万を超える大軍で根来寺を攻め、火矢を射かけます。

これが火薬庫に引火して大爆発、炎上延焼した火は3日間で、2,700に及ぶ堂塔伽藍を全て焼き尽くしました。

 

根来を壊滅させた秀吉軍は、残された雑賀の荘に襲い掛かります。

この頃の雑賀は、孫一と袂を分かった「太田党」が支配していました。

争い回避のため、秀吉は孫一を「太田党」説得に向かわせますが、“裏切り者”の孫一の話を聞くはずもありません。

 

秀吉は得意の水攻めに打って出、耐えきれずに太田城は落城。

名のある武将は自害、城兵は降伏、こうして雑賀の荘は滅んでいきました。

 

故郷を失い生き残った者は、全国へ散らばって行きました。

鉄砲の技を以て、大名に召し抱えられた者も居ました。

しかし陽気で酒と女が大好きで、自由気ままに生き、一旦戦いが始まれば誰よりも勇敢に戦った雑賀衆、彼らが雑賀衆として歴史の舞台に立つことは二度とありませんでした。

 

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