この方、元をただせば清和源氏の流れを汲む常陸源氏の嫡流で、武田氏の甲斐源氏と同族です。
佐竹昌義を家祖とする佐竹氏の19代当主で、佐竹義重の長男。まぁどちらかと言うと「鬼佐竹」とか「坂東太郎」とあだ名されたお父様の方が、世間の評価は高いのですが・・・。
今日はそんな義宜(よしのぶ)のお話です。
家柄はいたって名門なのです
清和源氏の流れを汲むだけあって、佐竹氏は平安時代後期には、常陸北部七郡を支配下に収め、常陸の有力豪族としての地位を手にしていました。
ですが治承・寿永の乱において源頼朝挙兵のおり、最初は平氏に味方したため、乱の鎮静後、頼朝によって領地は没収されてしまいます。鎌倉時代を通じて、常陸北部七郡の支配権は、宇佐見氏、伊賀氏、二階堂氏などを転々としたあげく北条氏の手に渡り、佐竹氏は自家の不遇をかこつばかりでした。
その後運が向いて来たのか、建武の動乱で佐竹氏は足利氏に味方します。室町幕府が開かれ足利氏の天下となると、その功績により常陸守護職に任ぜられます。守護大名佐竹氏の誕生です。
その佐竹家に、18代当主佐竹義重を父に、伊達晴宗の娘を母として、元亀元年(1570年)常陸の国太田城で義宜は生まれました。伊達晴宗とは伊達氏の15代当主で、伊達政宗は義宜の母方の従兄にあたります。
時代は下って天正17年(1589年)正月、父佐竹義重が43歳で隠居し、嫡男の義宜が家督を継ぎます。義宜初陣は3年前の天正14年の時に済ませていました。初陣も済ませた息子と、正式に家督も譲った父ですが、なんとなく頼りなく思えたのでしょうか。この後も後見として、佐竹家の運営にしっかり目を光らせました。
佐竹氏対伊達氏
さて東北には他にも、桓武平氏の流れを汲む名門氏族の会津葦名(あしな)氏がありました。南奥州一帯に勢力を伸ばしていましたが、天正年間にお世継ぎ問題勃発。家臣団が揉めに揉めたあげく、佐竹義重の次男義広を当主として迎えます。義宜の弟で、これより蘆名盛重(もりしげ)と名乗ります。
他の氏族から当主を迎えるのは余程のことですが、背後に豊臣五奉行の一人、石田三成の強力な押しがあったと言われています。ところがここに、佐竹家から跡継ぎが入ったことを、快く思わない男が居ました。このころ奥州で勢力を強めていた伊達政宗です。
それでなくとも、佐竹氏と南下を狙う伊達氏の間では、以前から領地の争奪戦が繰り広げられていました。まして会津は奥州と北関東を結ぶ肝要の地、おまけに東北屈指の米どころです。そんな所へ、競争相手の氏族の一人が当主として迎えられるなど、政宗にとっては我慢のならないことでした。黙って見過ごすはずもありません。
義宜無念、摺上原(すりあげはら)の戦い
かくして天正17年(1589年)6月、伊達軍2万3千騎と蘆名・佐竹軍1万6千騎が、磐梯山のふもと摺上原(福島県猪苗代町)で激突します。義宜が家督を継いでからわずか半年のことです。
盛重率いる蘆名軍は良く戦い、実父佐竹義重も軍を率いて須賀川から駆けつけ、大平(おおひら)城を奪って敵の背後を突くなど、大いに奮戦します。しかし戦上手の政宗には敵わずついに敗北、盛重は常陸の国へ落ち延びます。
政宗はこの戦いで奥州の大半と、それまで蘆名家の配下だった諸大名を手に入れ、奥州の覇者の地位を動かぬものとしました。
対して義宜は会津の地を失っただけではなく、奥州へ攻め上る手がかりを失ってしまったのです。
関東惣無事令(かんとうそうぶじれい)
しかしここに政宗が見落としていたと言うより、敢えて無視した事柄が有りました。
“関東惣無事令”をご存知でしょうか。これはすでに天下人となった秀吉が発令した法令で、大名同士の領地を巡る争いなど、私的な戦いを禁止したものです。これが発令されたのが、九州地方には天正13年(1585年)、関東・奥羽地方に対しては天正15年(1587年)。つまり天正17年の摺上原の戦いは、この法令違反に引っかかってしまったのです。
前田利家や浅野長政らが心配して、急ぎ申し開きの使者を秀吉公の元に送るように、また会津から撤兵するように政宗忠告します。
しかし秀吉自身も、発布したばかりの法令を正面切って破られて、頭に来たのでしょう。越後の上杉景勝と佐竹義宜自身にも、政宗征伐の会津出兵を命じました。
義宜としては、もともと蘆名・佐竹連合軍対伊達政宗の戦いで、敗戦してしまったところへ天下人秀吉の後ろ盾が得られたのですから、喜び勇んで戦いに赴きたいところです。しかし悲しいかな、当時の佐竹家は、対伊達の最前線基地南郷(なんごう 福島県南会津町)を守るだけで手一杯でした。せっかく秀吉のお墨付きを頂いても、出兵までには手が回りません。
仕方が無いので石田三成に向けて嘆願状を書きます。「此の上は会津に向けて、景勝急速の御出勢の様、御下知念望候(こうなったからには、会津に向かって上杉景勝殿急ぎ出兵いただくよう、命令してくださることを願います)」情けないようですが、これが実情でした。
小田原出兵
すると話がどう伝わったのか、三成から帰って来た返事は、秀吉の命令だとして、小田原城北条氏攻めに参加するようにとのことです。秀吉自らの出陣と聞き、お目通りが叶えば対伊達氏への方策で、何かの糸口が見つかるかもしれません。そう思った義宜は、膠着状態の南郷を部下に任せて、配下の武将たち1万余名を率いて小田原に駆け付けます。
小田原で秀吉への謁見が叶い、臣下の礼をとった義宜、そのまま武蔵国内の北条方支城攻めに加わり、さらに奥州征伐にも同道します。
この戦での働きが評価されたのでしょう、義宜は天下人秀吉の御威光を背景に、居城を太田城から水戸城へ移します。さらに秀吉から常陸一国と下野国(しもつけのくに)内の領地、及び伊達氏と争っていた南奥羽の地を、地行として認められます。
文禄4年(1595年)豊臣大名として、54万石の常陸の国の領主となった義宜。豊臣政権の思惑としては、このころ奥州で勢力を強めていた伊達政宗の勢いを抑えるために、豊臣の息のかかった武将に、力を持たせたいと考えたのでしょう。
関ヶ原で日和見
関ヶ原の戦い:Wikipediaより引用
時は移り関ヶ原、政宗との争いの時三成に世話になった義宜は、西軍につくか勢いのある家康につくか迷っていました。しかし一族の佐竹義久や父義重は、早く家康の陣に参陣するように進言、家康からも義宜の居城水戸城へ、再三の出陣要請が来ます。
義重は息子に向かって、「妻子が豊臣方の人質に取られておるのは知っている。だが今の世であれば、その命の危難は免れ難い。お前一人の話ではない、お家の存亡、家臣どもの行く末もかかっている。どちらにお味方するかは、心して決めよ」と諭します。
それでもまだ態度を決めかねていた義宜ですが、再三の説得を受けて、義久に300騎ばかりを率いさせて関ヶ原へ送ります。“申しわけ程度”感満載ですね。
西軍の敗北に終わった関ヶ原合戦の翌年、慶長6年(西暦1601年)、義重と義久は上洛して家康に面会し、義宜の合戦での逡巡を詫びます。慶長7年には義宜自身も家康に会い、謝罪するとともに家名存続を願いますが、申し渡されたのは常陸の国よりの転封でした。しかもこの時は転封先の国名も知らされませんでした。徳川から関ヶ原での義宜の態度を見れば、東西両軍を天秤にかけたように見えたのでしょうね。
出羽久保田藩(秋田藩)初代藩主
初代藩主と聞くと、「おお、お家の元を開かれたのか」と褒めたくなりますが、義宜の場合その事情はちょっと違っていました。
常陸の国54万石の所領を全て没収されたあげくの、出羽の国秋田郡20万石へ半分以下の石高での国変えです。代々の家臣にも、以前と同じ扶持は与えられなかったでしょうし、置いて行かざるを得なかった小身の者も多かったでしょう。
こうして義宜は慶長8年(1603年)より築城にかかった久保田城を本城とし、初代久保田藩主におさまりました。
藩の運営においては、家柄・慣例にとらわれず、能力のあるものを積極的に登用します。また開墾にも励んで、藩財政の立て直しに尽力しました。決して無能の人では無いのです。
大坂の陣にも徳川方の大名として参戦し、玉造口に陣取った佐竹軍はなかなかの働きぶりでした。戦後の論功行賞で、感状(表彰状)を受けた12名のうち、5名が佐竹家中の者でした。
家康は、三成への恩義にとらわれて関ヶ原への参戦をためらった義宜の態度を「今の世に珍しき律儀者よ、しかし過ぎても困るもの」と評しています。
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