賤ヶ岳だけではなかった!? 知られざる姉川7本槍

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戦国時代の7本槍といえば、豊臣秀吉配下の7人が奮戦した賤ヶ岳7本槍が有名ですよね。なんと姉川合戦にも「7本槍」と呼ばれた武将たちがいました。ところが今ではこの姉川7本槍は忘れ去られた存在になっています。

なぜ彼らが知られざる姉川7本槍になってしまったのでしょう。その裏には、7人のたどった哀しい運命があったようです。

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姉川の戦い

姉川合戦は1570年、織田信長が徳川家康と組んで、敵対する朝倉義景、浅井長政と近江国の姉川付近で一戦を挑んだ戦いです。この数か月前、信長は越前の朝倉を攻めましたが、その際北近江の浅井長政から背後を襲われ、朝倉と浅井に挟み撃ちにされるという苦い体験をしています。信長は妹お市の夫として信用していた浅井長政の裏切りに大変怒り、リベンジに燃えます。また、京都への道を確保するためにもこの一戦は負けられない戦いとなりました。

天下第一の槍

いよいよ姉川の戦いが始まりました。最初は一進一退の戦いとなりましたが、織田、徳川軍は勝利を収めます。とくに小笠原長忠率いる高天神衆は姉川を渡って朝倉軍に突入して。その高天神衆のなかでもひときわ目立ったのが渡辺金太夫。赤い唐傘に18もの金の短冊をぶら下げたド派手な旗指物をつけた渡辺が、朝倉軍相手にさんざん暴れまわりました。

 

それを対岸から見ていた信長は、合戦に勝利すると金太夫に「あっぱれ! 天下一の槍だ」と褒めたたえ感状と貞宗の脇差を与えます。するとそこへ「お待ちを」と割って入ったのが金太夫とともに活躍した6人の武将たち。「渡辺は堤にいたが、自分たちは先に進んでいたが畑にいたから気付いてもらえなかったのだ。不公平だ」「金太夫は目立っただけだ」と大クレーム。今も昔もアピールは大切ですよね。それが命をかけた戦いであればなおさらです。信長は慌てて6人にも感状を与えました。

 

この6人とは門奈左近右衛門、伊達与兵衛、伏木久内、中山是非之助、吉原又兵衛、林平六。これに渡辺金太夫を加えて姉川の7本槍となりました。

 

姉川合戦は、賤ヶ岳合戦の13年前の合戦なので、こちらの方が早かったことになります。賤ヶ岳の戦いでは秀吉が「姉川では7本槍で北国を打ち崩した。こちらも7本槍を選び出せ」と家臣たちを激励したとも伝えられています。当時はすでに姉川の7本槍が有名で、秀吉も知っていたのかもしれませんね。

消えた姉川7本槍

ところがこれほどの活躍をした7人の武将たちですが、今ではその存在を知る人がどれだけいるでしょうか。残念ながら歴史にもほとんどその名を残していないんです。

賤ヶ岳の7本槍の加藤清正、福島正則などはのちに大大名にもなっているのとは大違いです。

どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。

 

そのヒントのひとつが、江戸時代に描かれた「姉川合戦図屏風」に隠されていました。この屏風には赤い傘と金の短冊を揺らしながら敵と戦う渡辺金太夫、青い旗を付けた林平六、白い旗を付けた門奈左近右衛門ら7本槍の面々も描かれています。ところが屏風全体を見てみると、彼らの活躍は右上の隅の方に追いやられている感じがします。中央で目立っているのは本多忠勝、榊原康政といった家康の元からの家臣である三河武士たち。徳川家では江戸時代にさかんに姉川合戦の勝利を宣伝しましたが、いつのまにか一番の活躍は三河武士にすり替わってしまい、7本槍の存在は脇に追いやられています。

 

また、江戸時代に作られた史書では姉川の戦いでまったく7本槍のことには触れられていません。なぜ徳川家では信長からも激賞された7本槍の存在をかき消すようなことをしたのでしょうか。

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救援に来なかった徳川家康

その理由・・・それはこの7人のほとんどが後に徳川を裏切ってしまったからのようです。裏切りというと聞こえは悪いのですが、彼らにだって言い分はありました。

 

小笠原氏の守る高天神城は武田方との国境の近くにあり、たびたび武田軍に攻められましたが、小笠原氏はこれをよく守っていました。しかし姉川合戦から4年後の1574年、武田信玄の子、勝頼が大軍で攻め寄せ、城を囲んでしまいます。

 

小笠原氏は家康に援軍を頼みました。家康は「分かった」と言ってはくれたものの、待てど暮らせど姿を現さなかったのです。じつは家康は単独で救援に行く自信がなく、信長からの援軍を待っていたのですが、その織田軍も余裕がなく援軍が遅れていたのです。

1ヶ月間、小笠原氏はがんばって籠城しましたが、援軍は現れず、とうとう城を持ちこたえるのが難しくなりました。

 

小笠原氏は武田軍に城を明け渡すことに決めました。小笠原氏は元々今川の家臣です。今川義元の死後、今川氏が衰退したため徳川家康に従ったにすぎません。小笠原氏にしてみれば「こういう時のために徳川の家臣になったのに」と、援軍にきてくれなかった家康に怒りをおぼえたでしょう。頼りがいのない主君だと見限り、そんな家康に命をかけてまで義理立てする必要はないと投降することに決めました。

 

ただし家臣たちには「それぞれ今後の身の振り方を決めよ」と各自に任せました。武田に従うものを東退組、徳川に従うものを西退組といったそうですが、ほとんどは東退組を選んだようです。頼りにならない徳川氏を見限り、武勇にとどろいた武田氏を好ましく思うのは当然ですですよね。そして7本槍の面々も門奈を除いて東退組を選びました。

こうして6人は武田氏に投降しました。そう、この瞬間、6人は徳川氏にとっては裏切り者になったのでした。

 

徳川方にとってこの6人は姉川合戦の英雄から一転、好ましからぬ人物になりました。そのため江戸時代になって姉川合戦を徳川の輝かしい戦いとして宣伝するなか、7本槍の存在は邪魔になりました。とはいえ屏風絵では7本槍の存在をまったく無視できなかったのか、三河武士の引き立て役として描き入れたのでしょう。こうやって7本槍の存在は徳川方によって脇に追いやられ、知られざる存在になっていったのです。

その後も運命に翻弄された7人

7人が忘れ去られたのは、その後の彼らのたどった運命も原因だったでしょう。

6人は武田家の家臣になり、足軽大将などをつとめましたが、その後もどうやら運命に翻弄され続けたらしいのです。

武田家も6人にとっては永住の場所にはなりませんでした。わずか8年後に武田は織田に攻めたてられ、滅ぼされてしまいます。

 

このとき、渡辺金太夫は武田勝頼の弟仁科盛信が守る高遠城にいました。金太夫は副将格だったようです。城から兵の脱走が相次ぐ中、元徳川に仕えていた金太夫も逃げるのではないかと周囲から疑われます。しかし金太夫は「自分に二心はない」と忠誠を誓い、感謝した盛信から脇差を与えられています。落城の日、金太夫はその忠誠心をここぞとばかり見せつけます。織田方の軍勢が城へ攻め寄せる中、一丈三尺もある大槍をさんざんふるって奮闘して討ち死にしたのだとか。信長から天下一の槍と絶賛された武将らしい壮絶な最期でした。

林平六はその2年前に武田勝頼の無茶な戦いのせいで戦死していました。

 

一方で、武田滅亡後も生き延びたのが伊達与兵衛と中山是非之助です。

伊達与兵衛は武田に仕えた当初、遠江に100貫文の所領を与えられ、のちに駿河区富士郡に移りました。武田が滅びた後は相模北条氏に仕えますが、その北条氏も滅びた後は家康の子で越前の結城秀康に拾われ800石で仕えたそう。この結城氏ものちに滅び、与兵衛の子孫は津山美作藩士になりました。

中山是非之助も武田氏滅亡後は北条氏に仕えましたが、その滅亡後は浪人しています。

 

ほとんどその消息が分からないのが伏木久内と吉原又兵衛です。2人とも武田氏に仕えた後、どうなったのか分かりません。武田の滅亡前に亡くなったのか、武田とともに運命を共にしたのか、それとも生き残ったのか・・・。

このように裏切った6人は、戦死したり、何度も主家を転々としたりと運命に翻弄され続け、歴史の中へ埋もれていきました。

 

7人のうち唯一徳川家についた門奈は、以後も徳川方一筋。越前松平家や駿河大納言忠長(家康の孫)に仕え天寿を全うしました。ただ700石取りで、大名でなないですし、歴史に名を残したとも言えません。7本槍の生き残りとしてはさびしいかぎりです。

 

このように彼らの後半生は、決して恵まれたものではありませんでした。しかしそれでも姉川合戦では天下第一の槍とうたわれた勇猛な武将たちであったことだけはたしかです。

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