戦国時代、柴田勝家、浅井長政など城を枕に討ち死にする武将たちがいた一方で、負けても敵に降伏して生き残る武将もいました。
今回は、え?滅亡しても生き残っていたの?という名家の武将たち、今川氏真、織田信雄、足利義昭のその後を紹介したいと思います。
家康が頼り~ 今川氏真(今川義元の長男)

今川氏真:Wikipediaより引用
今川家は駿河・遠江・三河の戦国大名。しかし今川家は1560年の桶狭間の戦いで運命が一変します。当主の義元が、新進気鋭の弱小大名織田信長の領地尾張へ攻め込んだところ、逆襲されて命を落としてしまうのです。
じつはこの時すでに息子氏真が家督を譲られていたとも。なので父の弔い合戦として信長を討ち果たすこともできましたが・・・。
じつは氏真は蹴鞠、歌が大好きの文科系で戦いはちょっと・・・。しかも桶狭間で今川の有力武将も多く討たれていたため国内が動揺して弔い合戦どころではありませんでした。そのスキになんと人質の松平元康(のちの徳川家康)が独立し、敵の信長と手を結んでしまいます。それに続いて次々と続々と国人が離反。
もうこうなればモグラたたき。「あっちの国人が離反」「こっちの国人が離反」と聞くたびに攻めて謀殺していくドミノ倒し状態。井伊直親もこの流れで殺されています。
さらに1568年には甲斐の武田信玄が同盟を破って家康とともに挟み撃ちしてきます。氏真は武田の侵攻を防ぎきれず遠江の掛川城へ逃れます。ところが今度は家康が攻めてきました。氏真は何とか半年間持ちこたえたすえ、和睦して開城します。城を枕に討ち死に!という選択肢はなかったようです。
こうして大大名としての今川家は滅亡しましたが氏真は生き残りました。
以降、どうなったかって? ちゃんと生きていました。ただしニートですけど(笑)。
武将というよりもしぶとく生きてやる!という道を選んだよう。
まずは妻の実家北条氏を頼り小田原に向かいますが、北条氏が武田と結ぶと命を狙われます。もはやこれまでと自害・・・するはずもなく小田原を出奔して次に頼ったのは何と家康。どうやら「駿河を氏真に戻すから」という約束があったようですが、家康も「元人質の俺を頼る?」と戸惑ったでしょう。浜松では家康に同行して長篠の戦いに参陣したり、牧野城主を務めたりしています。
でも牧野城主も一年で解任されるなど武将としては力不足でニート状態。
その合間に蹴鞠を父の仇信長に披露するという屈辱的な催しだって、たんたんとこなします。
そんなある日ついに「もう武将ムリ! 俺には蹴鞠や歌があるじゃん」と京都に出て文化人にシフトチェンジ!公家たちと交流し、連歌の会などで活躍しました。ようやく自分の生きる道を見つけたようです。芸は身を助けるとはこのことですね。
一方で氏真の子らは徳川家に出仕します。氏真も家康から500石を与えられ、江戸に移り住んで77歳で亡くなりました。
生き残ればいいことあるさ! という典型的なパターンですよね。さっさと今川家の復活も武将もあきらめてセカンドライフ! ここまで潔ければ言うことなしです。
しかも氏真が頼ったのは人質&家臣だった家康。持つべきものは有能な人質と思ったことでしょう。
利用されつつ生き残る織田信雄(織田信長の次男)

織田信雄:Wikipediaより引用
バカ殿なのになぜかちゃっかり戦国サバイバルを生き残ったのが織田信雄。信長の次男で北畠家の婿養子に。ところが勝手に伊賀国に侵攻して失敗。父の信長からは「このバカモン!親子の縁を切る」と大目玉をくらうダメ息子。周りの人たちからも「またあいつ?」と言われたらしいので、あまり立派な人物ではなかったのでしょう。
それでも父の信長が健在で天下を統一すれば、信雄の人生も安泰だったはずです。
ところが信長が本能寺の変で倒れると、信長政権は崩壊。信雄が迷走してバカ殿ぶりを発揮します。明智光秀追討のため近江に出陣しても、軍勢が少ないのでやめとこーと途中で引き返し、一説には安土城に放火したとも。
さらに兄の信忠も死んだので、次は自分が織田家の当主! とおめでたい妄想。そこを羽柴秀吉にいいように操られ、仲が悪かった弟の信孝を攻め自害に追い込みます。よっしゃーと三法師の後見として安土城に入ったとたん、秀吉に追い出される始末。
しまった! ここでさすがのバカ殿も目がさめ、秀吉に利用されたと気付くがもう遅い。ただしバカなりに変わり身は早く徳川家康のもとに駆け込み、小牧・長久手の戦いで秀吉と対戦します。
ところが秀吉からうまい話をもちかけられると、さんざん利用されたことも忘れて家康に内緒であっさり講和。
この辺り「ちがうだろー」と忠告したいですよね。しかも秀吉から国替えを命じられると「嫌だ」とダダをこねます。本心では「猿、猿」と呼んでいた元家来なんだからワガママも許してくれるっしょとたかをくくっていたのかもしれません。ところがあっさり改易になり、下野、さらに出羽に流されます。
なんと信長の息子が牢人、さらに罪人に転落です。
このオシオキにより、さすがの信雄ももう信長政権が崩壊したことに気付いたのでしょう。いや、あきらめがついたのでしょう。家康のおかげで赦免されると、以後はおとなしく秀吉のお伽衆となり大名に復帰します。
ところがまだまだ野心だけはありました。関ヶ原合戦では大坂城内に潜んで勝ち馬に乗ろうとするずる賢い役割を演じたつもりが、そんな立派な戦術ができるはずもなくバレバレ。西軍に属したとみなされ改易されます。
すると信雄は、そのままちゃっかり豊臣家に拾ってもらいます。
こうして信雄は豊臣家と運命をともにしたのか~と思ったあなた、まだまだ甘い。バカ殿の底力はこんなものじゃないんです。
俺まだ生きたいからと、なんと大坂の陣直前という土俵際で徳川方へ寝返り。見事なうっちゃりです。
しかもギリギリだったため豊臣方の情報をたくさん教えました。ただの告げ口だったのにスパイ活動と評価され、のちに大名へと復帰するというタナボタの復活をとげます。しっかり70代まで生きました。
真面目な兄の信忠やチョイ賢い弟の信孝とは違って、信雄は暗愚と陰口をたたかれましたが、皮肉なことに勝ち組になりました。この信雄の系統は江戸時代を通じて続きます。
暗愚なので利用しやすく、利用され続けたおかげで生き残れたのかもしれません。相手に利用させてあげる器の大きさ!いえ利用されていることに気付かないユルさ、 これ意外と大切かもしれませんね。
「俺は将軍」足利義昭(室町幕府最後の将軍)

足利義昭:Wikipediaより引用
織田信雄はバカ殿でも自分の身を守ろうとしただけなのでまだ可愛げがあります。ところが足利義昭は、「おいら将軍様だぞ!」と各地の大名を振り回したトラブルメーカーでした。
元々京都に入れず各地をウロウロしていた将軍義昭を奉じて京都に上洛したのは織田信長。もちろん義昭は信長に感謝して、あまり年の違わない信長を父と慕い、「地位は何がほしい?副将軍?管領?何でも望みどうぞ」と大盤振る舞い。
信長はこれは辞退しますが、義昭が京都で襲われると、岐阜からスッとんで行くなど当初は蜜月関係でした。
しかし室町幕府再興を願う義昭に対し、信長の目的は自分の天下統一。2人の間の溝が広がり、義昭は武田信玄や上杉謙信などと勝手に連絡を取り始めます。
これがウザったかった信長はガツンと一発かまします。諸国への手紙は信長のチェックを受けること、天下のことは信長が決めるなど、「統治に口出しすんなよ。おとなしくしておけ」という覚書を義昭に渡したのです。
これを見た義昭、「信長め。とうとう正体をあらわしたなー」とプッツン。
義昭は「将軍様の命令だ」と、諸国の大名に信長追討の手紙を送ります。意外にもこれが効果テキメンで朝倉、武田、本願寺、上杉など信長と敵対する大名らで信長包囲網ができあがりました。自分に軍勢がなくても指1本で他の大名を動かせる将軍職。一度やったらやめられないと義昭も思ったはずです。
しかし信長はこの包囲網を各個撃破して勝ち進みます。ついに義昭も挙兵して信長に対抗しますが、追いつめられた義昭は降伏し、都を追放されました。
こうして1573年に室町幕府は崩壊します。義昭は京都から退場し歴史の表舞台からひっそりと姿を消したのでした。
この後の義昭はどうなったのか? 凄いのはこの義昭、命があっただけもうけものなんて考えません。将軍職を手放さず、打倒信長を目指します。義昭が転がり込んだのは中国地方の主である毛利家。毛利家でも「義昭来たけど、どうすんの?」という話し合いのすえ、鞆(広島県福山市)に受け入れます。
こうして亡命政府として鞆幕府ができると、義昭は信長包囲網よもう一度とばかり、諸大名に手紙を出して信長追討を呼びかけます。
ただし毛利氏は、義昭のせいで信長との関係が悪くなり、争いに発展して大迷惑でした。
ところがこの義昭VS信長ガチンコ対決は本能寺の変で信長が亡くなりジ・エンド。秀吉の急速な勢力拡大を認めたのか、秀吉にはあっさりなびきます。秀吉と九州の島津との間をとりもつなどして存在感をアピールし、1588年に京都に帰還しました。
義昭は、ようやくここで将軍職を辞して出家します。皇族と同等の准三后を与えられ、晩年は秀吉のお伽衆になり、1万石の領地も認められました。准三后だったこともあり、それなりに遇されていたようで、61歳で亡くなりました。
義昭は、室町幕府再興のために暴走したトラブルメーカーでしたが、将軍引退後、前将軍として悪くない待遇をゲットしたようです!
前の2人が潔さや変わり身の早さで生き残ったのと異なり、義昭は将軍職をまっとう、いえしがみつくことで大名らを巻き込み、リアル炎上させましたが、それもまたある意味炎上商法。なんだかんだいって存在感のアピールに成功して第二の人生、高貴な文化人枠のポジションを手に入れたようです。
まとめ
3人ともそれぞれのやり方で乱世を生き抜き天寿をまっとうしました。所領も失い、元家臣を頼るなんて武将として情けないという声があるかもしれません。でもものは考えよう。武将だろうが公家だろうが、命があればいいさ!と考えると、生き残った3人は勝ち組だったといえます。
コメントを残す