源義経、明智光秀、真田幸村といえば不死伝説でも有名なヒーローです。
悲劇の最期を遂げたヒーローがじつは密かに生きていた!という伝説は、多くの人の願望なのかもしれませんね。
不死伝説の主人公の多くはヒーロー(男性)ですが、なかには悲劇のヒロイン、つまり女性のケースも。
その一人が2度も婚家先が落城し、2度目に夫と共に自害したという数奇な運命をたどったお市の方です。
このお市の方が忍者に助け出されて城から脱出して生きていた!というのですが・・・。しかも娘の淀殿ものちに落城で自害しますが、生き残った話も。母と娘のミステリー伝説に迫ってみました。
2度の落城 お市の方
お市の方といえば戦国きっての美女として有名ですが、その生涯は悲劇の連続でした。
お市の方は織田信長の妹、または従妹といわれており、政略結婚により最初は近江(滋賀県)の浅井長政に嫁ぎました。長政とお市の方は美男美女のお似合いカップル。3人の娘にも恵まれ、幸せな結婚生活に思えました。
ところが信長が越前(福井県)の朝倉家を攻めたところ、朝倉家と古くから親交のある長政は信長を裏切り、朝倉家に加勢します。
裏切られた信長の怒りは爆発。
姉川の合戦で朝倉・浅井軍を破ると、朝倉家を滅亡に追い込み、浅井氏の小谷城も包囲しました。小谷城は落城し炎に包まれ、長政は自刃します。しかしその直前、お市の方と3人の娘、お茶々、お初、お江は助け出されました。
その後、お市の方は実家で暮らしましたが、やがて兄の信長が本能寺で命を落とすと、織田家重臣である柴田勝家に嫁ぎます。3人の娘を連れて、福井の北ノ庄城へと移りました。
柴田勝家:Wikipediaより引用
しかし穏やかな日は長く続きませんでした。なんと1年もたたないうちに今度はその勝家と羽柴秀吉が争い、柴田側が敗北。羽柴方が北ノ庄城に攻め寄せてきたのです。
城下は焼き尽くされ、もはやこれまでと覚悟した勝家は最後に家臣らと共に盛大な酒宴を催します。そしてお市の方に娘たちを連れて城を出るように進めますが、お市の方はすでに娘だけを逃し夫に殉じる覚悟を決めていました。
娘たちを逃した夜半、天守閣の入口に枯草を積み、火をかけると、勝家はお市の方を殺害し、自らは腹をかっさばいて自害しました。
これがお市の方の最期の顛末です。どうして逃げなかったの~と叫びたくなるような切ない話ですよね。じつはこの最期が知られているのは、勝家が自分たちの最期を敵方に伝えよと老女に言い含めて城を脱出させていたからです。
しかしあえて伝えさせようとしたことや遺体が確認できなかったこともあり、いつしかお市の方の生存伝説が囁かれるようになりました。
浅井の忍者か!? 浅井治部左衛門登場!
意外なところに生存伝説が伝わっていたのです。それは三重県伊賀市。
お市の方が浅井治部左衛門(あざいじぶざえもん 治郎左衛門とも)という忍者によって助け出されていたというのです。
浅井という姓から見てもお市の方の前夫浅井長政の一族なのでしょうか。浅井氏の系図にはこの名はないようですが、浅井氏が忍者を抱えていた可能性は高いようです。たとえば伊賀忍者を使い、近江の太尾城に放火したという話や、上杉謙信がかつて忍者を召し抱えた時、その中に近江の浅井の忍者もいたともいわれています。
そんな浅井家の忍者の一人に治部左衛門がいました。浅井家が滅亡してから10年以上。その間ずっと彼がお市の方をストーカーしていた、いえ見守っていたのかどうかは分かりません。しかし北ノ庄落城に際して、治部左衛門は配下の忍者とともに城に潜入します。
侍女を替え玉に仕立ててお市の方が自刃したかのように装い、お市の方を城の裏手の足羽川から連れ出します。そして一行は川を下るようにしてその下流にある勝久寺(坂井市)の離れに逃げ込みました。
しばらく潜伏した後、そこも残党狩りで危うくなったのでしょうか。そこを焼いて逃れ、織田家とも親しかった三国湊の豪商森田家にかくまわれた後、近江国へと移ります。そして治部左衛門の案内で伊賀の下友田に落ち着き、ひっそりと余生を送り、秀吉が亡くなった翌年の1599年に53歳で亡くなったと伝えられます。
日比姓を名乗っていた治部左衛門は亡くなったお市の方ののど仏を大切に保管しましたが、3年後に病没しました。子孫は稲増(いなます)姓に改姓しますが、その蔵は断崖にあり、人も弾も寄せ付けぬ造りだったそう。かつて誰かを匿った蔵だったのでしょうか・・・。
お市の方は生き残ったものの身をひそめるようにして生涯をおくったようです。娘たちにはまったくその存在を知らせなかったのでしょうか。それも結構つらいですよね。
余談ながらここで身の毛もよだつこわーいお話をひとつ。
いつしか北ノ庄城が落城した4月24日の近い時期になると毎年、城下に黒衣、黒覆面の集団が行進するという奇妙なうわさが流れるようになりました。しかもその集団の人々には首がないようにも見えたと言われています。首のない黒集団ってかなり怖いですが、しかもこの集団に出会うと必ず死ぬという言い伝えも・・・。キャー勝家とお市の方の怨念かと誰だって思いますよね。
ただし一説によれば柴田家の遺臣たちが柴田家再興を目指し、決起の行進をしていたとも言われています。顔を見られないように黒衣をまとっていたともされますが、それはそれでかなり怖いかも・・・。城下の人々も恐れて外出を控えたそうです。
もしかしたら生きているはずのお市の方にいつかは再興します!という意思表示だったのかもしれません。
お市の方は伝説のように本当に生き延びていたのでしょうか。
もしお市の方が生きることを望んだとしたら、それは3人の娘の行く末が気がかりで見届けたかったからでしょう。その娘たちはそれぞれ運命に翻弄されながらも最終的に次女のお初は京極高次の妻、3女お江は2代将軍秀忠の御台所という幸せをつかみました。
また、長女の茶々は秀吉の側室となり、豊臣家の跡継ぎとなる秀頼を生み、秀吉亡き後、秀頼の母としての栄華を謳歌したかに見えました。
お市の方は娘たちの幸せを知り安堵して亡くなったのかもしれませんね。茶々こと淀殿が秀吉の側室になったのは残念だったかもしれませんが、織田と浅井の血を引く秀頼が天下人に・・・。彼女もそれを喜んだのではないでしょうか。
淀殿の3度目の落城
淀殿:Wikipediaより引用
しかしお市の方の死後、淀殿の運命は暗転し、やがて悲劇の最期を迎えます。
関ヶ原合戦を経て1615年、豊臣家は徳川家康に攻められ、大坂城の落城とともに秀頼とともに自害に追い込まれました。なんと淀殿は生涯で3度も落城を体験し、最後はわが子とともに自刃したのです。
じつは淀殿こそ母に輪をかけた悲劇のヒロインだったようです。
3度も落城した上に息子と自害だなんていくらなんでも気の毒すぎる!淀殿にも生きていた話はない?とご心配な方はどうぞご安心を。
じつは驚くことにこの淀殿にも生存伝説があります。一つは薩摩に逃れた説。こちらは秀頼にもその伝説があるので一緒に逃れたということでしょう。
もう一つが群馬県前橋市に伝えられる生存伝説です。こちらはあまり喜べないのですが・・・。
大坂落城の混乱の中、徳川方として参加していた総社藩(前橋市)主の秋元長朝の陣に、城内から逃れてきたとおぼしき1人の女性が半狂乱になって助けを求めてきました。長朝は、その豪奢な装いから長朝は彼女が淀殿であると察します。そして家康らに報告せず、ひそかに駕籠に乗せて自らの居城・総社城まで運び幽閉しました。
ひそかにってなんか魂胆でもあるの?と心配になりますが、長朝はどうやら淀殿の美貌にコロッとまいったようで、自らの側室にしようとしたのです。しかし淀殿はこれに応じません。ついに淀殿はわが身の不幸を嘆いてお艶が岩の上に立つと、利根川に身を投げたともいわれています。あるいは、首を縦に振らない淀殿に怒った長朝が箱に閉じ込めて利根川に流したとも伝えられます。
箱に入れて流すとはヒドイ! せっかく助けられたのにあんまりですよね。
長朝が淀殿を助けた理由
じつはこんなあこぎな話になったのは、長朝が秘かに連れ帰ったのが原因です。
通常であれば敵である淀殿を匿うことなんて考えられません。あるとすれば下心を抱いたからではないか・・・と勘繰りますよね。
でもじつは長朝には淀殿を助ける理由がありました。一説によると、長朝は淀殿の父浅井家の家臣だったという説もあります(元上杉家家臣のようなのですが)。もし浅井家と関わりがあったならば淀殿を連れ帰ったのは下心などではなく、主君の姫君を哀れに思い、助けようという気持ちからだったのかもしれません。
そのため長朝は淀殿に非道なことをしたわけではなく、淀殿は「大橋の局御縁様」と呼ばれ、静かに暮らしたものの今の境遇を悲観して身を投げたという説もあります。
秋元家の菩提寺である元景寺(げんけいじ)には、淀殿所有される豊臣家の桐紋、浅井家の菊紋があしらわれた駕籠の引き戸や金糸、銀糸がほどこされた豪華な打掛が伝えられています。生存が事実かどうかはともかく、秋元家と淀殿との間には交流があったのかもしれませんね。
母と子がそれぞれ落城で命を落とすとは何とも悲劇な話ですよね。その哀れさが、
2人がじつは生き延びていたなんて不思議なミステリーを生み出したのでしょうか。
その後の2人にはそれぞれの人生ドラマがありました。お市の方はこうした生存伝説によくある身を隠しながらひっそりと生涯を終えました・・・で終わっていますが、淀殿は生存伝説でも悲劇に襲われています。最期が良くないのは、淀殿には悲劇のヒロインというよりも豊臣家を滅亡に導いた悪女のイメージがあるからでしょうか。以降もどこかで生きていた・・・なんてミステリーはもうないですよね。
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