信長をめぐる3人の女たち

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信長には織田一族の連枝衆、歴戦の勇猛な武将たち、ご自慢の美しい小姓衆が仕えていましたが、何もまわりを男だけで固めていたわけではありません。当然女性も居ました。今日はそんな信長をめぐる女性たちのお話を。

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濃姫

美濃の国守斎藤道三の娘で、15歳で信長の正室として尾張の国に輿入れしました。美濃と尾張の攻守同盟の証としての政略結婚ですが、まぁ普通のことです。美濃の国では帰蝶(きちょう)の方と呼ばれていて、濃姫の呼び名も美濃の国のお姫様だからと言う程度の話しです。

 

輿入れの前夜父道三は娘を呼びつけ「婿殿はうつけ者との評判、まことならこの刀で討ち果たすが良い」と一振りの短刀を差し出します。濃姫ニッと笑って「父上を刺す刀になるやも知れませぬ」と返します。まこと蝮の道三とその娘にふさわしい会話です。濃姫は自分の立場と役割をよく理解していたのでしょう。気丈で聡明なお姫様です。

 

織田家に送り込まれた濃姫は、自身の務めとして織田家の内情、特にこの頃うつけ者を装っていた信長の本性を探り、それを実家への手紙で知らせます。しかしそれを読んでも道三は首を傾げるばかり。本物のバカなのか策略なのか、決めかねる内容なのです。

 

こうなれば自分の目で確かめるしかない。そう思い立った道三の申し入れで、二人の会見は実現します。場所は尾張国境に近い美濃の正徳寺、そこへ信長を招きました。舐められてはならぬと道三は、正装した八百人程の家臣を道の両側にズラリと並べ、自身は物陰に隠れて様子を伺います。

 

やって来た信長の一行、こちらも八百人ばかりの御伴衆が整然と列を整え、三間半の朱槍五百本、弓・鉄砲五百挺を携えた家来衆が続きます。道三、まずこれに先制パンチを喰らってしまいました。

 

しかし肝心の信長はと見れば、噂通りのだらしない恰好。「うむ、やはりなぁ」と頷きつつ会見場所の広間へ向かいます。そこへ現れた信長、髪をきっちり結い上げ、かち色(濃紺色、鎌倉時代の武士に愛された色です)の長袴に小ぶりの刀と言う礼儀にかなった出で立ち、態度も実に堂々としています。

 

すっかり気圧されて面白くない道三ですが、以後信長のことをうつけ呼ばわりはしなくなりました。油断ならぬ男とわかったものの、同盟の相手としては頼むに足りると思ったのでしょう。しかしこの後道三は、実の息子の義龍(よしたつ)と争い敗死します。

 

濃姫はどうなったかと言うと、これ以降はよくわからないのです。早世したとも、子も無く道三が死んだ今、政略結婚を続ける意味も無くなったので、美濃へ帰されたとも言います。たとえ農姫が聡く美しかったとしても、こちらの内情を実家へ書き送るようでは、信長としても、とても傍に置いておく気にはならなかったでしょう。

 

 

生駒氏

鷹狩りのおり休息に訪れた家で、その家の美しい娘に出会う。心惹かれるまま一夜の契りを結び、翌朝後々の証拠にと脇差を与えて別れて行く。物語にある話ですが、信長にもそんな出会いがありました。一つ違っていたのは信長は、その娘に惚れこんでしまって、その後も足繁く通い、とうとう子供までもうけてしまったのです。

 

この娘の名を生駒吉乃(いこまきつの)と言い、子供時代のトラウマで女性不信の信長が、生涯にただ一人心を許した女性と伝わっています。色白の細面の美女で、やさしく控えめな人柄、信長よりも6歳年上でした。

 

尾張の国丹羽郡小折村(にうぐんこおりむら)の豪族生駒家宗(いえむね)の娘で、土田弥平次(つちだやへいじ)に嫁ぎましたが、夫が戦死したので実家に戻っていました。

 

せっせと通う信長との間には、ほどなく長男奇妙丸(きみょうまる、信忠)が生まれ、その後も信長の寵愛は深く、次々と年子で次男茶筅丸(ちゃせんまる、信雄)、長女五徳(ごとく、徳姫)が誕生します。「腹の空く暇がない」と言われるほどですが、これが生駒氏の健康を損ねました。栄養状態・衛生状態も良くない当時の事、母体に無理がかかったのです。

 

小牧山城を築き、吉乃を御台御殿(みだいごてん)に迎えようとしていた信長、しかしその時には吉乃はもう、起き上がるのもやっとの身体になっていました。生駒家に駆け付けた信長は病床の吉乃の手を取り、「そなたのために新しい御台御殿を用意してある。そこでゆっくり養生なさるが良い」と励まします。

 

信長の言葉に力を得た吉乃は小牧山城に移り、信長に手を取られて「御台の座」に着きます。「御台の座」は正室の座る場所、信長はこの時吉乃を正室として扱い、三人の子と重臣たちに拝謁させました。しかし無理がたたったのでしょうか、『信長様、八方手を尽くし御介抱され候も、薬石の効無く遂に御逝去』と“武功夜話”にもある通り、翌年吉乃は息を引き取ります。

 

吉乃を失くした信長の落胆ぶりは激しく、日ごと小牧山城の望楼に登り、吉乃が葬られている久昌寺(きゅうしょうじ)の方角を見つめて、涙していたそうです。

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お鍋の方

この方は登場の仕方がちょっと変わっています。近江の国野洲郡北里村の土豪高畑源十郎の四女で、同じく近江の山上(やまかみ)城城主、小倉右京亮実房(うきょうのすけさねふさ)に嫁いで子供も二人生まれています。

 

ところ日野城主蒲生定秀に攻められ城は落城、自身は自害に追い込まれてしまいました。この後お鍋の方が取った行動がユニークなのですが、子供二人を連れて岐阜城の信長の元へ行きお目通りを願い出ます。小倉右京亮の妻と名乗り、「夫が信長様にお味方したため、城は落ち夫は自害、我等親子三人、行く当てもございませぬ」と訴えたのです。

 

そもそも戦国の世で同じような境遇に陥った人などいくらでも居たでしょうし、どんな伝手が有ったのか、よく信長に目通り出来たものだと思いますが、これには事情が有りました。信長はかつて実房に二度命を助けられていたのです。

 

一度目は将軍足利義輝に謁見を果たした信長が、刺客に襲われ急ぎ尾張の国へ戻る時、難所と言われた八風峠(はっぷうとうげ)越えを道案内したのが、実房でした。

そして二度目、元亀元年(1570年)金ヶ崎の戦い(朝倉義景領に侵攻するも、浅井長政の裏切りに会い撤退)で、今度は朽木峠(くつきとうげ)越えに協力します。この裏切りにより実房は攻め滅ぼされたのです。

 

さすがに信長も同情し、親子を城内に留め置きました。そののち近江を攻略した信長は、かつての実房の本拠地山上城の跡地近くに、壮大な石垣を持つ高野城を築城し、そこにお鍋の方を入れました。

 

二人の子供を連れてお鍋の方が岐阜城に乗り込んでから、どこでどうなったのかはわかりませんが、この時にはすでに信長の寵愛を受けていたと言うことです。そののち生駒氏吉乃が亡くなり、信長はお鍋の方を正式に側室に迎えました。「お鍋」と言う妙な名前も信長が付けたもので、本名は伝わっていません。

 

この方と信長の間には二男一女が生まれます。七男信高(のぶたか)、八男信吉(のぶよし)、娘於振(おふり)で、この3人が織田家の血脈を現代まで保って行きます。

 

一方小倉氏との間に生まれた二人の男子(長男甚五郎と次男松千代)ですが、信長の庇護を受け父親の領地も安堵され、信長家臣として務めていました。特に次男松千代は成長して名を小倉松寿(おぐらまつとし)と改め、本能寺の変の夜も信長の供をして京都の宿屋に泊まっていました。変事を聞き急ぎ本能寺へ駆けつけ主君のために奮戦しましたが、力及ばず討ち死にしました。

 

お鍋の方は本能寺の変の後、安土城は焼け落ち、長浜城も明智の支配する処となった為、わずかな家臣と共に行方をくらまします。事が治まったのちは、秀吉から高野村に五百石の知行を与えられ、信長が残してくれた高野城に住みました。文学に親しみ公家衆とも交流があり、江戸の世が始まるまで生きたと言われます。

 

 

婚姻戦略

信長も他の武将の例に漏れず、婚姻関係を政略の道具として使っていました。姉妹や子供たちに関しては、通常以上にうまく作戦を練っています。しかし自身の嫁取りに関しては、最初の濃姫のみが政略がらみで、あとの女性は自分の好みを押し通しました。

 

彼は実母土田御前(どたごぜん・つちだごぜん)に疎まれて育ちました。土田御前にすれば、うつけ者と評判の信長より、品行方正の弟信行の方が可愛かったのでしょう。

うん、わかるよお母さん、でもねそれじゃ戦国の世は乗り切れない。

 

母に疎まれた心の寂しさを埋めるように、傍に置く女性は、身分などに縛られぬ優しい人を求めたと言われています。

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