井伊直虎とお田鶴の方 女城主たちの戦国バトル

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今や大河ドラマですっかりおなじみとなった井伊谷(静岡県浜松市北区)の女城主井伊直虎。彼女は井伊家当主の直盛の一人娘として生まれました。しかしその後、井伊家では戦死や今川家による謀殺で、男性がいなくなってしまい、直虎が男性の名前で城主になりましたよね。

直虎は意志が強く賢い女性だったようで、今川家の圧力や家老の裏切りにもめげず、激動の時代に領地を立派に守ります。そしてかつての婚約者が残した直政を育て上げました。

 

その直虎が女城主となった1560年代、井伊谷の近くにあった引馬城(曳馬城とも。静岡県浜松市中区)の飯尾氏にも女城主が誕生しました。彼女の名はお田鶴の方。宇津山城主の小原鎮実の娘で、引馬城主の飯尾連龍に嫁ぎます。その連龍亡き後、女城主になり城を守りました。このお田鶴の方は小さいころから大石を抱えたり、弓矢を操ったりした強い女性。気も強くカッコイイ女性だったそうです。

 

直虎とお田鶴の方。この2人の女城主は、ともに今川家に翻弄されながらいつしか宿敵となりバトルを繰り広げます。2人の因縁はなんとお田鶴の方が井伊家の当主直平を殺害したのが始まりでした。

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1560年代の遠江・駿河

そんな毒殺事件が起こった背景には、遠江・駿河の大混乱があります。皆さんもご存じのように、1560年の桶狭間の戦いで、遠江・駿河を支配していた今川義元が織田信長に討ち取られました。するとこの一帯の状況がガラリと変わります。義元の跡継ぎの氏真がだらしのない弱虫だったので、今川家はどんどん弱くなっていったのです。

 

こうなるとそれまで今川家の配下にあった領主たちが、好き勝手に動き出すわけです。今川家の人質だった徳川家康は独立して三河を取り戻しました。やがて家康、武田信玄が今川の領土を狙い始めると・・・。井伊や飯尾など駿河・遠江の領主たちは今川、徳川、武田の誰に従えば良いのか悩みますよね。ここに生き残りをかけたサバイバルが始まったのです。

 

井伊家の場合

井伊家では当主の直盛(直虎の父)が桶狭間の戦いで戦死し、養子の直親が跡を継いでいました。この直親はかつての直虎の婚約者。直親は幼い頃に実父を今川に殺され、自身も約10年間の逃亡生活を送って井伊谷に戻ってきたという大変な苦労をした人です。直虎とは結局、結婚しませんでしたが、直盛の跡を継いで井伊家を盛り立てようと頑張っていたところ・・・。この直親も氏真に「寝返っただろう」と疑われて殺されてしまいます。そこで井伊家では仕方なく隠居していた直虎のひいおじいさんの直平が井伊家の当主に返り咲きました。

 

飯尾家

飯尾家も桶狭間の戦いで当主の乗連が戦死したため、その子の連龍が当主になりました。その奥方がお田鶴の方です。

 

井伊直平を毒殺させたお田鶴の方

井伊家当主となった直平がある時、引馬城を訪れます。じつはこの時、直平は行き違いで氏真から疑われ、バツとして徳川方に寝返った天野氏を攻めなさいと命じられていました。引馬城に立ち寄ったのはその戦いに行く途中でした。

 

この時、お田鶴の方が夫の連龍にささやきます。「直平殿を殺しましょうよ」。こんな時の女性って怖いですよね。お田鶴の方は直平らを出迎え、笑みをたたえながら毒入りのお茶を差し出します。お田鶴の方の心のうちを知らない直平は「かたじけない」と茶を飲み干すと馬に乗り、出発しました。

 

ところが突然気分が悪くなり、体がすくんで落馬し、死んでしまうのです。直平の家来たちが引馬城に引き返すと、城はすでに籠城してがっちり固められていました。また、家来の多くも毒死したといわれています。

 

お田鶴の方はなぜ直平を毒殺したのでしょうか。自分たち飯尾家も氏真に疑われていたので、直平を殺してその疑惑をそらしたいと思ったようです。じつは氏真の命令だったとも。

ほかにもすでに飯尾家が徳川家に寝返っていて、親戚の天野氏攻めをやめさせたかった?あるいは遠江で勢力を伸ばすため、ライバルの井伊家が邪魔になり直平を殺したのでは?なんていう説もあります。

 

本音は分かりませんが、

この時から直虎とお田鶴の方は因縁の宿敵となったわけです。

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直虎の復讐!

頼りにしていた曽祖父を殺された直虎のショックははかりしれません。しかし恨みを晴らすチャンスは意外に早く訪れました。

飯尾氏の徳川への寝返りを疑った氏真が「連龍を捕えよ」と井伊家に命じたのです。直虎はここぞとばかり、城代の中野直由や新野親矩らに引馬城を攻めさせました。

 

ところがこの飯尾夫妻、なかなか手ごわい相手でした。連龍はなかなかの戦上手。女丈夫のお田鶴の方と一緒に、守りのかたい城をたてにしながら鉄砲や矢をうまく使い、逆に井伊側の中野や新野を討死させたのです。井伊家では多くの兵が戦死してしまいました。

 

飯尾側が井伊側を返り討ちにしちゃったわけです。お田鶴の方が井伊家をライバルと思っていたのなら、井伊家の弱体化は望むところ。井伊に勝って「してやったり」と意気高らかだったでしょう。直虎は直平の復讐どころか重臣も失ってピンチです。

 

ところが今度はお田鶴の方が不幸のドン底に突き落とされる番でした。

「許す」という氏真の言葉を信じて駿府に行った連龍でしたが・・・。駿府で連龍は氏真の命により殺されちゃいます。この時、お田鶴の方も一緒に戦って抵抗したといわれています。

 

2人の女城主への道

当主の連龍が討ち取られると情けないことに飯尾家の家来たちは慌てて逃げ出します。「ならば私が!」とお田鶴の方が、残った家来を束ねて女城主に収まりました。彼女は城の守りをかため、生き残りをかけて武田と手を組む準備を進めます。

 

一方、井伊家も直平が殺され、残された男性は直親の忘れ形見の幼い虎松だけになりました。直虎は若くして出家していたのですが、周囲の人々の考えで直系のお姫様である直虎が還俗(僧侶をやめる)して井伊家の女城主となります。ちなみに直虎という名前はこの時から名乗ったものです。

 

こうして、毒殺事件をきっかけに宿敵となった2人が女城主になりました。

 

 

ただし直虎も憎きお田鶴の方にかまっているヒマはなかったようです。直虎の敵はお田鶴の方だけではありません。今川家が無理難題をふっかけてくるわ、家老の小野が直虎を追い落とそうと悪巧みを仕掛けてくるわで、家を守るのに必死でした。

でも直虎は頭脳を使って次々とピンチを切り抜けていきます。

 

今川家が押し付けてきた徳政令(人々の借金の帳消しにすること)を何年間か知らんぷりして、その間に領内の貸した側の商人が困らないように準備しました。

また、城を小野に乗っ取られてついに大ピンチ! になったこともありました。そこで直虎は「これからは徳川だ!」と徳川家康を遠江に引き入れ、井伊谷城を奪い返し、小野を処刑して女城主に復帰します。

 

お田鶴の方 最後の戦い!

再び女城主となった直虎が、ついにお田鶴の方と決着をつける時が訪れます。直虎は遠江での勢力拡大を狙う家康を引馬城へと案内しました。

 

ただし家康はお田鶴の方に「この城を明け渡せば家臣は召し抱えるし、あなたの生活も保証します」と好条件を出しています。

 

でもね、飯尾家だって今川家の優しい言葉を信じてだまされてきたわけです。だから家康の言葉も簡単に信じられません。それに徳川より武田の方が強そうだし、おまけに自分を恨んでいる直虎が徳川についているのも何か裏がありそうだしということで、お田鶴の方はやっぱり武田に味方すると決めます。武田が今川も徳川もそして井伊も一気にやっつけてくれるはず! と期待したのかもしれません。

 

ところが武田を受け入れる前に家康が攻めてきました。お田鶴の方は、最後は意地を貫こうと決めます。

「私は女といえども、もののふの家に生まれたものであれば、おめおめ降参することはできません。これが女の志です」と家康からの降伏のすすめをつっぱねたのです。

 

お田鶴の方は約700人の家来たちを指揮して押し寄せてくる徳川軍の兵を300人も討ち取ります。しかし大軍の徳川勢がどんどん攻めてきて三の丸、二の丸と破られていきました。

 

お田鶴の方は覚悟を決めます。緋縅の鎧に同じ毛の兜をつけ、長刀を振るって17人の侍女とともに敵中に斬り込みました。無双の強力で徳川兵をバッタバッタと鮮やかになぎ倒し、冥途の土産にと血祭りに上げていきます。初めは女とあなどっていた徳川兵も本気になり、死闘に。お田鶴の方は城から出て力尽きるまで戦い抜きました。精いっぱい戦って最後は討死したとも切腹したともいわれています。

 

こうして直平を毒殺したお田鶴の方が死んで、直虎は復讐を果たしましたが、お田鶴の方も女の志を貫いた点では負けていませんよね。

 

椿姫塚

お田鶴の方も直虎も、家と家臣たちを守るために奮闘していただけなのに、いつしか運命によって宿敵同士になってしまいました。そんな中でも自分の生き方をそれぞれ貫いた姿はカッコイイと思いませんか?

直虎は根気強く家を守り抜いた頭脳派の頼もしい女城主です。この後ものちの徳川四天王とよばれる井伊直政を育て上げ、徳川家へ出仕させます。井伊家の彦根藩主への道を切り開きました。

一方で、もののふの生まれらしく自ら道を切り開き、最後は女の志を貫いて散った、ギラギラしたお田鶴の方も戦国の女傑にふさわしい女城主だったのではないでしょうか。

 

なお、家康はお田鶴の方を気の毒に思って、彼女と侍女たちをねんごろに弔い、祠を建てて祀りました。お田鶴の方と親戚だったという家康の正室築山殿がその死をいたみ、塚の周りに多くの椿を植えたため椿姫塚と呼ばれています。

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