細川ガラシャ 夫の愛より神の愛を選んだ戦国の花

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お市の方と共に、戦国の世にその美貌を謳われた細川忠興の正室ガラシャ玉子。この方の悲劇は、明智光秀の娘として生まれてしまったことに尽きるでしょう。その物語などお話します。

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光秀謀反

天正10年6月、その一報が山城の国勝竜寺城へもたらされた時、玉子の衝撃はいかほどのものだったでしょう。「まさかあの父上が」玉子の父明智光秀は、道理をわきまえ頭も良く、軽はずみなことをする人間ではありません。その父が主君織田信長に刃を向け、本能寺で自刃に追い込んだとは。しかしいくら打ち消したくとも、事実は変わりようも無かったのです。

 

 

玉子輿入れ

これより4年前の天正6年8月、玉子は住まいしていた近江の国坂本城から、信長の武将細川藤孝(幽斎)の嫡男忠興の妻となるため、その居城竜寺城へ輿入れします。

 

この縁談は主君信長の肝入りでした。明智光秀・細川藤孝、この二人の優れた武将を縁組によって結び付け、より一層自身への忠勤に励んでくれるようにとの思惑でした。政略結婚ではありましたが、玉子と忠興は誰が見ても似合いの夫婦でした。

 

家柄こそ足利将軍にも仕えていた細川家に比べ、明智の家は、清和源氏の流れを汲むと言うものの、光秀の親の出自も定かではない低いものでした。もっとも光秀自身は故事来歴にも明るく教養も優れ、趣味人として知られた藤孝とは家ぐるみの親しい間柄。

 

婚礼当日、城の客殿に雄雛雌雛よろしく並んで座った16歳の二人は、まことに絵に描いたような夫婦でありました。

 

婚儀より4年、戦場を駆けることの多かった夫忠興でしたが、二人の間には一男一女を授かりました。また細川家も明智家も、数々の武功により信長から次々に領地を拝領し、幸せな日々が続きます。

 

 

暗転

本能寺の変:Wikipediaより引用

穏やかな日々を打ち砕いた光秀謀反の知らせ。その衝撃が治まって来ると、玉子の胸には「舅殿と夫が父の味方してくれていれば」との思いが沸き起こって来ました。父は娘の婚家、細川家の援助を、当てにしていたのではないだろうかと思ったのです。

 

しかしこれは無理と言うもの。誓紙を交わして約束しても裏切られる戦国の世、「見込みの援助」など何ほどの価値がありましょう。藤孝・忠興親子は信長の死を知ると、髻(もとどり)を切り喪に服し、謀反の心の無いことを表して、細川家の安泰を図ります。藤孝はこの時名を幽斎と改めました。

 

細川家は動かず、頼りにしていた高山右近・筒井順慶らの味方も得られません。光秀は備中高松城攻めより取って返した羽柴秀吉に、山崎の合戦で敗れます。

 

ようやく秀吉軍の囲みを脱しますが、京都伏見の小栗栖まで落ち延びたところで、土民の竹槍に貫かれ、もはやこれまでと覚悟を決めます。側近の溝尾庄兵衛尉(みぞおしょうべえのじょう)に首を打たせて果てました。本能寺の出来事よりわずか12日めの事でありました。

 

 

玉子幽閉

「私の首を秀吉様の元へ」謀反人の娘を嫁に迎えてしまった婚家への不義理を思うと、玉子の偽らざる言葉でした。しかし同時に、父光秀を見捨てた細川親子への、複雑な心もあったのです。

 

「玉子を死なせたくない」そんな忠興に父親の幽斎は申し渡します。

細川幽斎:Wikipediaより引用

「忠興、そちの気持ちはよう分かるが、玉子をこのままにしておくわけには参らぬぞ」

 

忠興と玉子は形ばかりの離別をし、玉子を細川家から出すことにします。とは言っても玉子の帰るべき実家はすでに無く、丹後の山奥味土野(みどの)の地へ移すことにしました。味土野と言うのは丹後半島の中央部、現在の京都府京丹後市に在り、北西には標高613mの金剛寺山がそびえる、人里離れた土地です。

 

見渡す限り山また山、幼い二人の子とも引き離され、身の回りに仕えるのは数人の警固の武士と2、3人の侍女ばかり。

細川忠興:Wikipediaより引用

「いずれ時を見て迎えをよこす」別れる時の忠興の言葉も、何の慰めにもなりませんでした。

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信仰との出会い

幽閉中の玉子に付き従う侍女の中に、小侍従(こじじゅう)と名乗るものが居ました。細川家と縁続きの公家、清原頼賢(きよはらよりかた)の娘で、玉子より2歳年下。

 

この侍女、玉子が坂本城から忠興の元へ輿入れの途中、立ち寄った京都清原家で玉子と出会いました。その人柄に惹かれて自身より侍女になることを申し出、その時より幽閉先の味土野まで、玉子の傍につき従っていたのです。

 

玉子も他の侍女と同じには思わず、小侍従も玉子に直言することにためらいはありません。そして彼女は、マリアの洗礼名を持つキリシタンでありました。

 

「私の信じる教えでは、神はご自身の愛でられた者にこそ、大いなる試練を与えられると申します」

 

最初のうちこそ、この小侍従の言いように反発していた玉子ですが、主人を思う真摯な心根に触れるうちに、次第にキリストの説く教えに惹かれて行きました。

 

天正12年3月初め、大坂玉造の細川邸から幽閉を解くとの知らせが届きます。「神は私をお見捨てにならなかった」一報を聞いた時そう感謝するほど、すでに玉子の心はキリストの教えに傾倒していました。

 

 

二年の歳月

許されて味土野から戻った玉子でしたが、夫婦が離れて暮らした二年の歳月は長かったのです。

 

「これも全て秀吉公のお蔭ぞ」光秀の娘である玉子に、秀吉が見せた寛大さを感謝して、夫忠興はそう言います。玉子は神の思し召しと思っていたのですが。

 

婚家に戻れたことを喜ぶ玉子でしたが、夫忠興のそばには側室が侍っていました。この当時武将が側室を持つのはありふれた話ですが、玉子の父光秀は、母熙子(ひろこ)一人を生涯の妻とし、側室を持とうとはしませんでした。

 

実は熙子は光秀と婚約中に疱瘡(ほうそう)を患い、美しかった容貌を失ってしまったのです。そんな熙子を嫁がせるのをためらった父親は、身代わりに熙子の妹を光秀に勧めました。しかし光秀はそんな小細工を嫌い、約束通り熙子を娶り、一人の側室も置かず終生の妻として遇したのです。

 

そんな父母を見て育った玉子には、忠興の不実が許しがたいものに思えました。そして、幽閉されている間あれほど会いたく思った二人の子供は、二年の間に母を忘れていました。

 

 

洗礼

玉造の細川屋敷に戻っても玉子は一人でした。その美貌が色好みの秀吉の目に留まり、召し出されるのを恐れた忠興は、玉子に一切の外出を禁じたのです。

 

「小侍従、私を教会へ連れ行っておくれ」信仰の世界に救いを求めた玉子は、忠興が秀吉の九州攻めに従って出陣した留守に、城を抜け出し教会へ足を踏み入れます。出会ったセスペデス神父に、洗礼を授けてくれるよう願いますが、玉子が忠興夫人であることを見抜いた神父は、いま少し時を待つように諭しました。

 

天正15年6月、秀吉の突然の“伴天連追放令”が世に発布されます。20日間を限りに、宣教師たちへ国外退去を命じたのです。

 

「神父様が国へ戻られれば、私は受洗が受けられなくなる」嘆く玉子の代わりに、小侍従は教会へ走りました。玉子の変わらぬ受洗の願いに感動した神父は、自身に替わって洗礼を授けるよう、小侍従マリアに命じます。洗礼名は“ガラシャ”神の恵みと名付けるようにと。

 

九州遠征から戻った忠興は、玉子の受洗を知り怒り狂います。秀吉公の情けで救われた命なのに、その方に逆らうのかと言うのです。短刀を突き付け信仰を捨てよと迫る夫にも、玉子は屈しませんでした。

 

 

人質

慶長3年8月秀吉が亡くなり、世は関ヶ原の合戦へと向かいます。その直前、会津の上杉景勝を攻めるべく、関東へ向かう徳川家康に従って忠興は出陣します。「玉子よ、儂の留守中決して屋敷の外へ出てはならぬ」そう言い置いて。

 

家康が関東へ向かうと、石田三成は家康追討の兵を挙げます。同時に、大阪に住まいしている家康麾下の武将の妻子を、人質に取らんと迫りました。

 

自分が三成の人質になれば、その経緯はともかく、夫は家康に面目が立たなくなるだろう。また、思うように動けなくなるのではないか、玉子はそれを恐れました。自分のせいで、これ以上細川家に迷惑はかけられぬ。

 

「夫の許しなく屋敷の外へ出ること、固くお断り致します」三成からの再三の申し出をはねつけた玉子は、子供やそば仕えのものを屋敷から逃がします。

 

「拒むとあらば、兵を差し向ける」その言葉通り、石田方の兵が押し寄せる中、家老の小笠原小斎(しょうさい)に胸を貫かせ、玉子は38歳の生涯を閉じます。キリストの教えに従い、自害は出来なかったのです。玉子の最後を見届けた小斎は屋敷に火を放ち、警固の侍ともども切腹して果てました。

 

玉子はキリシタンとして、取り立てて迫害を受けたわけではありません。また夫忠興は、玉子にはただただ生きていて欲しかったでしょう。それらを振り捨てて死を選んだ玉子。婚家と実家の板挟みとなり、親を見捨てられた思いを胸に、夫・舅に従わなければならなかった自分。夫の愛よりも神の愛を求めたのでしょうか。

 

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」玉子の辞世の句とされる歌です。

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