もうちょっと協調性が必要です。石田三成(別名「コミュ障」)、切れ者すぎた男の悲哀

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大河ドラマ「真田丸」のおかげもあって、石田三成の評価は依然に比べて急上昇しましたよね。

私もずっと見ていましたが、中間管理職の悲哀的なものもにじみ出ていて、三成、苦労してたんだなと同情するところがたくさんありました。

さて、そんな三成ですが、いったいどうやって政権の中枢にまでのし上がっていったのでしょうか?

頭脳を武器に(だから戦は下手)戦国の世を戦った石田三成、潔い最期までを徹底解説していきましょう!

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秀吉に一発で気に入られた寺小姓

永禄3(1560)年、ちょうど桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破った年に、石田三成は近江国(滋賀県)に生まれました。

幼名は佐吉(さきち)と言います。ドラマなどでは、豊臣秀吉やなじみの武将に「佐吉!」と呼ばれていることが多いんですが、それはこの幼名なんですよ。

 

天正2~5(1574~1577)年ごろから豊臣秀吉(当時はまだ羽柴秀吉)に仕えるようになったという記録があります。

 

では、三成が秀吉に仕えるようになった有名な逸話「三献(さんこん/さんけん)の茶」についてご紹介しましょう。

 

鷹狩りの帰り、喉が渇いた秀吉が、三成が寺小姓をしていた寺に立ち寄り、茶を所望しました。

三成は、1杯目は大きめの茶碗にぬるめの茶を出し、2杯目は少し小さめの茶碗にやや熱めの茶を出しました。

そして3杯目を秀吉が所望すると、舌が焼けるほど熱いものを出したといいます。

ひどく喉が渇いているという秀吉の様子を見抜き、その渇きを癒すために段階を踏んで暑さの違うお茶を出したというわけなんですね。

「気の利く奴よ!」

と一発で三成を気に入った秀吉は、そのまま城へ連れて帰り、自分の小姓として採用したのでした。

 

刀よりも筆と頭脳が自分の武器! 文官の道を歩む

賤ケ岳の戦い:Wikipediaより引用

やがて、本能寺の変で信長が討たれると、その仇討ちに成功した秀吉は、一気に力をつけて政権の中枢に座るようになりました。

対抗勢力の柴田勝家(しばたかついえ)を賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで滅ぼすと、九州征伐、小田原征伐を経て天下統一へ邁進、ついには朝鮮にまで出兵していくこととなります。

 

三成は、賤ヶ岳の戦いでは武功を立てたという記録がありますが、基本的に裏方として秀吉政権を支えています。

裏方とは、つまり補給などのことですね。

補給は戦の生命線です。

1人の兵に必要な兵糧や弾薬、矢の数量を計算して、足りなくならないように運ばせるのが補給役の任務なんですよ。

これって、いろんな部署との折衝も必要になるでしょうし、考えてみたら意外と厄介な仕事ですよね。

複数のことを同時進行できる人じゃないと、務まらないかもしれません。私には無理です…。

 

戦で活躍して、「首取ったどー!」という目に見えてわかりやすく華々しい働きもカッコいいですが、三成がしていたような地味な役割がいてこその戦だったんですね。

その辺は、さすが天下人・秀吉という感じで、三成をはじめとした文官大名にも多くの領地を恩賞として与えています。

三成には近江佐和山(おうみさわやま/滋賀県彦根市)に19万石の領地を与え、大名として労をねぎらっているんですよ。

他にも、三成は検地奉行として、全国の田畑面積と収穫量を調べ、各地の課税情報をまとめて中央に集める作業も行っていたんです。

コツコツやる作業は彼の得意とするところだったようで、彼は本当に官僚向きの人物だったんですね。

 

戦下手だと? 自覚はあるのだ!

忍城:Wikipediaより引用

三成が戦下手だと言われる根拠は、秀吉による小田原の北条氏を攻めた時に、彼が北条方の忍城(おしじょう)攻めを任された時のことなんです。

ちょっと攻めにくい城ではあったようですが、それにしても三成がいくら頑張って攻めても…落ちない! これが全然落とせない!

困った三成は水攻めにしてみましたが、水浸しになって収拾がつかなくなってしまいました。

もうどうしようもないので、戦上手で知られる真田昌幸(さなだまさゆき)にご登場願うことになってしまったんですよ。

 

三成には、自分が戦下手という自覚はあったみたいです。

まず部下にしようと目を付けたのが、島左近(しまさこん)。

歴戦の勇将として有名でしたが、当時は浪人の身でした。

島左近:Wikipediaより引用

そこで三成は左近に、ぜひ家臣になってほしいと頼み込みます。

断られ、頼み込み、断られ…これを何度も繰り返した挙句、何と三成は自分の禄高(ろくだか/給料だと思って下さい)4万石のうち、2万石を左近にあげると言い出したんですよ。

主と部下の給料が同じって、有り得ない話ですよね。

びっくりした左近ですが、さすがに三成の本気度と誠実さが伝わったようで、ついにこれを受け入れて家臣となったんですって。

 

こんな出来事は巷でも噂になったらしく、こんな歌が詠まれて流布しました。

「三成に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近と 佐和山の城」

秀吉もこのことには仰天したらしく、

「主君と臣下の禄が同じとは、聞いたこともないわい!」

と言ったとか。

 

左近は三成に忠節を尽くし、最後まで彼に付き従い、関ヶ原の戦いで壮絶に散ったとされています。

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文系と体育会系の温度差!? ウマが合わずに亀裂が…

戦が下手、加えて裏方で官僚的な立場…となると、前線でバリバリ戦う武将たちとは、三成とウマが合うはずもありません。

しかも三成ときたら、クソ真面目で融通が利かず、面白みゼロ。

 

こんな話もあります。

仲が良くない細川忠興(ほそかわただおき)との仲直りの場を仲介役がせっかく設けたのに、三成は仏頂面で柿を持ってきて忠興の前に置くと、挨拶もなしに

「細川どのは柿がお好きだと聞いておる。私のことは気にせず、まあ食べてくれ」

と言ったきり。

忠興は怒って出て行ってしまい、仲介役は頭を抱えるだけ。

その上、三成はなぜ忠興が怒ったのか理解できずぽかんとしていたそうなんです。

あの、もうちょっと、コミュニケーションっていうものが、ね…・

 

というわけでいつもこんな感じですから、秀吉の朝鮮出兵の際、三成は武将たちとの間に決定的な溝を作ってしまったんです。

三成は総奉行として現地軍と日本にいる秀吉との間の連絡役だったんですが、元々戦には反対で、早く撤退して兵の消耗を避けたいと考えていた彼と、現地で大活躍を見せた加藤清正(かとうきよまさ)との間には大きな意見の食い違いがありました。

清正はもっと手柄を立てたかったんですよ。

そのため、三成は

「清正が和睦の邪魔をして困ります」

と(正直すぎ)秀吉に報告し、清正は秀吉の怒りを買って謹慎処分になってしまったんです。

「なんだ、あいつ!」

と思ったのは清正だけではなく、異国の地で戦った他の武将たちもそうでした。

考え方だけ見れば三成は正しいんですが、やっぱり、もうちょっと言い方とかあるでしょ…と思いますよね…。

 

こんなことがあったので、朝鮮出兵途中で秀吉が亡くなった後、清正ら武将の面々に三成は襲撃されちゃうんです。

難は逃れますが、今度は自分が佐和山城に引っ込まなくてはならなくなってしまったんですよ。

関ヶ原の戦いでの三成

関ヶ原の戦い:Wikipediaより引用

さて、秀吉亡き後、実権を握ったのは徳川家康でした。

家康が豊臣家をないがしろにするのを許せない三成は、家康が東北の上杉景勝(うえすぎかげかつ)相手に出兵すると、この隙を狙って挙兵しようとします。

この時、三成は親友の大谷吉継(おおたによしつぐ)に相談していますが、大谷に

「お前みたいな奴は大将には向かん」

とあっさり言われたので、毛利輝元(もうりてるもと)を総大将に担いで挙兵したんですよ。

大谷さん、さすがその通りです。

ところで、三成と大谷の友情を物語る逸話があります。

ある茶会の席で、皮膚病(ハンセン病とも)を患っていた大谷の顔から膿が落ち、茶碗の中に入ってしまいました。

諸将は大谷の次に茶碗を受けるのをためらいますが、三成はわざと大声を出して

「刑部(ぎょうぶ/大谷の役職)、早く茶碗をよこせ! 喉が渇いてたまらんのだ」

と言うなり茶碗を手に取り、中身を一気に飲み干したのです。

これ以後、2人はますます友情を深めたそうですよ。

三成、カッコいいところあるじゃないですか。

 

家康率いる東軍は、三成挙兵の報せを聞いてすぐに引き返し、関ヶ原までやって来ました。

一方、三成側の西軍は有利な陣形を布いて東軍を待ち構えています。

しかし、西軍は総勢10万近い大軍でしたが、その実態は寄せ集め。

しかも三成に人望がないため、家康側に内通している者がいたんです。

 

関ヶ原の戦いの序盤は、西軍優位に展開したといいます。

三成も島左近と共に奮戦しました。

しかし、三成はまだ知らずにいました。

なかなか動こうとしない小早川秀秋(こばやかわひであき)がひそかに東軍に内通していることを…。

そして、突如、小早川隊は山を駆け下り、味方であるはずの大谷吉継隊に突っ込みます。

すると他の何人かの西軍武将もつられて寝返り、味方に攻撃を始めたんです。

これで均衡が破られ、西軍は混乱し敗走することとなってしまったのでした。

ちなみに、「兵に弁当を食わせている」とか何とか言って全然動かなかった毛利勢もいたので、小早川の裏切りだけが勝敗の要因ではないんですけれどね。

 

本来なら何日も続くだろうと見込まれていた天下分け目の合戦は、たった半日で決着がついてしまったんです。

 

捕らわれた三成、その最期

三成は落ち延びましたが、やがて捕らえられてしまいます。

家康に対面した時、三成は顔を挙げ、

「こんなこと、少しも恥じることではない」

と言ったとか。

そして大津城の門前でさらし者にされましたが、その時でも彼は堂々としていたそうですよ。

罵倒されても、その相手に

「お前を生け捕りにし、このようにさらし者にできなかったことが残念だ」

と言い放っています。

一方、そんな三成に同情した武将もいたんです。

黒田長政(くろだながまさ)などは、

「こんなことになって…」

と上着を掛けてやったんですって。

嫌われ者のイメージが強い三成ですが、この堂々とした潔さに感銘を受けた人もいたんですよ。

 

三成の身柄は、大津城から大坂へ移され、市中を引き回しの後、京都の六条河原で斬首となりました。

彼の着物がぼろぼろなのを知った家康から小袖が届けられますが、三成はそれが誰から与えられたのかと尋ねます。

「上様から」

と言われると、

「上様は豊臣秀頼公のみ! いつから家康が上様になったのだ!」

と語気を荒げ、受け取らなかったそうです。

また、喉の渇きを覚えた三成がお湯を所望したのですが、あいにく用意がなかったため、役人は干し柿を与えました。

すると三成は

「腹に悪いから」

とそれを断ります。

もうすぐ首を斬られるというのに…と役人が笑うと、

「大志のある者は、首をはねられる瞬間まで諦めぬのだ」

と言い返したそうですよ。

 

そうした三成の言動を聞き及んだ家康は、

「さすが、三成は大将の道を知る者だ」

と彼を賞讃したんだそうです。

欠点もありましたが、やはりわかる人にはわかっていたんですね…。

 

三成の佐和山城には金銀財宝などはほとんどなく、城のつくりも質素なものだったといいます。

すべてを豊臣家のために投げ出し、私欲などとは無縁の人でした。

三成の旗印「大一大万大吉」の意味については、諸説あれども

「万民がひとりのために、ひとりが万民のために尽くせば世の中は平和になる」

という意味が込められているともいいます。

三成こそ、万民のために尽くした人物なのでしょうね。

 

まとめ

  1. 「三献の茶」で秀吉に気に入られ、仕えるようになった
  2. 前線で戦うよりも、後方での補給など文官的な役割で頭角を現した
  3. 戦下手だったので、名将・島左近を家臣に迎えた
  4. 武断派とはとことんウマが合わなかった
  5. 関ヶ原の戦いで西軍を指揮するも敗れる
  6. 堂々とした最期に家康すら感銘を受けた

 

クセが強い人物だった三成ですが、その芯にあったのは「豊臣家第一」だったんですよね。

 

それをもう少しわかりやすく表現できていたら、嫌われ者にならずに済んだのですが…誰かビシッと言ってあげたら良かったのに、と思います。

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