真田三代、小さき一族の矜持 攻め弾正真田幸隆(幸綱)

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真田三代の祖

「真田三代」と言う場合、その初代は真田弾正忠幸隆(さなだだんじょうのじょうゆきたか)を指します。

信濃の国小県郡(ちいさがたごおり)真田(長野県上田市)を発祥地とします。

 

出自については、信濃の名族海野信濃の守棟綱(うんのしなののかみむねつな)の娘婿、真田頼昌の子とする説が有力です。

生年は永正10年(1513年)、真田郷の渓谷に築かれた松尾古城(こじょう)を居城としました。

 

天文10年(1541年)幸隆29歳、海野平(うんのだいら)の合戦で、武田信虎・諏訪頼重・村上義清連合軍に、主家海野氏共々に惨敗。

主従うち揃って幸隆の妻の実家、羽根尾城(群馬県吾妻郡)城主羽根尾入道幸全(はねおにゅうどうこうぜん)を頼りに落ち延びます。

 

これより幸隆は失った領地回復と、真田の家名を後世に残すことに生涯を賭けます。落ち延びた先の吾妻でもしっかりと人脈を構築し、真田家復興の助けになるよう心がけます。

 

舅幸全は思う所が有ったのでしょう、上州箕輪(みのわ)城主長野業正(なりまさ)に目通りさせます。

幸隆の人となりを見た業正は、自身の主家関東管領の上杉憲政(のりまさ)の元へ連れて行きます。

 

ところが憲政との対面を終えて戻って来た幸隆、6歳の嫡男信綱に向かって

「憲政殿、うつけたる大将、危うきご進退」

と吐き捨てます。

日夜酒色におぼれる憲政など話にならぬ、真田家復活の助けにはとてもとてもです。

 

 

ちょっとイイ話

憲政の元より戻ってからの幸隆は、病と称して業正からの呼び出しにも応じませんでした。

普通なら

「居候の身で無礼な奴。懲らしめてくれん」

となるところですが、業正は違いました。

 

こんなところで納まる人物ではないと思ったのでしょう。

「病ならば余地(よち)峠(群馬県と長野県の境にある峠です)を越え、甲斐に良薬を求めて癒されよ」

と伝えさせます。

「この地に留まっていても良い事は有りません。甲斐(の武田)にこそ貴方の将来が有るでしょう」

ってわけです。

 

暗に出奔を勧めたのですね、これだけでも充分な気遣いですが、業正さんもっとイイヒトでした。

 

翌日の早朝密かに抜け出した幸隆、信州と上州の国境の下仁田に辿り着いた頃、馬に轢かせた荷駄車に追いつかれます。

見ると車には、持って来られなかった身の回りの家財道具が積まれています。

その後からは、置いて来たはずの妻と家僕が付いて来ました。

 

家僕が差し出した書状には、

「信玄は若輩ながら見所多き将なり。されど上州に業正在る限り、薄井川は越させまい」

業正からの書状です。

なんて粋なやり方でしょう。

 

「こりゃぁ業正殿には一生足を向けて寝られんな」

となるところですが幸隆、永禄9年(1566年)に、業正の居城であった箕輪城を攻め落としています。

もっともこの時業正は、すでに病死していましたが。

 

余談ですが業正、平安時代の美男で色好みとして知られる、在原業平の末裔との説も伝わっています。

そして頼りない主君上杉憲政に、生涯忠誠を尽くしました。

幸隆は5年余り、業正の元で食客として匿われた末の出奔でした。

知れば知るほど業正さん良い男ですねぇ。

頼るなら武田

上杉頼むに足らずと判断した幸隆、業正の計らいもあり、その頃甲斐の国で父信虎を追い落とした武田晴信(後の信玄)に、無事出仕できました。

一説では軍師山本勘介が幸隆の器量を見抜き、晴信に推挙したとも伝わっています。

 

晴信に仕えるようになった幸隆が命じられたのは、武田家に敵対する信濃諸将の調略でした。

いよいよ幸隆の本領発揮です。

幸隆の得意とする戦い方は情報戦でした。

相手の人間関係を徹底的に洗い出し、

「アレとコレは不仲」

「コレとアレはライバル関係」

などの情報を仕入れます。

時にはあらぬ噂を流して、敵家中に不穏な空気を作らせてみたりと、せっせと相手方を引っ掻き回します。

 

自軍の兵を損なわずに、諜報・調略で勝利をおさめる、この流れは息子たちに受け継がれ、後世の真田十勇士や真田忍者の物語を生みました。

 

実際に真田家が使った諜者、信濃一帯に放った山伏や歩き巫女は、信玄の信濃攻略に大きな貢献を果たしました。

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砥石崩れ

天文17年(1548年)2月、上田原の戦いで村上義清に大敗を喫した信玄、天文19年5月には早くも復讐戦として、砥石(といし)城攻略に向け出陣します。

信玄は幸隆にこの戦いでの手柄次第で、「諏訪方300貫文」などを含む1,000貫文の報償を約束します。

 

さて信玄、勇んで砥石城へ攻めかかったのは良いのですが、砥石城は険しい崖をよじ登ることでしか攻略できない要害の地。

城を守る兵に大石を落とされたり、煮え湯を浴びせられたりして、またも大負け。

武田家ではこの敗戦を『砥石崩れ』と呼んで、後々の戒めにしました。

幸隆にしても思うように調略をほどこす時間も無く失敗、約束の1,000貫文もいただけませんでした。

 

 

調略成功

ところが翌天文20年5月、幸隆は武田の1兵も動かさずに砥石城を乗っ取ってしまったのです。

前年の敗戦を受けて幸隆さん、コツコツと地味に調略活動を続けていたのですね。

 

まずは補給路を絶ちます。砥石城補給の喉元傍陽(そえひ)の地を本拠とする、村上方の曲尾(まがりお)越前の守常光(つねみつ)を裏切らせます。

これは金と領地を約束しての誘い掛けでしたが、常光もこの先は村上よりも武田と考えたのでしょう。

主だった配下3人を連れて武田に降りました。

 

さらに村上義清の配下となり、砥石城に籠城していた弟の矢内綱頼に呼びかけ裏切らせます。

綱頼の働きで城内に武田の内応者を作り、多少の交戦はあったもののほぼ無傷で、内側から城を開かせることに成功しました。

この弟、あらかじめ裏切らせるつもりで潜り込ませてあったのでしょうか。

だとしたらかなり用意周到ですね。

 

信玄の信頼を得る

砥石城を落としてからは信州先方衆(さきかたしゅう)筆頭として、一徳斎(いっとくさい)を名乗ります。

信玄も幸隆の才を高く評価し、元は敵対関係の外様でありながら、譜代家臣と同等の待遇をします。

「信玄あるところ幸隆あり」

と言われるようになり、武田家に置ける謀将の地位を確かなものにしました。

 

信玄の上野(こうずけ)侵攻に従い、敗将の身を匿ってくれた恩人長野氏や羽根尾氏とも戦います。

 

5度に及ぶ上杉謙信との戦いにも常に信玄に従い、敵方の謙信からも

「我、弓を取らば真田に劣らぬが、智謀は七日の遅れあり」

と絶賛されています。

 

永禄6年(1563年)には、天然の地形に守られた上州吾妻の上杉の属城岩櫃(いわびつ)城を落とすと、信玄よりそのまま吾妻地方の支配を任されます。

 

やがて天正2年(1574年)信玄病没の翌年に、岩櫃城で62歳で亡くなります。

武田家の滅亡は見ずに済みました。

 

真田の忍び

真田家を語る時、“忍びの者”を抜きにしては語れません。

謀略・調略に優れていたのも、“忍び”を多く抱えていたからです。

信州真田の里は古くから山岳信仰が盛んでした。

里の北東には霊峰四阿山(あずまやさん)が聳え、麓には山家(やまが)神社の里宮が祭られ、真田家歴代の当主や里人の信仰を集めていました。

 

密教の教えに基づいた、峻険な山岳での修行を修験道(しゅげんどう)と言います。

屈強な若者や、主人を持たない地侍などが修験道に励みました。彼らにとっては、食べて行くための手段でもあったのです。

 

真田家の領地の山に、奇岩怪石が連なる角間(かくま)渓谷があります。

その大岩の窪みに祭られた岩屋観音堂を中心にして、修験者たちは修行に励み、呪法を修めました。

数年の苦行の後、よく飢えや渇きに耐え、跳躍力や素早い動きの出来る身体を作り上げます。

 

これらの修験者を真田家は“忍び”として使ったのです。

 

出浦盛清(いでうらもりきよ)

出浦対馬の守盛清、本名昌相(まさすけ)は、始め村上義清に仕えますが、義清が信玄に敗れた後は武田家に仕えます。

れっきとした武将ですが、忍びの術に長じていたので“甲州透破(すっぱ)”の頭として知られています。

 

武田家滅亡後は海津城主森長可(ご存知森蘭丸のお兄さん)に仕え、本能寺の変の後に真田昌幸、信幸父子に仕えるようになりました。

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