慶長19年(1614年)大坂冬の陣、家康は真田が大阪方に参戦したと聞き、思わず問い返します。

「父親(昌幸)の方か、それとも息子(信繁)か」
参戦したのは信繁と聞いて、ほっと胸を撫でおろしたのですが、家康がそれほど昌幸を手強い相手と思っていたことがわかります。
同時に信繁の方はそれほど評価していなかったことも。
のちにその評価しなかった相手に、寸手のところまで追いつめられるとは、思ってもみなかったでしょうね。
お家存続のため
信繁は永禄10年(1567年)、信州上田城(長野県上田市)城主真田昌幸の次男として生まれます。
15歳の時主家武田家滅亡、父昌幸は敵将織田信長に下り、所領を安堵されたと思ったのも束の間、今度は信長が本能寺の変に倒れます。
昌幸は大国に取り囲まれた中で、懸命に真田家存続の道を探ります。
天正13年(1585年)後ろ盾を求めた昌幸によって、信繁は越後の上杉景勝の元に人質に出されます。
これが気に食わなかったのが徳川家康、昌幸の居城上田城に大軍を派遣して攻め立てます。
有名な “第一次上田合戦”ですが、これは昌幸の事なので今回は触れません。

しかし間もなく豊臣秀吉の命により、信繁は大阪城へ出仕します。
これは昌幸が人質を差し出して、大阪方の大名になることを意味します。
この頃信繁の兄信幸は家康の元に出仕し、徳川四天王の1人本多忠勝の娘小松殿と結婚します。
一方信繁は豊臣家の奉行衆の1人、大谷刑部吉継の娘安岐(あき)殿を娶ります。
豊臣・徳川両家に繋がりを作り、世の中がどっちに転んでも真田家を存続させようとの作戦です。
後年関ヶ原合戦の時にも、兄弟が西軍・東軍に別れて戦ったことに通じます。
秀吉の元で信繁は馬廻衆として働き、1万9千石の知行と屋敷も与えられていました。
十分な待遇を得ていましたが、24歳になると信州上田城に帰郷します。
犬伏(いぬぶし)の別れ
慶長5年(1600年)7月、会津上杉討伐に向かう家康から、出陣命令を受けた上田城の昌幸・信繁父子。
家康の元に居る長男信幸の軍に合流すべく、犬伏(栃木県佐野市)に宿営していました。

そこへ家康討伐のため石田三成が挙兵したとの知らせ。
豊臣三奉行から、忠誠を求める昌幸宛ての密書が届きます。
豊臣対徳川の戦は避けられないものになりました。

真田信幸:Wikipediaより引用
今後の真田家の大事を計るため、信幸が宇都宮から駆け付けます。
この時の真田家の家族事情は複雑でした。
昌幸と信繁は秀吉亡き後家康に従っていますが、秀吉の恩顧を忘れてはいません。
信繁の妻は三成の盟友大谷吉継の娘で、吉継は三成挙兵に加わっています。
信幸は家康に仕え、徳川秀忠の養女となった小松殿を妻に迎えています。
相談の結果昌幸と信繁は大阪方に、信幸は徳川方にと、親子・兄弟で敵味方になる道を選びました。
どちらが勝っても良いようにとの両面作戦です。第一には真田の家の存続でしたが、負けた方の命乞いが出来るようにとも考えたのです。
ただ生き延びるための計算ばかりではなく、互いの義理を貫いた結論でも有りました。
談義が長引くのを心配して見に来た家臣の河原綱家(かわはらつないえ)が、
「誰も来るなと申しただろう」

真田昌幸:Wikipediaより引用
と癇癪を起こした昌幸に下駄を投げつけられ、前歯が欠けたとか。
一応談義とは言っていますが、これはそれぞれの覚悟を今一度確認したのです。
ヘタをすれば今生の別れになるかもしれません。最後に会っておこうとしたのでしょう。
第二次上田合戦
犬伏の宿で親子・兄弟の別れを済ませた信幸は家康の元に出向き、父昌幸に背いてお見方申し上げると奏上し、家康を喜ばせます。
昌幸と信繁は上田城に取って返し、やがて襲って来るであろう徳川勢に備えます。
8月末、秀忠は徳川の主力3万8千の大軍を率いて、宇都宮を発ち中山道を西へ向かいます。
東海道を行く家康と別れたのは、昌幸と信繁が籠る上田城を攻略せんがためです。
9月2日、秀忠はまず書状で昌幸に投降を勧めます。
「秀忠公に歯向かうつもりはござらぬ。上田城は明け渡し申すが、後始末のため時を頂きたい」
昌幸からの返書に喜んだ秀忠ですが、その後一向に音沙汰がありません。
使者を出してせかすと、すっかり籠城の支度を済ませた昌幸
「豊臣の恩顧忘れ難し。城を枕に討ち死にせん」
と返事します。
5日、大いに怒った秀忠、信繁の籠る砥石城を一気に踏みつぶせと信幸に命じます。
ところが信繁
「兄とは戦えず」
と、さっさと上田城に逃げ込んでしまいます。
徳川方の士気は大いに上がりますが、これ多分誘い込まれたんでしょうね。
翻弄される徳川方
6日、上田城を囲んで挑発する徳川、挑発に乗ったと見せてかけて城から出て来て小競り合いをする足軽。
徳川の牧野康成が思わず追いかけると、さっそく真田の伏兵の餌食になります。
「こりゃいかん」
と秀忠の旗本衆が加勢に出ると、真田勢は戦っては逃げ戦っては逃げを繰り返し、気が付けば城間近に迫っていました。
この時を待っていた真田、北東の虚空蔵山(こくうぞうやま)の伏兵が走り出て襲い掛かります。

足並みを乱して進むか退くか迷う徳川、頃や良し、大手門を開いて一斉射撃を浴びせる城方。
混乱の中逃げる徳川は、そばを流れる神川(かんがわ)に馬を乗り入れます。
川が人馬で埋まったと見た真田、上流の堰を切って落とします。
一気に増えた水嵩に人も馬も押し流され、援軍も神川の流れに行く手を阻まれます。
徳川の損害は夥しいものになりました。
混乱を突き信繁の一隊は秀忠の本陣まで迫りますが、もう一歩及びませんでした。
後の大坂の陣でも、信繁は家康の間近まで迫りながら取り逃がしました。返す返すも無念!
秀忠、大遅参

徳川秀忠:Wikipediaより引用
急には上田城は攻め落とせぬと見た秀忠。
一旦軍を撤退させますが、そこへ家康からの書状が届きます。
「何をグズグズしておる!関ヶ原こそ大事!9日までに美濃へ着陣の事!」
って、これ8日に届いたんですけど。
3万8千の大軍そうそう身軽には動けません。
小諸城を出発したのがすでに10日ですから。
で、15日の関ヶ原開戦に遅れる事5日、20日になって漸く到着しました。
ここは老獪な昌幸・信繁父子の手柄です。
実戦経験も少なくまだ青い秀忠を翻弄して徳川の主力を足止めし、決戦に遅刻させたのですから。
十分な戦功です。
関ヶ原では敗戦
しかし昌幸と信繁の足止め作戦も虚しく、結局関ヶ原では西軍は敗北。
本来死罪となるところを、信幸や妻小松殿とその父本多忠勝の助命嘆願もあって、高野山に配流となり、蓮華定院(れんげじょういん)に蟄居させられます。
布石を打って置いたかいがありました。
やがて冬の厳しい高野山を降り、麓の九度山へ移った父子、信幸などの援助で暮らしていましたが、慶長16年(1611年)昌幸は故郷上田へ帰ることなく亡くなります。
1人残された信繁ですが、実は今に伝えられる大坂の陣での信繁の活躍は、これ以降の事なんですね。
大阪方よりの招き
金地院崇伝の差しで口に始まった“方広寺鐘名事件”、発端は何であれ豊臣・徳川の対決は避けられないものになりました。
開戦に備え大阪城には武器・兵糧が運び込まれ、世に不満を持つ多くの浪人が集められました。
しかし寄せ集めの浪人だけではどうにもなりません。
実戦経験があり、部隊の指揮を執れる人間が居なければ、とても徳川の大軍を相手に戦えません。
ここで上田城での駆け引きで、秀忠を翻弄した信繁の名前が上がります。
豊臣秀頼の使者が九度山を訪れ、書状を差し出し大阪方への参陣を求めます。
支度金として黄金200枚銀30貫、大阪城へ入城すれば兵5千を預けるとの条件です。
更に大阪方勝利の時は、50万石の大名に取り立てることも約束しました(大坂御陣山口休庵噺(おおさかごじんやまぐちきゅうあんばなし)より)。
信繁への期待は大きかったのです。
時に信繁48歳、当時としてはもう晩年に差し掛かるころです。
このまま配流の地で朽ち果てるのかと思っていた彼に、最後のチャンスが回って来ました。
武将として今一度天下に名を馳せ輝けるのです。
真田の赤備え

『大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)』に描かれた真田勢。:Wikipediaより引用
徳川方の監視の目が光る中、里人の陰の協力もあって無事九度山を抜け出した信繁は、2日ほどの行程で大阪城に入城します。
最初は一族と少数の家臣の十数名であった人数は、途中の土豪も引き連れ、紀ノ川を渡るころには140名ほどに増えていました。
道中「我も、我も」と加わる者が後を絶たず、大阪城に入る時にはいつの間にか300名を超えていました。
その真田勢と言うのが、
『幟・指物・具足・兜・母衣以下、共に一色赤出で立ちにて御座候』(大坂御陣山口休庵噺より)。
いわゆる“真田の赤備え”です。
むさくるしい出で立ちの浪人衆の中、目立つ事目立つ事、でもいったいいつの間に用意したんだ?
徳川の監視の目をくらまして九度山を抜け出した信繁、大坂の陣で活躍できるでしょうか。
長くなりそうなので、前編・後編に分けることにしました。
後編ではいよいよ大坂の陣開戦です。
真田三代、小さき一族の矜持 攻め弾正真田幸隆(幸綱)
表裏比興、真田昌幸こそ戦国時代の象徴?
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