戦国時代と言えば無法地帯…は言い過ぎですが、弱肉強食の時代。
法律などあってないようなもので、まさに「勝てば官軍」な時代。
だからこそ、どの大名も食うか食われるかの中で死力を尽くして家の存続に努めたのですが、ある意味「戦国時代を象徴する大名」といえば「表裏比興」とも称される真田昌幸です。
大河ドラマでも「実際には主役は真田昌幸だった」との声もありますが、どのような点が「戦国大名らしい」のでしょうか。
立地のおかげで…幸運にも無傷?
真田昌幸と言えばその知略を武器に、北条、徳川、上杉に囲まれた中で気付けば戦国大名に。
そもそも昌幸は武田の家臣でした。
その昌幸がなぜいつの間にか大名になっているのか。
これには運もありました。武田滅亡時、昌幸は一度は織田に下ります。
戦国時代、家臣はそれぞれ領土をもらい、その地を収めていました。
昌幸が武田からもらっていた上田は現在の長野県上田市。
一方、武田家の「本拠地」は甲斐。今の山梨県甲府市です。
滅亡時の本拠地は新府になりますが、こちらも甲斐から程近い場所。
現在の立地で言えば、甲府駅から4駅程の距離です。…そうです、かなり遠いです。
織田家が武田侵攻作戦を開始すれば、どこを攻めるかと言えば本拠地である新府です。
武田滅亡作戦の総司令官は信長の長男にして、当時既に織田の家督を譲ってもらっていた信忠。
信忠にとっては、家臣の領土を順に攻めていくよりも、とにかく手っ取り早く本拠地を落としたかったのです。
ちなみに織田家の武田滅亡作戦のルートは現在のほぼ中央高速道に準拠しています。
…上田に行くとなれば遠回りになりますし、信忠からすればとにかく勝頼をと思ったので、上田などどうでもよかったのでしょう。
そして武田家は滅亡。
「今後どうするのか」という混乱があったのは言うまでもありませんが、織田家に下ることで結果的に上田は無傷を保てました。
信長死後の混乱で…
しかし武田滅亡からおよそ数か月で今度は信長が本能寺にて倒れます。
すると、旧武田領はさらに混乱をきたします。
まだまだ織田家によって完全に安定していたわけではないので、信長が亡くなったことによって、不満がくすぶっていた旧武田領の武士たちが蜂起。
一時的に武田領は支配大名がいない「空白地帯」となってしまいました。
織田家としても武田領の問題よりも、今後どうするのかの方が大問題です。
結果、徳川や北条がそれらの領土を上手く吸収する形になるのですが、どちらにも属さなかった昌幸はいわば「独立」のような形となったのです…!
これがいわば「戦国大名」としての原型でもあります。
立地が味方したからこそ、上手く立ち回れた部分も
真田昌幸:Wikipediaより引用
昌幸が「表裏比興」と評されるのはいわば「ずる賢い」といった意味合いです。
つまりは褒め言葉です。「表裏比興」という言葉から、現代の価値観では「ひきょう」と思ってしまうかもしれませんが、その背景にあるのは織田家滅亡から豊臣に臣従するまでの立ち回りです。
織田が滅亡すると、昌幸はまずは上杉を頼ります。
武田滅亡時、上杉と武田は同盟関係にありましたので、その名残として上杉を頼ったのは言うまでもありません。
しかしその後すぐに北条に下ると、今度は徳川家康に尽きます。
これだけコロコロと頼る相手を変えるのは、現代の価値観からするとやはりある程度の批判もあることでしょう。
「信念はないのか」「節操がない」といったように、武士としてはあるまじき行為なのではないかとの批判があるのも致し方ありません。
しかし、昌幸にも信念があります。
それは「生き残る」です。
そのためにこれだけコロコロと頼る相手を変えていたのですが、これが出来たのも昌幸が頭が良かったからだけではなく、昌幸の周囲にこれだけの軍勢がいたからこそです。
もしもですが、他に隣接する大名がいなければ、下るか戦うかの二択です。
しかし、強国に挟まれていた昌幸は、強国同士のミリタリーバランスもよく理解していました。
ましてや昌幸の領地は丁度徳川・上杉・北条の境界線。
自分がどこに付くのかによって、それぞれの大名の戦略そのものさえ変わってくる重要な立地なのです。
昌幸がこれほどまで大胆に立ち振る舞えたのは、立地があったからこそです。
関ケ原での立ち振る舞いもまた…
関ヶ原の戦い:Wikipediaより引用
関ケ原での戦いでは真田家は昌幸と信繁(幸村)親子が西軍に、長男の信之が東軍に属します。
どちらが勝利したとしても真田の家が残るという選択肢ですが、一方ではこの選択はある意味では当然とも言えます。
なぜなら、本人は豊臣秀吉配下になったことによって大名としての地位が確立されたのです。
それまで上杉、北条、徳川に囲まれていたものの、豊臣配下となればどの大名も迂闊には手を出せません。
むしろ手を出したがために、北条家はその後小田原征伐を受けることとなり、一家が滅亡することになってしまったのです。
つまり、昌幸にとって秀吉には恩があります。
息子の信繁は秀吉の馬廻りなので、共に「豊臣」に対して恩義があったのは言うまでもありません。
一方、長男の信之は本多忠勝の娘を娶っています。
これにより、徳川系の大名として取り立てられることになりましたので、「表裏比興」と呼ばれている昌幸ですが、昌幸だけではなく、息子二人もそれまでの恩義を受けた相手にそのまま与しただけになります。
徳川家康が嫌いだった理由とは
戦略的な理由で長男の信之を徳川家臣である本多忠勝の娘と結婚させていますが、奇しくもこれによって昌幸の悲願でもある「家を残す」は現代まで守り通されています。
信之系の血脈は途中で養子を迎えているので途絶えてしまったものの、「真田」という家そのものは現代にも残っているのです。
しかしその裏では昌幸は徳川家康が嫌いだったからこそ、関ケ原でも西軍側に与したのではないかと言われています。
もちろん他にも様々な理由があるとは思いますが、なぜそこまで徳川家康が嫌いだったのか。
その理由として、徳川家康が武田家にとって敵だったことや、一旦徳川に下った際、あまり信用されていなかったからなど様々な理由が挙げられます。
もしかしたら単純に人間的なものなのかもしれませんが、自分自身の我を通して西軍に与したという点では、ある意味では戦国武将としては筋が通っているのではないでしょうか。
晩年の生活は…
関ケ原での西軍敗戦によって昌幸は息子の信繁共々和歌山県の九度山に追われることになります。
現代の九度山でさえのどかです。
当時の九度山はさらにのどかであったことは容易に想像できるので、そのような場所に10年もいれば次第に気力も萎えてきてしまうのでしょう。
その一方で信繁に秘策を与えたり、大阪のことを案じるなど戦国武将としての血が躍る部分もあったのかもしれません。
結局大坂の陣の数年前、1611年に亡くなってしまいますが…。
まとめ
真田昌幸を知れば知る程、「掴みどころがない」と気付かされるのではないでしょうか。
立地が良かったからという面があるにせよ、まさに渡り鳥。
一方では武田や豊臣への恩義は強く感じていたようで、特に信玄に対しては崇拝していたとも言われています。
初めから大名だったわけではないので史料が乏しく、分からないことも多い昌幸ですが、だからこそ想像力を刺激される部分も多いのではないでしょうか。
息子の信繁ばかりが有名になってしまいましたが、昌幸もまた、知れば知る程戦国時代の面白さを伝えてくれる武将の一人です。
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