ニッチな戦国大名、興味ありませんか?
そんなあなたにぴったりなのが、内ヶ島氏理(うちがしまうじまさ/うじとし)です。
あの世界遺産・白川郷を本拠地とし(当時は世界遺産じゃないですが)、外征もほとんど行わず、陸の孤島を治めた人物です。
しかし、いちばん注目して欲しいのは彼の最期…。
あまりにも突然に訪れた最期の瞬間まで、しっかりお伝えしたいと思います。
内ヶ島氏って?
内ヶ島氏は、室町時代から戦国時代にかけての戦国武将の家系です。
氏理は5代目に当たりますが、2代目の為氏(ためうじ)の時に、室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)の命によって飛騨国(岐阜県北部)の白川郷に入りました。
白川郷、名前はご存知の方も多いでしょう。
そう、世界遺産ですよ!
合掌造りの家々が見事だ、絶景だと絶賛されるあの場所です。
ああいう所、一度は住んでみたい…と今なら思いますが、おそらく当時は違ったはず。
というのも、かの地は「陸の孤島」と言ってもいい場所だったからです。
だって、周りの山々が2000mクラスですよ。
車も鉄道も飛行機もない時代、馬と徒歩でそれを越えるなんて、無理無理。私はムリです。
そんなわけで、内ヶ島氏は外征に行くこともほとんどなく、外から攻められることもほとんどなく、帰雲城(きうんじょう/かえりくもじょう)を拠点とし、白川郷内だけの統治に専念していたのでした。
外の世界を知らない殿様・内ヶ島氏理(誇張アリ)
内ヶ島氏5代目当主にして最後の当主となった氏理(生年不詳)ですが、おそらくほとんど戦の経験もなかったはずなのに(陸の孤島生まれ・孤島育ちですから)、天正4(1576)年~天正6(1578)年にかけて、
あの別名「軍神/越後の龍/毘沙門天の生まれ変わり」の上杉謙信の侵攻を受けます。
しかし氏理、退けています。
きっと上杉軍は山越えで疲れたんです。そうとしか考えられないです。
そして、続けざまに、飛騨統一をもくろむ近辺の武将・姉小路頼綱(あねがこうじよりつな)の侵攻も受けますが、これまた撃退。
運なのか、才能があったのか…ちょっと不明です。
やがて謙信が亡くなり、飛騨近辺を脅かす大物がこれでいなくなった…と思ったところで登場したのが、織田信長でした。
ほぼ平和慣れしていたはずの氏理ですが、そこは当主ですから、ちゃんと外交もしていますよ。
信長に頭を下げ、織田方として謙信の跡を継いだ上杉景勝(うえすぎかげかつ)との戦いにも参加しています。
しかしこの後、タイミングよく本能寺の変が起きたので停戦となり、氏理は帰還しました。
なんか、運がいい人なんですね…。
留守中に家臣が城を明け渡す
信長亡き後は、その家臣だった越中国(富山県)の佐々成政(さっさなりまさ)に従います。
佐々成政:Wikipediaより引用
しかしこの成政が、織田政権内での有力者・柴田勝家(しばたかついえ)側だったことが氏理には災いしました。
柴田勝家は豊臣秀吉と対立、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで敗れてしまうんですね。
すると、秀吉は成政のところに攻め込んで来たんですよ。
これが天正13(1585)年の「富山の役」です。
もちろん氏理も自ら兵を率いて向かいました。
ところが、佐々成政はさっさと(シャレではないです)出家し、秀吉に降伏してしまい、氏理も戦うことはありませんでした。
しかし、秀吉は同じころ、部下の金森長近(かなもりながちか)に命じて、氏理のライバル勢力・姉小路氏討伐を命じていたんです。
金森は姉小路氏を制圧しますが、ついでに内ヶ島領に攻め込んで来てしまったんですよ。
まだ氏理は戻って来ていません。留守ですよ。残っていたのは家臣だけ…!
すわ城を枕に家臣たちは討死か…と思いきや、その家臣はあっさり金森に城を明け渡します。
相談とかないんですかね。そんな時間もなかったんでしょうか。
というわけで、戻ってきた氏理は、城が明け渡されていることに愕然としました(はず)。
しかし取りあえず身を守らねば、ということで、彼は金森を通じて秀吉に恭順を申し出ます。
正直、陸の孤島にいる内ヶ島氏が脅威になるわけでもないので、秀吉もこれを受け入れ、氏理は内ヶ島氏の名跡と白川郷の領地を保証されたのでした。
めでたしめでたし。
…ではなかったんですよ。
天災は、忘れたころにやって来る
秀吉との和睦が成立し、氏理をはじめ、内ヶ島氏一族や家臣たちは喜びに沸いていました。
万歳三唱くらいしたかもしれませんよ。
そんな彼らは、11月29日に本領安堵の祝宴を開いて飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをしていました。
それが終わったか、終わりに近づいたか…という深夜、突然、それがやって来たんです。
天正地震です。
マグニチュードは8.1とも言われており、とんでもない大地震でした。
城が激しい揺れに襲われ、氏理や側近たちはうろたえたことでしょう。
しかし、逃げる間もなく、彼らの姿は崩れゆく山と城に飲み込まれ、一瞬で消えてしまったんです。
帰雲城が建っていた帰雲山は、大規模な山崩れを起こしていました。
城は崩壊し、城下町も埋まり、崩れた土砂でせき止められた川が氾濫を起こし、壊滅的な打撃をこの地に与えたんです。
内ヶ島氏全滅の悲劇
夜が明け、辺りが明るくなると、城も町もすべてがなくなっていました。
城にいた氏理以下内ヶ島氏一門、郎党すべてが一瞬で命を奪われたのです。
内ヶ島氏は、日本史上初めて、天災でほぼ全滅した一族となってしまいました。
この直後に帰還した人ですら、どこに城があったのかわからないような有様だったそうですよ。
そして今もなお、城の場所は特定されていないんです。
関係者のほとんどが一瞬でいなくなってしまったことの証ですよね…。
天正地震は、近畿・東海・北陸と広範囲に大きな被害を与えたようです。
氏理たちだけでなく、前田利家の弟夫妻も、城の倒壊によって亡くなりました。
当時は耐震補強なんて言葉もなかったでしょうから、その惨状たるや、想像するだけでも言葉を失いますね…。
ただ、氏理の弟である経聞坊(きょうもんぼう)は助かっています。
彼は仏門に入っていたので、おそらく別の場所の寺にいたのでしょう。
彼は「経聞坊文書」という書物に、この地震のことを書き残しています。
内ヶ島氏の埋蔵金伝説
ところで、氏理のご先祖がなぜ白川郷に来ることになったのでしょうか。
実は、室町幕府には鉱山開発の期待があったようなんですよ。
おそらく、内ヶ島氏には鉱脈を掘り当てる何らかのノウハウがあったんでしょうね。
実際、この場所でいくつかの金鉱が見つかっており、氏理は帰雲城に相当量の金を貯めこんでいたという噂もあるんです。
そして、あの天正地震によって、金は城もろとも埋まってしまったと言われているんですよ。
何せ城は跡形もなく崩壊し、場所すら特定できずにいるんですから、埋蔵金伝説は…出ちゃいますよね。
これはこれでロマンある話かなとも思います。
徳川埋蔵金伝説なんてのもありますから、内ヶ島埋蔵金も誰か探してくれたらいいのに、と思いませんか?
まとめ
- 内ヶ島氏は「陸の孤島」白川郷を治めていた
- 内ヶ島氏理は上杉謙信をも退けた
- 留守中に家臣が城を明け渡してしまった
- 宴の最中、天正地震により城が崩壊
- 山崩れは城や町を飲み込み、内ヶ島氏そのものを全滅させてしまった
- 埋蔵金伝説がある
あの上杉謙信を退けるなど、前半生は運の良さもあった内ヶ島氏理ですが、まさか地震の山崩れに飲み込まれるという最期を遂げるとは思いませんでした。
地震の怖さをあらためて思い知らされた次第です。
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