戦国時代の処罰として必ず出てくるのが「改易(かいえき)」。
領地を没収し、時には武士の身分を剥奪してしまうことで、とても重い処分です。
ここから再び身分を回復するのは、かなり難しいことでした。
仙石秀久(せんごくひでひさ)は、その改易から大名の身分を回復した数少ない人物。
その人生は山あり谷あり、しかし自分の力で何とか切りひらいてきたんです。
そして彼は、蕎麦に縁の深い人物として知る人ぞ知る存在。
なぜ蕎麦なのか…それは記事でご紹介しましょう!
豊臣秀吉の古参中の古参家臣

天文21(1552)年、美濃(岐阜県)の土豪の四男として生まれた秀久は、兄たちが相次いで戦死したために家督相続が回って来ました。
ここですでにラッキー。
当時、美濃を支配していたのは斎藤家でしたので、仙石家はここに仕えていたようです。
やがて斎藤家が織田信長によって滅ぼされ、その後は織田信長に主を替えました。
どうやら秀久は14歳くらいから信長のもとにいたようですが、詳細ははっきりしていません。
信長は秀久の風貌が勇ましい(要はコワモテだった?)のを気に入り、当時はまだ木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)を名乗っていた豊臣秀吉の配下に付けたんだそうです。
コワモテと猿…いいコンビになりそうな予感がしたのでしょうか?
信長のことですから、気分だったかもしれませんが。
というわけで秀吉の配下となった秀久は、ずっとそこで経験を積んでいくことになります。
秀吉と各地を転戦するうちに、秀吉のキャリアアップにつられて彼もまた武将として腕を磨いていくわけですね。
特に、信長の命で秀吉が行った中国地方への遠征では活躍を見せています。
天正10(1582)年の本能寺の変で信長が明智光秀に倒されてからは、秀吉の電光石火の帰京劇「中国大返し」に従い、光秀を討った山崎の戦いでは光秀側の豪族討伐に功績を挙げました。
その後は淡路(兵庫県淡路島)の平定を成し遂げ、その功により翌年には淡路5万石の大名にまで列せられています。
この出世速度はかなりのハイペースだったんですって。秀久の武将としての資質が素晴らしいものだったことがわかりますね。
そして、秀吉による四国の長宗我部(ちょうそかべ)氏攻めが完了すると、讃岐(香川県)拝領しさらに領地を増やしています。
…とまあここまでは順調だったんですが。
その翌年、大変なことが起きてしまうんです。
九州征伐に来たものの本隊が来なくて焦る
天正14(1586)年、天下人への階段を着々とのぼる秀吉は、九州の島津征伐へと乗り出します。
秀久は軍監に任命され、先陣として豊後(大分県)に上陸しました。
軍監とは、目付(めつけ)とも言い、各武将がどんな働きをしたか事細かに観察・記録をする役で、これが戦後の論功行賞に大きな影響を与えるという大役でした。

Wikipediaより引用
ほかの先発隊は、長宗我部元親(もとちか)・信親(のぶちか)親子と十河存保(そごうまさやす)です。
しかし、思い出してみて下さい。長宗我部って、ついさっき秀吉に征伐されてた身ですよね。
それが秀吉に従って戦に出る…士気なんてあったもんじゃありません。
加えて、秀吉に救援要請をしてきた豊後の大名・大友宗麟(おおともそうりん)も、力が衰えている真っ最中で、正直あんまり戦いたくもない…ということで、先陣の隊には団結力なんてものはありませんでした。
一方、秀吉の本隊はというと、これがなかなか来やしない。
その間にも、島津の軍はあちこちで勝利を収めて勢いを増してきます。
これでは勝てないかもしれない…と秀久は焦ったわけです。
秀吉は考えがあったらしく、最初から秀久に

「わしの本隊が来るまで、焦らず待っておれ」
と言い含めていたんですが、焦る秀久の脳内からはその言葉が吹っ飛んでしまったようですね。
そして、秀久は焦るあまり独断で攻勢に出ることを決めてしまったんです。
秀吉大激怒! 領地没収され、浪人に
秀久の決断に、長宗我部親子は反対しましたが、十河一存は賛成しました。
そのため、豊臣方の先発隊は戸次川(へつぎがわ)を挟んで島津軍と向かい合い、ついに刃を交えることとなったんです。
島津軍の指揮官は島津家久(しまづいえひさ)、戦上手として知られた名将でした。
最初のうちは秀久が先陣を切る豊臣方が優勢でしたが、やがて勇猛かつ統率力に優れた島津軍に押されていきます。
そして秀久の隊は突出した隙を狙われてこてんぱんに打ちのめされ、長宗我部信親と十河一存は戦死というさんざんな敗戦に終わったのでした。
ちなみに、この戦いで長宗我部家の嫡男・信親が戦死したおかげで、父親の元親はショックのあまり暴君化してしまい、長宗我部家までもが衰退の一途を辿っていくんです。
秀久、他家の運命までさんざんな感じにしちゃったんですね…。
しかも、秀久は何を思ったか、自分の役割など忘れて自国の讃岐まで逃げ帰っちゃたんですよ。
もちろん無断です。
それは誰がどう見たって、マズいですよ。
なんで帰っちゃったんでしょうか?
秀吉に怒られるのが怖かった…なんて、大名の言い訳にはなりませんよね。
もちろん、秀吉は激怒しました。ふつうの激怒でなく、大激怒です。
「権兵衛(秀久のもうひとつの呼び名)は何をしておったのだ! わしは怒ったぞ、もう領地没収!! ついでに高野山にでも行っておれ!」
…というわけで、秀久は所領を没収され(もちろん大名の身分も剥奪)、高野山へ追放処分となってしまったんです。
わずか3年ほどで大名から一介の浪人へと転落した秀久。
しかし彼は諦めませんでした。
いつかきっと、チャンスが来る。
それを信じて、謹慎の日々を送ったのでした。
汚名返上のチャンス! 小田原征伐にて
高野山追放から4年後の天正18(1590)年、秀吉は天下統一の総仕上げとして、小田原の北条征伐に向かいました。
秀吉に許してもらうには、再び戦功を挙げて認めてもらうしかない…そう考えた秀久は、息子や旧臣20人ほどを引き連れ、小田原へ参上します。
この時、浪人の身だった秀久を戦に参加できるよう取り成してくれたのは、徳川家康だったそうですよ。

そして、この恩が秀久を後に徳川方へと引き寄せて行くんです。
白い房飾りのついた兜、白絹に日の丸を染め上げた陣羽織というド派手な軍装に、馬印(戦場での武将の目印みたいなもの)は紺地に白で「無」の一文字。

仙石秀久:Wikipediaより引用
もう自分には大名の地位も名誉も財産も何も無い、つまりは失うものも何も無いという意味でもこめられていたんでしょうか。
しかも、秀久が歩くとやたらリンリンと鈴の音がします。
というのも、陣羽織一面に鈴を縫い付けていたからなんです。
こうすることで、敵兵をすべて自身に引き付ける覚悟を示していたんですよ。
このことから、彼は「鈴鳴り武者」と呼ばれるようになりました。
そんな目立つ軍装以上に、秀久とわずかな供は戦功を挙げました。
秀久は敵中に飛び込み、自ら槍を振るったそうです。
秀久の大活躍を耳にした秀吉は、彼を激賞し、自分で使っていた金の団扇を手ずから与えて大名復帰を認めました。
そして秀久は信濃小諸(長野県小諸市)5万石を与えられ、見事に返り咲いてみせたのです。
ちなみに、秀久の活躍ぶりが箱根の地名「仙石原(せんごくはら/せんごくばら)」の由来となったという話もあるんですよ。
地名に残るほどの活躍、頑張りましたね…!
他にも、天下の大泥棒・石川五右衛門を捕まえたという逸話もあるくらいですから、結構、豪傑だったんでしょうね。
蕎麦の伝道師(!?)として

秀吉の死後は、小田原での恩があった徳川方に付き、そちらで徐々に重用されるようになった秀久は、信濃小諸藩主として内政にも努力しました。
早くから殖産興業政策(生産を増やし、新たな産業をおこす)を推進しようと考えていた彼は、小諸でとれる「蕎麦」に目を付けたんです。
もともと「蕎麦がき」の原料として使われていた蕎麦ですが、これではただ丸っこいだけで餅のようだし、もっと食べやすくポピュラーなものにならないものか…。
そこで考案されたのが、「蕎麦切り」でした。
細長く切った蕎麦のことで、現在では一般的にこれを「蕎麦」と呼びますね。
秀久は蕎麦切りの作業を通じ、領民との交流を持ったそうですよ。
そのため、「仙石さん」と呼ばれて慕われたんです。
こうして、現在にまで伝わる「信州そば」「小諸そば」の原型ができ上がったわけなんです。
また、後に秀久が但馬出石(たじまいずし/兵庫県豊岡市)藩に移封となると、小諸の蕎麦職人が彼について行ったんです。
よほど秀久が慕われているのか、秀久が蕎麦なしではいられなかったのか…。

そしてその職人が現地で蕎麦を伝え、この地の名物「出石皿そば」が誕生したんですよ。
実際に蕎麦づくりをしたのは職人たちですが、秀久の行くところ、蕎麦が一大名産品となっていったわけですし、やはり秀久を「蕎麦の伝道師」と呼んでもいいのではないでしょうか?
まとめ
- 豊臣秀吉の家臣の中でも「超」古参だった
- 九州征伐の際、秀吉の言いつけを守らず戦を始めてしまう
- その結果大敗を喫し、秀吉の怒りを買って改易される
- 小田原征伐に鈴のついた陣羽織で参上、「鈴鳴り武者」として活躍
- 蕎麦を各地に広めた「蕎麦の伝道師」だった
秀吉の家臣から大名になるも、一度の失敗で浪人となり、一度のチャンスをものにして復帰した仙石秀久。
そんなドラマチックな生涯を生きた彼に、蕎麦との関わりがあったというのはとても興味深いですよね。
信州や出石に蕎麦を食べに行きたくなりました。
仙石秀久の、不器用ながら庶民的な生き様には
感銘されます。出石そば は近場でもあり、よく食べます。更科そばとは違って、蕎麦の実をより多く粉にした、野性味あふれる黒みがかった蕎麦に
秀久の生き様を垣間見るようです。