「酒は呑め呑め 呑むならば~…」の一節で始まる福岡の民謡「黒田節」。
「黒田武士」とも呼ばれたこの唄の由来は、黒田長政(くろだながまさ)の家臣・母里友信(もり/ぼりとものぶ)の逸話でした。
とにかく豪快な逸話が多いこの男、相当な頑固者でもあったんですよ。
それでもちゃんと用いられていたんですから、やはり信頼されていたんでしょう。
そんな母里友信の豪快かつ頑固親父な生涯をご紹介します。
若いころから武勇の人
弘治2(1556)年、播磨国(兵庫県)の曽我家に生まれた友信は、黒田孝高(くろだよしたか/官兵衛、如水)に仕え、後にその息子の長政に仕えています。母里姓を名乗っているのは、母の実家を継いだためでした。
長身でがっしりした体格、そして力は強く勇猛さでは人を大きくしのいだと伝わっている友信は、戦場では武勇を誇ったそうです。初陣以降はたいてい先鋒をつとめ、孝高のもとで九州征伐に従軍し、豊前攻めで一番乗りを果たしています。
ちなみに、これ以前の織田信長による中国攻めの際は、孝高が豊臣秀吉(当時は羽柴)に従ったため友信も参戦し、この時も一番乗りという功績を挙げました。
信長は中国攻めの功績は秀吉のものだとして、鞍を置いた馬を秀吉に与えましたが、秀吉は「これは孝高の働き」として孝高に与え、孝高は「友信の働きだ」とこの馬と鞍を友信に与えたそうです。そのため、この鞍は家宝として母里家に伝わったそうですよ。
孝高が長政に家督を譲ってからは、友信は長政に従い、朝鮮出兵にも参加しました。
このあたりで起きたのが、あの有名な「日本号呑み取り事件」です。
名槍「日本号」を呑み取る
福島正則:Wikipediaより
友信の主・黒田長政と福島正則(ふくしままさのり)は、一度は仲違いしましたが、互いの兜を交換して仲直りしたという話があり、交流がありました。
そのためか、友信が長政の使者として正則のもとを訪問すると、正則が友信に酒をすすめます。
この福島正則、飲むんですが酒乱の気がある困った人でした。友信は使者なのでいちおう断りますが、だんだん正則が絡みはじめ、「飲めないっつーなら、黒田の武士は酒に弱くて、いざと言う時にも何の役にも立たんのだなあ!あ!?」とかなりひどいことを言い出しました。
黒田家の武士としての誇りを傷つけられては、友信も黙ってはいません。
「このでっかい盃で酒を飲み干せたら、お前の好きなもの何でもやるぞ!」
と言い出した正則から盃を受け取ると、一杯どころか何杯も飲み干してみせたんです。
ちなみに、友信の黒田家でのあだ名は「フカ」。ものすごい酒豪だってことです。
唖然とする正則をしり目に、友信は「ではそちらの『日本号(にほんごう/ひのもとごう)』をいただきたい」と申し出ます。
日本号は、正則が秀吉から拝領した家宝。全長3mを超える、天下三名槍のひとつでした。
正則は内心しまったと思ったようですが、武士に二言は無し。ということで、渋々ながらも日本号を友信に与えたのでした。
このエピソードが、「黒田節」の由来なんです。
「酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)の この槍を
呑みとるほどに 呑むならば これぞまことの 黒田武士」
まさにこの歌詞の通り、友信は日本号を呑み取ってしまったわけですね。
石垣の高さで主君ともめる
関ヶ原の戦いが起きると、当時上方に留め置かれていた孝高(如水)と長政の妻を救出したり、義兄・大友義統(おおともよしむね)を降伏させたりと活躍の多かった友信は、筑前の鷹取城(たかとりじょう/福岡県直方市)を任され、石高も1万8千石までに出世しました。
鷹取城は、長政と仲の悪い細川忠興(ほそかわただおき)の領地のすぐそば。
この城の石垣の高さをめぐって、友信は長政に文句を言ったんですって。
長政が「低くてもいい」と言えば、友信は「もっと高くないと!」と互いに譲りません。
そこで長政が「ここは籠城するとこじゃないからいいんだ」と言うと、友信は烈火のごとく怒り出し、「敵が来たら籠城もせずに逃げ出すなんてイヤです!」と退出してしまいます。
長政は、友信と義兄弟の契りを交わしている栗山利安(くりやまとしやす)に「細川が攻めてきたら援軍を出して蹴散らすし、その時は友信には前線を任せて、他の者にこの城を守らせようと思ってるのに…」とぼやきます。そこで利安が友信のところに行ってそれを伝えると、「なら最初からそう言ってくれればいいのに」とあっさり態度を転換した…という話でした。
また、長政の音痴ぶりを正面きって指摘したこともあるなど、主君に対してそれまずくない?という感じの態度を取ることもあったんですが、長政の不興を買ってどうこうされたということもないので、やっぱりこの裏側には信頼関係が築かれていたんでしょうね。
そこが、後に長政と合わずに出奔しちゃう後藤基次(ごとうもとつぐ/又兵衛)との違いだったんでしょうか。
「福智山が日本一!」と言い張る
福智山:Wikipediaより引用
さて、友信は関ヶ原の戦いの後、江戸城の天守台の石垣づくりを担当します。その際、徳川家康からほうびをもらったんですが、書状の宛名が「毛利」となっていたんです。
一説には「母里→もり→もうり→毛利」となっちゃったようで、それ以降「毛利友信」と名乗っていたそうですよ。家康いい加減。
そのころの話ですが、江戸へ向かう途中、「富士山ってでっかいなあ、美しいし日本一の山だ」と同行者が言ったところ、友信は、「そんなことはあるまい!福智山(ふくちやま)の方が高くて美しいわ!」と言い張ります。
福智山とは福岡県にある山で、標高は約900m。富士山は3,776mですから、どう考えたって富士山の方が高いわけですよ。
「まさか(福智山の方が高いわけないじゃん)」と言われると、友信はムキになって「いや、福智山が高い!自分の首をかけてもいい!」とまで言い出します。
みんな、友信がこういうふうに言い出したら聞かないのを分かっていたので、「はいはい、そうですね」と折れてその場を収めたとか。
それでも、引くに引けなくなったのか、友信は「福智山の方が日本一!」と生涯言い続けたそうですよ。頑固者ですねえ。
「絶対仲直りなんぞしない!」事件
桐山信行:Wikipediaより引用
言い出したか聞かない性格の友信ですから、このせいで同僚の桐山信行(きりやまのぶゆき)とは20年近く仲違いしていたことがありました。口も利くことがなかったそうです。
しかし、2人を仲直りさせてある事業に当たってもらいたい長政は、「困ったときの栗山頼み」ということで、栗山利安に「どうにかならないの?」と頼みます。
栗山利安:Wikipediaより引用
利安は友信を説得しますが、友信は「絶対に仲直りなんぞせん!」と頑なな態度。利安が「殿の上意だぞ」と言っても、「嫌なもんは嫌!」と全然聞こうとしませんでした。
そこでついに利安がキレてしまい、ふだんの冷静さを失って、なんと友信をぶん殴ってしまったんです。
この時、場には何人もいたので「やばいよこれ…」的な空気が流れます。友信は剛の者ですから、利安をやっつけてしまうかもしれませんからね。
しかし、友信ははらはらと涙を流し始めました。
そして、「如水様の取り計らいで、利安どのと義兄弟にしてもらったが、もう年を取ってそんなことは忘れられていると思っていた。しかし、そうではなかった。今もこんな風に自分を案じてくれるとは…!」と言うと、和解に応じたんです。
これで全部丸く収まり、友信は桐山信行と協力して「九州の箱根」と呼ばれる冷水峠(ひやみずとうげ)の開通工事に当たり、見事成し遂げたのでした。
友信が亡くなったのは、その工事から7年後の慶長20(1615)年のことでした。
まとめ
- 若い頃から武勇を発揮していた
- 名槍「日本号」を福島正則から呑み取った
- 石垣の高さで主とケンカした
- 富士山よりも福智山が高いと主張して生涯譲らなかった
- 義兄弟に殴られてようやく20年以上仲違いしていた相手と仲直りした
豪快かつ頑固なエピソードが多い友信の生涯ですが、それでもその振る舞いが許されているのですから、憎めない人物だったんでしょうね。そしてもちろん、黒田家に対する忠誠が篤かったんでしょう。これぞまさに黒田武士。
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