なぜ石川五右衛門は秀吉によって釜茹での刑で親子一緒に処刑されたのか

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歴史上には存在を疑われる人物がたくさんいます。有名な所では真田十勇士でしょうか。あんな超人的な人物がいたら、歴史も面白かったでしょうね。ただモデルはいたかもしれませんが。

石川五右衛門もそのうちの一人です。実際、歴史の教科書に出て来る事は皆無ですし、歌舞伎やドラマでの活躍が多く、こんな人物がいたのかと思わせます。

また、五右衛門を有名にしたのは皮肉なことに最後の釜茹での刑でした。これも史実として残っているのでしょうか。また、五右衛門はなぜこのような目に合わなければいけなかったのでしょうか。今回はこちらを調べてみました。

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盗賊石川五右衛門とは? 本当に存在したの

まず初めに石川五右衛門とはどのような人物かと語るまえに、五右衛門は本当にいたのかが先に議論されるのが実情です。歌舞伎などで有名になった架空のヒーローとして存在したのではないかという考えは常に付きまとっていました。

しかし、貿易商アビラ・ヒロンの日記「日本王国記」に釜茹で処刑の事が記述されていました。書籍によると1594年に「goyemon」と言う人物とその家族と兵士達が油で煮られたという記述があり、更に公家の山科言経の「言経卿記」にも盗賊、スリなどが釜にて煎られるという記述が残っています。

 

秀吉の「豊臣秀吉譜」にも悪行を働いた盗賊を秀吉の命で母親と同族20人釜煎りにされたという記述があります。

特に日本王国記は貿易の様子や織田信長や豊臣秀吉の天下統一までを描いた歴史的価値からも評価が高い文献で信憑性は高そうです。また、秀吉の公式文書にも記載されている事から、実在した人物として考えられるようになりました。

 

それでは、石川五右衛門はどのような人物だったのでしょうか。ドラマなどで見る五右衛門は超人的な能力を持った人物で弱気を助け、強気をくじく義賊として描かれています。

しかし、公式的な歴史書ではそのような記述はなく、単なる盗賊として記載されていますね。秀吉譜では悪行を働くとんでもない悪党呼ばわりですね。

俗説では幼名を五郎吉と言い、幼少から手の付けられない子供だったようです。その後伊賀出身で伝説の忍者百地三太夫の弟子になり、京都に出て秀吉の政治で苦しんでいる者を助ける義賊として活躍するも秀吉の手下に捕まり、釜茹での刑に子供と共に処刑された。

 

史実に伝わる五右衛門と伝説の五右衛門どちらが正しいのかは分かりません。しかし、秀吉の命によって処刑されるとは、当時名の通る盗賊であったことは間違いないでしょう。

 

五右衛門の釜茹での処刑とは?

五右衛門の処刑:Wikipediaより引用

 前項からの続きですが、単なる盗賊であった五右衛門が釜茹での刑にあったのは疑問です。更に仲間だけでなく、母親更に子供まで及ぶ一族まで処刑されるにはそれなりの理由があったのでしょう。

 

ただ前述の歴史書でも記載されているように処刑方法が違うのはなぜでしょうか。また、伝承でも様子が違うのです。

 

処刑方法も釜茹でと油の中に入れられるとどちらも酷いですが、二つの記載があります。場所は京都三条河原一択なのですが。

 

また、釜茹での様子も幾つか説があり、子供を息絶えるまで掲げ続けたという説と、苦しまないように一気に釜の中に子供を入れた説と、熱すぎて子供を下敷きにした説とどれが本当か分かりません。

 

こんな残酷な処刑は世界の中でも珍しいと思いますね。それも一族をというのは何か裏がありそうです。単なる盗賊一味にここまでするという事と、秀吉ほどの人物が残虐な死刑を選んだ事とその理由が知りたいですね。

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実は五右衛門は秀吉暗殺を狙っていた

豊臣秀吉:Wikipediaより引用

 史実的に見れば五右衛門の処刑は妥当なものだったと言えます。なぜなら五右衛門一味は窃盗、強盗、連続殺人など現在でも重罪とされる罪を長きに渡ってやってきたと言われています。

 

その背景には、天下統一した秀吉の二度に渡る朝鮮出兵があり、日本全国男手が少なく結構、やり放題だったことも影響します。その隙間を縫う様に悪行を重ねていたと思われます。そこで業を煮やして見せしめの為に敢えて残酷な処刑をとったと思われます。

しかし、ここでもう一つ説があるのです。実は五右衛門は秀吉暗殺を企てていたと言われています。

 

こちらの説は五右衛門の出生にまで遡ります。実は五右衛門はある大名の息子でその大名は秀吉に倒され、その事を根に持って忍者修行して盗賊となり、時の権力者である秀吉に対して嘲るように金持ちの大名屋敷から盗んでは、貧しい家庭にその盗品を置いていったと。

そして、意を決して秀吉の寝室にあった“千鳥”という青磁の香炉を盗む際に香炉が泣いた事で秀吉に気付かれ、万事休すという状態になったと。

この時、秀吉の千鳥を盗むと同時に秀吉の暗殺までも企てていたという事です。

 

しかし、五右衛門単独説に異議を唱える説もあるのです。

 

五右衛門はある人物に頼まれ秀吉暗殺を請け負った

 

秀吉は当時(安土・桃山時代)には天下統一を成し遂げ、権力を盤石のものとしていました。言うなればわが世の春を謳歌していた事は間違いないでしょう。そうなると怖い者知らずになり、表だって刃向う者は皆無でしょう。

 

しかしそのような時にこそ出て来るのが謀略です。表だって排除する事が出来ないなら、暗殺と言う選択肢は当然出て来るでしょう。そしてそのような事を考えるのは外部より内部と言う線は推理しやすいです。

豊臣秀次:Wikipediaより引用

 そんな中疑われているのが、秀吉の甥豊臣秀次が中心になり秀次の家臣木村常陸介が五右衛門に暗殺を依頼したという逸話も残っています。秀次事)件(謀反の疑いをかけられて自刃させられ、更には首をさらされるという事件があるように、養子だからか秀吉との相性は最悪でした。更に宣教師の談話を参考にするとかなり人気のあった人物でした。

その事が気に入らない秀吉というよりは石田光成を中心とする家臣団から秀次は謀反の疑いをかけられ最悪な最後を遂げ、その秀次を信じていた木村が五右衛門の手を借りた想像できます。

 

もちろん、こんなことは史実には出てきません。しかし、可能性は否定できません。なぜならこの家臣団の中に前田玄伊がいるのです。

前田玄以:Wikipediaより引用

前田は秀吉の命を受けて五右衛門退治を請け負っているからです。もしかしたらお互いの利益が一致したらと想像してしまいます。

 

他にも前述の秀吉に潰された大名の子供として不遇の時代を過ごした五右衛門が敵討を目論んだという説も良く耳にします。

最近では五右衛門が陰陽師であったとか、家康に暗殺の命を受けたとかここまで来ると何でもアリと言った感じですが。

 

史実に照らし合わせて考えると、秀吉暗殺はなかった事になってはいますが、何か不穏な空気は当時あったのでしょう。事実秀次の件は史実として残っています。そこに五右衛門がリンクした事は意味があったのでしょう。

 

 

まとめ

 

「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きるまじ」五右衛門辞世の句です。こんな風流な盗賊は歴史上いないですよね。これも実際詠んだか定かではないですが、誰かが創作したとしても五右衛門と言う存在は珍しい存在だったと思われます。

五右衛門の名セリフ「絶景かな 絶景かな」と言うのは歴史的に見て、創作であると言われています。南禅時は五右衛門が生きていた時代には存在しなかったのです。

 

歴史は良く“勝者の歴史”と言われています。時の権力者にとって不都合な真実は隠されるのです。では、敗者の事はどう伝えられるのでしょう。そんな時に架空のヒーローが出て来るのです。良くある生存伝説はここに当てはまる場合もあります。

 

五右衛門の場合は少し事情が変わりますが、京都を中心とした地域には反秀吉という隠れた勢力があったのは事実です。天下統一したとしても秀吉には敵が多かったのです。その事が千利休の切腹や秀次への残酷な仕打ちをする事で、粛清する意味合いもあったでしょう。

 

しかし表立っては反抗できない人々が、当時世間を騒がしていた盗賊五右衛門をヒーローにする事には必然性があったのです。朝鮮出兵という無謀な秀吉の策に対してその隙をついた五右衛門の所業に陰ながら拍手を送っていたのでしょう。その事で秀吉の鼻を明かした五右衛門をヒーローとして祭り上げ、その後歌舞伎などでの大活躍となったと思われます。

 

その事の延長線上に秀吉暗殺があったという事は想像できます。この事は史実かどうかは闇ですが、近い事実があったのではないか、ある事件がモチーフになっているかもしれません。

 

もしかしたら、五右衛門は本当に義賊で反体制派のリーダーだったかもしれません。反体制派の主要な人気のある人物で、その事が気に入らない秀吉(勝者)によって五右衛門(敗者)は極悪非道な盗賊となったのかもしれません。

 

そんな想像をしてみると歴史の裏側にはどんな真実が隠れているか分からないです。五右衛門の人間像が正反対であるイメージ像と、処刑だけが史実として残っている事を考えると五右衛門と言う存在を解明すると新たな歴史が開かれるのかもしれません。

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