「あー…鳥になって空飛んでみたい…」って思ったこと、誰もが一度くらいはあるんじゃないでしょうか。
私は、嫌なこととか辛いことが重なると、そんな風に思うことがあります(現実逃避)。
ただ、そんなことできるわけないって打ち消しますよね、普通は。ところが、本当にそれができると信じていたお偉いさんがいたんですよ。
彼の名は細川政元(ほそかわまさもと)。
将軍をしのぐ権力を持ち、「半将軍」とまで呼ばれた超VIP、さて、どうやって空を飛ぼうとしたんでしょうか…!?
「この子がいれば安泰だ」と言い残した父
文正元(1466)年、政元は室町幕府のNo.2である管領の細川勝元の嫡男として生まれました。
細川勝元:Wikipediaより引用
細川勝元、ちょっと聞いたことがありませんか? 京都を焼け野原にしてしまった大乱・応仁の乱でと東軍の総大将となった人物ですよ。
しかしその父は応仁の乱の最中に病死してしまいます。この時、政元は8歳でした。
死の床にあって、勝元は政元を見つめてこう言い残したそうですよ。「この子さえいれば細川家は安泰だ」と。政元の幼名は聡明丸、その名の通り、頭の良い子供だったんだそうです。
そして、応仁の乱が何とか終結した後、文明10(1478)年に、政元は13歳で元服を果たしました。
ただ、まだ若かったですし、不安定な情勢でもあったためけっこう苦労してるんです。家臣同士の争いで拉致され、4ヶ月も幽閉されていたこともあったんですよ。
そんなこともあったからこそ、自分が強くなってやる! という思いはふくらんでいったかと思いますね。
将軍後継者争いとクーデタ
細川政元:Wikipediaより引用
さて、長享元(1487)年、幕府に反抗的な態度を取っていた六角氏を討伐しようと、9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)は政元と密かに準備をしていましたが、その途中で病死してしまいます。
で、室町時代ではもはや恒例行事となっていた後継者問題が起きるんですよ。
政元は義尚のいとこの義澄(よしずみ)を押しますが、政敵畠山政長(はたけやままさなが)と8代将軍義政の正室・日野富子(ひのとみこ)のゴリ押しにより、別のいとこの義材(よしき)が将軍に選ばれてしまいました。しかし日野富子、こんなところにまで顔を出すとは、とんでもなく権勢欲の強いおばちゃんですね。
というわけで、政元はものすごく不満でした。そのため、しばらく幕府と距離を置くようになっていきます。
しかし、「こいつがいれば家は安泰」とまで言われた政元、明応2(1493)年に行動を起こします。実は、将軍・義材は富子の言うことを聞かないので、富子も彼を排除したいと思っていたんですね。
利害一致、ということで政元と富子は手を組み、義材を幽閉して義澄を11代将軍としてしまったんですよ。ついでに、畠山政長もさくっと片付けています(自害させた)。
そして政元は管領となり、事実上実権を握ったというわけなんです。
その力は絶大で、いつしか人々は政元を「半将軍」と呼ぶようになっていきました。
権力よりも修行がしたい!?
さて、30歳手前ですでに並ぶもののない権力者となった政元ですが、実は、彼には政治よりも大事なものがあったんですよ。
それが、「修行」です。
何の修行かって、修験道(しゅげんどう)なんですよ。つまりは、山伏の修行ですね。
いつかは天狗のように空を飛びたい…と夢見る管領・細川政元。
ついには鞍馬寺にこもり、山伏に付いて修行をしたというんです。鞍馬寺って、源義経が小さい時に天狗と修行をしたっていう言い伝えがあるところですから、政元、本気だったんですよ。
しかも、ちゃんと呪術を習得していたという話もあって、飯綱(いづな/小さいイタチみたいな管狐という憑き物)の法や愛宕(あたご/キツネ)の法を使いこなしたともいうんです。こんな管領、ちょっと近寄りたくないですね…。
しかも、「修験道は40歳まで女人禁制だ!」と宣言し、女性をまったく近づけようとしなかったんです。まあ、一説には同性愛者だったと言われているんですが、とにかくこんな様子なので子供ができず、やむなく養子を取ることになりました。しかし、この養子たちの間で後に争いが起きて、政元の死後は世の中がどんどん混乱していくことになってしまうんですよ。
ということは、政元の天狗になりたい欲求が世を荒れさせたということ…? いやいや、そんなことはないと思いたい…です。
天狗になりたい人はやることが違う
この他にも、政元は普段からちょっと(どころではなく)変わった人物でした。
貴族も武家も必ず被らなくてはいけない烏帽子(えぼし/黒くてとんがった帽子)を被らなかったり(これはものすごく非礼に当たります)、突然山伏のお経を唱え出して皆をドン引きさせたりと、もはや立派な変人でした。
その呪術はすでに本物だったのか、当時の人々の日記には「政元の屋敷の回りに怪鳥が出現した」とか、「政元の屋敷の上空に首が浮いていた」とか、この世の出来事とは思えないことが記されているんです。政元、いったい何を呼び出しちゃったんですか…!?
これでも、「半将軍」と呼ばれ、実質、将軍以上の権力を持っていた人ですよ。本当ですよ。
こんなことをやっている間にも、外敵などにはちゃんと対抗しています。
越中(富山県)で亡命政権をつくっていた元将軍・義材が比叡山延暦寺を味方につけて中央政権に対抗しようとすると、政元はすぐさま延暦寺を焼き討ちしています。ほぼ全焼というすさまじいものだったそうで…信長が後でやった焼き討ちなんて大したことない、というくらいのものだったんですって。
戦の最中に「我は奥州に修行に行く!」
天狗になる夢を実現すべく、日々修行に励む政元でしたが、その一方で幕府への謀反や戦などが相次ぎます。政元は有能なので、自分が出て行けばきちんと片づけることができるんですが、徐々に、それに嫌気がさしてきてしまいました。
そして、何と敵方の征伐中に、「我は奥州(東北)に修行に行く!」と言い出し、陣を離れようとしたんです。
実はこの手の前科があった政元。修行と称して突然出奔し政治が混乱、将軍自ら説得に行ったこともあったんですよ。将軍様になんてことさせてるんでしょう、政元。
さて、困ったのは家臣たち。「また殿の悪い癖が出た…」とため息をついたはず。
するとそのうちの一人が進み出て、「そんなことやってる場合じゃありません!」と一喝。この諫言が効いて、政元は渋々その場にとどまったのでした。
しかし、こんなことばかりが続いては、家臣たちもたまったものではありません。
「いっそのこと、……」と思う輩がいたとしても、当然のことだったでしょう。
入浴中の暗殺劇
永正4(1507)年、地方遠征から京都へ戻る途中、入浴しようと風呂場へ入った政元は、そこから出てくることはありませんでした。
彼が風呂へ入った途端、刀を手にした数人が押し入り、彼を斬り殺してしまったのです。まだ政元は42歳でした。
この事件は永正の錯乱と呼ばれています。
首謀者は、政元の家臣・香西元長(こうざいもとなが)だとされています。彼は、政元の養子のひとり・澄之(すみゆき)の補佐役を務めていましたが、澄之が廃嫡されたため自分の地位も低下し、それを恨んでの犯行だったというんです。
加えて、政元がこんな風に修行に明け暮れていては、細川家の将来そのものが危ういと思ったのでしょう。
ちなみに、なぜ澄之が廃嫡されたかというと、彼は細川家とは関係のない公家からの養子だったため、そのことに根強い反対があったんだそうです。そのため、政元は細川一族からもう一人の養子・澄元(すみもと)を迎えて嫡男としたんですよ。
こうなれば、澄之だって政元に恨みを抱きますよね。黒幕は彼だったとも言われています。
さて、その後の細川家は、澄之と澄元、そして突如「自分も政元様の養子でした!」と名乗りを上げた高国(たかくに)との間で家督争いが起きます。当然ですね。そしてそれは20年以上も続くことになったんです。
すべては、政元が天狗になって空を飛ぼうと頑張りすぎたから…だったからかもしれませんね。
まとめ
- 父に見込まれた聡明さを持っていた
- クーデタで実権掌握、「半将軍」と呼ばれる
- 修験道にドハマり、本気で修行を始める
- ふだんから奇行が多い「変人」だった
- 戦の最中に「修行に行きたい」と言い出したことがある
- 部下と養子に暗殺された
政元が有能であることは事実だったんですが、それ以上に変人でしたね。
今なら、パラグライダーやスカイダイビングもありますし、やらせてあげたかったな、なんて思ってしまいますよ。
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