上杉謙信に実子がいなかったのは、皆さんご存知かと思います。
跡を継いだのは養子の上杉景勝でしたが、その影には、ひっそりと歴史から退場していったもう一人の上杉姓を持つ養子・上杉景虎(うえすぎかげとら)がいたんです。
彼、実は北条氏康(ほうじょううじやす)の実子でした。
しかしどうして彼が上杉家に来たのか、そしてなぜ悲劇の最期を迎えることになったのか…その人生、紐解いてみたいと思います。
父は北条氏康
北条氏康:Wikipediaより引用
天文23(1554)年、景虎は関東を統べる後北条氏の当主・北条氏康の七男として誕生しました。
当初は「三郎」と名乗っていたようですが、ここでは便宜上「景虎」で統一します。
北条氏政:Wikipediaより引用
長兄が北条氏政(ほうじょううじまさ)であり、当然、景虎は当主になる見込みもない立場でした。
そのため出家し、北条氏の菩提寺でもあった早雲寺(そううんじ)にいたと言われています。
この頃、戦国時代は武田・上杉・今川・北条などの勢力が拮抗して争っている状態でした。
景虎が生まれた天文23(1554)年には武田・北条・今川の間で甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)が成立し、互いに息子と娘を結婚させて婚姻関係を結んだんです。
北条幻庵:Wikipediaより引用
そんな情勢でしたが、永禄12(1569)年、16歳の景虎は相次いで息子をなくした大叔父の北条幻庵(ほうじょうげんあん)の養子となりました。この時幻庵の娘を正室に迎えています。
ただ、この生活は本当に短いものとなってしまいました。
景虎、越相同盟のため上杉家へ
この頃、武田信玄が同盟を破って今川領へと侵攻します。
今川義元は桶狭間の戦いで織田信長に敗死しており、あまりデキのよろしくない息子の氏真(うじざね)が当主となったため、信玄はこれを好機と見たわけです。
こうして三国同盟の一角が崩れたため、北条氏は信玄と結んだ同盟を破棄し、信玄の宿敵でもある上杉謙信と同盟を結ぶことにしたんですね。
というのも理由がありまして、北条氏を取り巻く情勢もなかなか厳しいものだったんですよ。
元々上杉氏とは対立していたんですが、加えて、安房地方(房総半島)の里見氏が反抗してきており、これで武田と対立すれば三方から敵が攻め寄せてくることになってしまいます。
そのため、氏康は謙信との同盟を選んだんです。
一方の上杉氏も、長年の北条氏との戦で周辺豪族が北条側に寝返ってしまい、武田氏がそこに勢力を伸ばしてきている状態でした。
そのため、武田への対抗策として北条と結ぶのが得策だったというわけです。
こうして越相同盟(えつそうどうめい)が結ばれたんですが、この条件の中に、北条氏政の二男・国増丸(くにますまる)を上杉謙信の養子とするというものがありました。
ところが、まだ幼いわが子が不憫だったのか、氏政は手放すのを拒否しちゃったんです。それダメでしょ!
まあ、そういうわけで代わりを探すことになったんですが、そこで白羽の矢が立ったのが、景虎だったんです。
上杉謙信との対面
永禄12(1569)年の12月に北条幻庵の養子になった景虎ですが、翌年の3月には謙信の元へ行くことが決まってしまいました。
しかも、謙信の姪(景勝の姉か妹)を娶るという条件もついていたので、結婚したばかりの幻庵の娘とも離縁しなくてはならなかったんですよ。
なんだかもう、みんな可哀想…。でも、やっぱりこういう時に「駒」になるのが戦国の世のならいだったんですよね。
こうして、同じ年の4月に景虎は謙信と面会し、そのまま謙信の居城・春日山城へと移動し、そこで謙信の姪と祝言を挙げて正式に養子となりました。
謙信はすでに甥の景勝を養子に迎えていましたが、景虎のことを余程気に入ったのか、長尾氏時代の自分の名前「景虎」を与えたんです。
この時ようやく景虎は「北条三郎」から「上杉景虎」となったのでした。
加えて、謙信は景虎に春日山城三の丸に屋敷を与え、ごく身近に置いたんですよ。
なんでそこまで気に入ったのか…ちょっと疑問でもありますよね。
一部では言われていることなんですが、景虎は一説によると相当の美男子だったそうなんです。
「尋常じゃない美男」と書かれているものもあるそうですし、「三郎殿と一夜契りて…」なんて歌が巷で流行ったほどなんだそうです。
謙信もまた美少年や美男を好んで傍に置いたなんて説もあるので、まあこういう話を持ち出すのもお許しください。
実父・氏康の死
こんな風に謙信に気に入られ、上杉家でも人望を集め始めていた景虎ですが、その実家はと言うと、少し雲行きが怪しくなってきていました。
実は、父・氏康と兄・氏政との間で、越相同盟を巡って意見が割れていたんです。というのも、あまりこの同盟が機能していなかったためなんですよ。
武田信玄相手には効力を発揮したこの同盟ですが、北条氏を取り巻く反北条勢力に対しては、効き目がほとんどありませんでした。謙信自身が他への出兵に忙しく、関東へ軍事介入するヒマがなかったんです。
それなら同盟の意味ないでしょ! というのが氏政の考えでした。
そんな中、元亀2(1571)年に氏康が亡くなってしまいます。そして氏政は同盟相手を謙信から信玄へと替えたのでした。
となれば、上杉へ養子に行った景虎の立場ってどうなるのという話ですよね。
父・氏康の死に伴い、一度小田原へ戻った景虎ですが、すぐに越後へと帰還しています。
すでにこの時、上杉・北条間の関係は微妙なものだったはずですが、謙信は景虎を手放そうとはしなかったんです。
ホントに気に入っていたんでしょうね。
上杉景勝:Wikipediaより引用
ただ、忘れてはいけないのが、謙信にはもう一人、後継候補の景勝がいたということ。
景虎と景勝、いったいどちらが謙信の後継者なのか…はっきりしないまま、時は流れていきました。
そして突然、思いもよらない出来事が起こったんです。
謙信の死と後継者争い
天正6(1578)年3月、謙信は春日山城の厠で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまいました。脳血管障害とも言われています。
あまりにも突然のことだったため、謙信は後継者を誰にするのかさえ言い残していませんでした。
謙信が「御実城(おみじょう)様」と呼ばれたのに対し、景勝は「御中城(おんなかじょう)様」と呼ばれていたため、これで景勝が謙信の後継者であるとされることもありますし、上杉一門の最上位に置かれ、家中の最大兵力も持っていました。
一方、景虎は何と言っても謙信の初名を与えられていますし、謙信に代わって寺社へ書状を送ることもあったそうで、正直、どちらが後継者にふさわしいかははっきりしなかったんです。
というわけで、景勝派と景虎派に分かれた家臣団たちも衝突し、後継者争い「御館(おたて)の乱」が起きてしまったんです。
御館の乱の推移
当初は、実家が巨大勢力北条氏でもある景虎が有利かと思われていました。
北条だけでなく、同盟と言うことで出兵を頼まれた武田勝頼(たけだかつより)も出てきましたし、東北の蘆名氏や伊達氏までもが景虎を援護する形で介入してきたんです。
しかし、景勝の動きは素早く、春日山城の本丸や金蔵、軍備を抑え、謙信が使用した印判も手に入れたんです。
つまりは、これを使うことで自分が謙信の後継者だと宣言できるわけですからね。
また、謙信の側近や重鎮たち、謙信の他の養子たちも景勝側に付きました。
その一方で、出兵してきた武田勝頼に金品や領地を引き換えに和睦を持ちかけ、うまいこと帰ってもらったんです。
こうして、根回しの上手かった景勝が有利に立ったため、景虎は春日山城を脱出し、謙信の養父で前関東管領・上杉憲政(うえすぎのりまさ)がいた御館に籠城したんです。
攻防戦は続く中、両者は武田勝頼の調停でいったん和睦しますが、それが長く続くわけもなく、争いは再燃し、悪化の一途を辿って行きました。
景虎の最期
天正7(1579)年2月、景勝は御館に籠もる景虎に総攻撃を仕掛けます。
季節は真冬、景虎の頼む北条の援軍は雪のために行軍を阻まれており、景虎を助けることができませんでした。
孤立した景虎を救うため、上杉憲政は景虎の長子・道満丸(どうまんまる)を連れ、和議を求めて景勝の元へ向かいましたが、途中で2人とも殺されてしまいます。
つまりは、景勝に和睦の意思などなかったということです。
そして御館には何者かによって火が放たれました。
炎上する御館を脱出し、景虎は兄・北条氏政の元へ逃げる道を選びます。
しかし、すでに越後領内で景虎に味方をする者はいなくなっていました。
小田原への途上、景虎が立ち寄った鮫ヶ尾城(さめがおじょう)の城主・堀江宗親(ほりえむねちか)は、元々は景虎派でしたが、この時ひそかに景勝側に通じていたんです。
そして彼は景虎の入城後、城に火を放ちました。
焼け落ちる鮫ヶ尾城と共に、景虎は無念の自害を遂げました。26歳の若さでした。
景勝の姉(もしくは妹)である彼の妻もまた、夫と共に死を選んだのです。景虎には道満丸の他にも子供がいましたが、彼らもこの時期に歴史から姿を消しています。
北条氏康の血を引き、上杉謙信に気に入られた人物としては、あまりにも悲しい最期でした。
まとめ
- 実父は北条氏康で、大叔父・北条幻庵の養子となった
- 上杉謙信との同盟のため、養子に出される
- 謙信に気に入られ、「景虎」の名を与えられた
- 実家が上杉との同盟を破棄しても上杉家に留まった
- 謙信の死後、景勝との後継者争いに突入
- 最初は景虎有利だったが、やがて形勢が逆転した
- 最後は裏切られ、無念の死を遂げた
御館の乱の後、景勝は「鬱憤を晴らした! 」と言っているので、日ごろから2人の間に感情的なすれ違いがあったのかもしれません。
そもそも、謙信がちゃんと後継者を決めておけば良かったんですけどね…。
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