長束正家~イメージ向上キャンペーン!地味だけどデキる良いヤツなんです~

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皆さん、こんにちは!

今回の歴史じっくり紀行は、長束正家について紹介していこうと思います。

今回ご紹介するのは、豊臣政権五奉行のひとり、長束正家。

『名前だけは知っているけど、正直地味すぎてどんな人物なのかよく分からない』という人が多いのではないでしょうか?

近年では映画『のぼうの城』で平岳大(ひらたけひろ)さんが演じ、『なんだか嫌味なヤツ』というイメージも付いてしまっていますよね。

今回は『長束正家イメージ向上キャンペーン』と銘打ち、彼の好感度アップを試みてみたいと思います。

不確かな出自

長束正家は永禄5年(1562年)近江国粟田郡(滋賀県草津市)、父が築いた居館(きょかん)・長束館(なつかやかた)で生まれたと言われています。

父は元『水口城主(みなくちじょうしゅ)』水口盛里(もりさと)。

『天正年間に戦に敗れ、城が落ちたために長束村に遁世(とんせい)、以来長束氏を名乗った』と伝わります。

この『水口城』、おそらくは近江国甲賀の水口岡山城付近にあったのでしょうが、正確なことは不明です。

あるいは、尾張国・現在の稲沢市にあった長束邸で生まれたという説もあり、その出自はあやふやです。

要は没落した武家の子だったため、記録が残っていないということですね。

姓の読み方も『なつか』『ながつか』のどちらが正しいのか、はっきりしていませんが、ここでは一般的だと思われる『なつか』で統一しておきます。

ヘッドハンティングで秀吉家臣に

正家は初め、織田信長の重臣・丹羽長秀(にわながひで)に仕え、財政管理を担当していました。

算術がずば抜けて得意だったほか、兵法(へいほう)にも通じ、人当たりも良い実直な人柄だったようです。

今でいう塾講師のようなこともしていて、自宅は教えを請う者で賑わったと伝わります。

信長が横死(おうし)して3年の天正13年(1585年)、正家は羽柴秀吉に引き抜かれ、財務管理の担当に抜擢されます。

この時すでに長秀は死の病に侵されていましたから、正家としては後ろ髪引かれる思いだったことでしょう。

案の定、長秀の死後、秀吉は丹羽氏を追い落としにかかりました。

『丹羽氏には財政上不審なところがあり、佐々氏(さっさし)と内通していた』という言いがかりをつけたのです。

長秀の金庫番をしていた正家は、新しい主人に対し、それまで付け続けた帳簿を揃えて提出。理路整然と釈明・反論したのです。

正家の、仕事へのプライドと旧主に対する恩返しの気持ちが表れた、カッコいいエピソードですね。

まあ、そんな正家の努力も虚しく、丹羽氏は大幅減封(げんぽう)の憂き目にあってしまうのですが・・・

小田原攻めで地味に活躍

正家は羽柴家へ移った直後の天正14年(1586年)、徳川四天王・本多忠勝(ほんだただかつ)の妹(従妹(いとこ)とも)栄子(えいこ)を正室に迎え、3年後には嫡男・助信(すけのぶ)が誕生。

家康とも親交を持つようになった正家は、天正18年(1590年)正月、

小田原攻めの実質的な人質として家康三男・長丸(ちょうまる:秀忠(ひでただ)・上洛中に元服)が人質として上洛したときには、出迎え・警護役に任ぜられています。

小田原攻め本戦では兵糧奉行に任命された正家。

20万石に及ぶ兵糧を収集・運搬・配分する大役を見事にこなし、さらに現地では小田原城下・周辺の米を買い占め、後北条氏(ごほうじょうし)を追い詰めるという働きを見せました。

同じく従軍していた徳川家康はこれに感心し、兵糧を現地調達メインで考えていた担当者を呼び寄せて、正家の働きを参考にするように言いつけたといいます。

映画『のぼうの城』では、成田氏(なりたし)に対して横柄な態度を取るイヤな奴(でもちょっとかわいい)と描かれていますが、

実際にはとても細やかな配慮と綿密な財政管理のできる、名官吏(めいかんり)だったんですね。

忍城(おしじょう)攻めではご本人にこそ目立った槍働きはありませんが、かわりに家臣たちが武功を挙げています。

その後も豊臣家の台所を算術で支え、太閤検地(たいこうけんち)の実施

200万石におよぶ秀吉の直轄地(太閤蔵入地(くらいれち))の管理などの財務行政のほか、伏見城の普請(ふせい)事業にも参画。

朝鮮出兵においても物資の輸送を担ったり、大名領地の農村再建・逃散(ちょうさん)農民の帰住(きじゅう)について相談に乗ったりと、じつに細やかな仕事ぶり。

まるで有能な銀行マンか、歩くコンピューターのようですね。

浅野長政・前田玄以(げんい)・増田長盛(ましたながもり)・石田三成とともに五奉行に名を連ねた正家は、

文禄4年(1595年)近江国甲賀水口に5万石を与えられ、父以来の悲願・水口城主に返り咲きます。

秀吉の死の前年には12万石に加増を受け、従四位下(じゅしいげ)に叙任されました。

思えばここが、長束正家の人生のピークでした。

西軍挙兵へ

秀吉没後、正家は同僚・石田三成ら五奉行と協力体制を取ります。

しかし慶長4年(1599年)3月、三成が佐和山城蟄居(ちっきょ)となり、11月には五大老の前田利長・五奉行の浅野長政が『家康暗殺計画疑惑』によって失脚。

豊臣政権が内側から崩れ、徳川家康が台頭していく中で、正家は慶長5年(1600年)6月、家康に会津征伐中止を嘆願。大戦を回避する動きを見せます。

しかし、家康がこの嘆願を無視して行軍を開始すると、正家は水口城下で家康襲撃を計画。

襲撃は事前に甲賀衆によって家康にリークされたため、失敗に終わりました。

7月、残った三奉行の署名入りで『内府ちがひの条々(ないふちがいのじょうじょう)』を書き上げて諸大名に送付すると、

毛利輝元と宇喜多秀家も『秀頼様へ御馳走(ごちそう)あるべき』との書状を発します。

弾劾状(だんがいじょう)を発することにより、家康の軍事行動の正当化を否定し、家康を『逆臣』という立場に追い込むのが狙いでした。

『あれ?家康を弾劾したのも、挙兵を主導したのも、三成じゃなかったの?』と思いますよね。

じつは、三成の蟄居後から挙兵までの動向は、よくわかっていません。

ただ、会津へ出陣途中の大谷吉継(おおたによしつぐ)が佐和山城へ立ち寄り、会談したことは確かなようです。

ここに三成に同情を寄せていた毛利輝元の使者・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が同席し、

この3人によって輝元の大坂入り・挙兵の具体案が練られたのではないか、という説が有力です。

この決定を受けて、正家ら三奉行が弾劾状を作成・二大老も決起を表明し、『大坂方連合軍』とでもいうべき『西軍』の挙兵となりました。

関ヶ原の戦い

西軍挙兵後、正家は大坂城に諸将の妻子を人質として勾留(こうりゅう)しようと動きますが、池田輝政の妻子に逃げられてしまいます。

伏見城攻めでは、地元の甲賀衆を使って城兵を内応させて落城に貢献するも、以後、思うように武功を立てることができません。

算術・後方支援には長けていた正家でしたが、前線で軍を指揮するのは、どうにも不得手だったようですね。

安濃津城(あのつじょう)の戦いでは、安国寺恵瓊や毛利家家臣・宍戸元続(ししどもとつぐ)らとともに伊賀方面から攻め寄せ、大軍を率いて伊勢路(いせじ)に入った正家。

九鬼嘉隆(くきよしたか)による海上封鎖で孤立した東軍・富田信高(とみたのぶたか)を真っ先に攻めようとしますが、

敵方の小船団(こぶねだん)を家康本隊の援軍と誤認して、一時退却してしまうというミスを犯してしまいます。

安濃津城は西軍により開城されますが、富田氏は信高の妻の見事な槍働きもあって、寡兵ながらも奮戦したことを賞され、戦後加増を受けています。

関ヶ原の本戦では、毛利秀元(ひでもと)・吉川広家(きっかわひろいえ)の陣取る南宮山東端(なんぐうざんとうたん)の麓に1500の兵で布陣。

南方には長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)が布陣しています。

正家は開戦直前、浅野隊・池田隊と小競り合いとなったものの、本戦での戦闘に加わることはありませんでした。

ご存じ、毛利隊の『お弁当』によって、進軍不能となっていたのです。

午後になり、西軍敗北が決定的になると、正家もやむを得ず戦線離脱。

途中、壮絶な撤退戦を繰り広げる島津隊を助けるため、自分の家臣に命じて道案内をさせた、と伝わります。

自軍も危険な状況において、こんな気遣いができるなんて、正家ほんとにいい人・・・。

非業の最期

弟を失いながら、9月も末になった頃、ようやく居城・水口城へたどり着いた正家。

しかし間もなく池田輝政の弟・長吉(ながよし)の軍勢が城を囲みます。

池田長吉は、正家をはじめ城兵の命の保証と所領の安堵を条件に、正家に開城を迫りました。

正家もこれを受け入れて城を出ますが、よくあることながら約束は守られることなく、あえなく捕縛されてしまいます。

10月3日、正家は切腹。39歳、まだまだ男盛りの無念の死でした。

切腹に際し、介錯役(かいしゃくやく)の家臣について『殉死しないよう、諫めてやってほしい』と池田方に言い残したと伝わります。

最期まで気遣いの人だったんですね。

正家の首は京の三条橋で晒され、水口城は池田輝政・長吉によって略奪の限りを尽くされました。

財産は奪いつくされ、果てには三男を出産した直後の正家正妻・栄子も苛酷な凌辱(りょうじょく)に遭い、川べりに打ち捨てられて亡くなりました。

戦後、池田輝政が加増移封された姫路城では怪奇現象が続き、池田家にも妻子の相次ぐ不幸が次々と起こりました。

世の人々はこれを『長束正家の祟りだ』と噂したのです。

まとめ

没落した武家の子として生まれ、得意の算術で丹羽長秀・豊臣秀吉に重用された、長束正家。

槍働きはイマイチだったようですが、細やかな配慮と綿密な仕事ぶりで豊臣政権の実務を担い、その実力は徳川家康も認めていました。

本多忠勝の妹を妻に娶るも、関ヶ原の戦いに至る過程では、寝返り・日和見する者が続出する中で、一貫して西軍に与します。

しかし本戦では毛利隊・吉川広家の進軍妨害によって、戦闘に参加することなく敗走。

池田長吉によって捕らえられ、無念の死を遂げました。

その非業の死によって『池田家に祟りをなした』と噂されましたが、

それは裏を返せば、長束正家の実直な生きざま・誠実な人柄が人々にとって共感・同情を呼んだからではないでしょうか。

・・・みなさんの長束正家のイメージ、どうでしょう?好感度、アップしましたか?

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